第22話
夏と別れてから数分が経過した頃。
「……嫌な天気になってきたな」
青かった空に暗雲が立ち込め始める。
もちろんそれによって何か被害があったわけではないが、もしもの時のことを考えて警戒しておく必要はあるだろう。
まあ幸いなことにここに来る時に使った駅は既に視界の真ん中に捉えているので、俺がやることと言えば早く電車に乗って早く帰ることだけ。
何ならこの時間に暗雲が出て困るのはどちらかというと俺ではなく、このじめじめした雰囲気の中で海を見にいかなくてはならない夏の方だ。
そう考えると夏と喧嘩の末に途中で帰らなければならなくなったことも、そのせいで楽しみにしていた海を見れなかったことも、損ばかりではなかったのかもしれない。
「よし……」
駅前に到着した俺はそんな掛け声を口にする。
これは夏を置いて一人で駅に向かうことを決意するための掛け声ではなく、最後にプライドを捨てて夏の意思を確認する電話をかけるためのもの。
だがそれも敢えなく無視されたことによってようやく俺は確信する。
彼女には最初から俺と仲直りする気なんてなかったんだと。
「……行くか」
今度は正真正銘の夏を置いて一人で駅に向かうことを決意するための掛け声。
既に決意を固めていた俺はその掛け声を口に出した直後に、駅までの残り僅かな道を歩き出した。
しかしその時、恐れていた事態が起きる。
「冷たっ」
突然、水滴のようなものが俺の頬を流れた。
「これは……雨?」
次第にパラパラと体を打ち付けてくるようになったその水滴の正体はなんと雨。
さらにその雨は時間を待たずに大雨に変わる。
「……助かった」
そこで俺が焦りの言葉ではなく安堵の言葉を零したのは、さっきも言ったように駅が目と鼻の先にあったから。
それで雨による被害を全て防げたわけではないが、雨が降る直前にいたのが殺風景な道の真ん中ではなかっただけでもマシな方だろう。
とにかく帰ることに支障がないことは再確認できたので、このあと俺が取る行動はさっきと変わらず改札を潜って電車に乗るだけ。
自分で自分にそう言い聞かせた俺は気を取り直して改札のある方向に足を伸ばした。
「あれ……」
そう呟いた俺はまた途中で足を止める。
もちろん今度は雨のようなトラブルに見舞われたわけではない。
何かに引っ張られたわけでも、誰かに呼び止められたわけでもない。
というか自分でも足を止めた理由ははっきりとはわかっていない。
ただ一つだけわかるのは今度は自分の意思だけでこの足を止めたということ。
直後に俺の体は何かを思い出したように入ってきた方を向いて、さらにその理由を考えるよりも先に駅の近くにあったコンビニまで走った。
そしてそのコンビニで適当に選んで購入したビニールの傘を握りしめると、そのまま俺は雨が降り頻る海岸までの道を駆け出した。
時間は数えていないので正確にはわからないが、駅を飛び出してから大体五分ぐらいが経った頃。
「……夏!」
屋根とは到底呼べないような本当にただ雨を遮れるというだけの囲いの下。
予定のルートから少し外れたそこで俺は
「……祐樹、どうして」
俺の声に気づいて顔を上げた夏は怒っていたことも忘れてどこか安心した様子だった。
それがまた彼女に拒絶されたら、という俺の不安を綺麗に打ち消してくれた。
「……傘、持ってきてなかっただろ」
「うん……」
「そのことを思い出したら居ても立っても居られなくて……。だから、ほら」
適当に選んだ傘が二人で入るには少し小さかったが、差し出した傘に夏は戸惑いながらも入ってきてくれた。
その様子を最後まで確認した俺はそこで改めて彼女にあの言葉を送ることにした。
「……今日は遅刻してごめん」
今までのものとは明らかに違うと自分でもわかるくらいに感情が込もった謝罪の言葉。
それを聞いた夏は俯いたまま、でも観念したような声でこう言った。
「……私もごめん」
それから暫くの間、沈黙が流れていたが気まずくなることはなかった。
なぜなら雨と傘がぶつかる鈍い音が優しくその時間を埋めてくれたから。
俺たちがようやく落ち着いて会話をすることができるようになったのは、帰路について少し時間が経った後だった。
「海、見に行けた?」
「うん。その帰りに雨が降ってきたから。だから海はちゃんと見れたよ」
「そっか。どうだった?」
「うーん、あんまりだったかな」
「まあ、そうだよな……」
意地悪な質問になったことを口に出した後に気づいて少し後悔したが、夏はそれに不満を表すどころか申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「祐樹もほんとは海、見に行きたかったよね」
「正直そうだな。晴れてたら今から一緒に見に行けたんだけど、流石にこの天気じゃな……」
「その通りだね……。でも、一緒にか」
「ん?」
「いや、私はまだ許すなんて一言も言ってないのになって」
夏は意地悪そうにそう言った。
でもそれが本気で言っていないことくらいは馬鹿な俺でもわかる。
「えー。まだかよ」
「うんうん……嘘。ほんとはもう怒ってないよ。むしろまだ言えてなかったけど……追いかけてきてくれてありがとう。私、祐樹が来たってわかった時とっても安心した」
「そっか……」
「そう……。だからもう仲直り」
夏が恥ずかしそうに声に出した言葉は俺が今日ずっと聞きたかったもの。
「うん。雨が降ってくるまでは帰るつもりでいたけど、引き返して正解だったよ」
「そうだったんだ。じゃあこの雨には感謝しないといけないね」
「海の景色は台無しにされたけどな」
「うふふ。やっぱりそれだけは許せないね……。だから、祐樹」
俺の名前を呼んだところで夏は一呼吸置く。
そしてすぐにまた小さな口を開いた後、彼女は意を決したように言った。
「また来ようね……!」
多くの壁を乗り越えて辿り着いた場所。
そこには久しぶりに見る夏の笑顔があった。
「うん。今度は天気が良い日に2人で来よう」
「絶対また来ようね。約束だから」
「おう。約束だ」
一つの傘の下で肩を寄せ合いながら、お互いの気持ちを確認しあった俺たち。
もちろんそこにはもう喧嘩をしていた二人の姿はない。
いつものように元気で明るい夏がいて、その隣にははしゃいでいる彼女を少しでも濡れさせないように注意しながら歩く自分がいる。
俺はそんな海に匹敵するぐらいの綺麗な景色を肌で感じながら、必ずまた夏と二人で海を見に行こうと心の中で強く誓った。
◆
その日から数ヶ月後。
交わした約束は遂に守られることはなく次の夏を迎える前に俺たちの関係は終わり、約束のあの海も幻となった。
だから俺は記憶を無くした夏に砂浜のある海のことを聞かれた時、すぐには思い出すことができなかった。
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