幻の海

第19話 

 ショッピングモールからようやく自分の家に帰ってきた俺はジャケットを羽織ったままベットに体を投げ出した。

 そのとき感じたのは布団が柔らかくて気持ちいいとか、重たかった体が一気に軽くなったとか、ずっとこのままでいたいとか。

 トータルで見るとそこまで外にいた時間が長かったわけではないが、どうやら俺の心身は思っていたよりも疲労を溜め込んでいたらしい。


 俺はそこでゆっくりと目を閉じる。

 こういう時は何も考えずに眠るのが一番だろう。

 何なら今日はもうこのまま寝て明日を迎えるのもいいかもしれない。

 色々とやらなければならないことはあるが、今夜くらいは。


 そんなことを考えながら襲いくる睡魔に身を任せようとした。

 だがその時、ポケットの中に入れていた携帯が突然鳴りだして、俺はベットから飛び起きるはめになった。


「着信? まさか……」


 音が止む前に急いで携帯の画面を確認すると、そこにはまさに今俺が頭の中に浮かべていた人物の名前が表示されていた。


 中井 夏


 それを見た俺は思わず息を呑む。

 俺たちの携帯でのやりとりは基本的にはメッセージを送り合うか俺から電話をかけるかのどちらかしかなかった。

 つまりこれは記憶を無くした夏からかかってきた初めての電話だということ。


 そんないつもとは違う行動を取った夏に何かがあったのかもしれないと警戒してしまうのは別におかしなことではない。

 例えば今思いつくもので言うと、記憶に関してのこととか。


 何にしろ無視するという選択肢はありえないので、俺は嫌な予感がしながらも開始のボタンを押すことにした。


「もしもし……」

『祐樹くん、こんばんは』


 夏の第一声はそんなありきたりな言葉だった。

 だがこれだけで判断するのは性急過ぎるので、まだまだ油断はできない。


「こ、こんばんは」

『夜遅くにごめんなさい。かけた後で言うのも変ですけど今、大丈夫ですか?』

「それは大丈夫だけど、何かあったのか?」

『そうですね……。その、なんて言うか祐樹くんの声が……』

「俺の声……?」

『はい……。無性に声が聞きたくなって……』


 固唾を飲んで次の言葉を待っていた俺に送られてきたのは、そんな緊張感を欠片も感じさせない言葉だった。


「えっと……それだけ?」

『はい。それだけです。もしかして迷惑でしたか?』

「迷惑とかじゃなくて、用事があってかけてきたんじゃないのか?」

『いえ、本当に声が聞きたかっただけですよ。だって私は祐樹くんを信じてますから』


 確認のために再び口に出した問いにも、夏の答えは変わらなかった。


「そ、そっか……。そっかそっか……」

『どうしたんですか?』

「ごめん、なんでもないよ。ただちょっとびっくりしたってだけ」


 最初は頭が追いつかなかったが、それはつまりそういうこと。

 あの言い争いを経ても俺に対する夏の態度が変わることはなかったし、俺にとって都合の悪い記憶が戻ることもなかった。

 そのことに気づいた途端、自分の周りを覆っていた張り詰めた空気がみるみるうちに霧散していくのがわかった。


『私から電話したことはなかったですもんね。ほんとは昨日もかけようとしてて、でも恥ずかしくなって途中で諦めました』

「電話をかけるぐらい別に恥ずかしがることじゃないだろ。もう何回も話してるんだし」

『恥ずかしいものは恥ずかしいんですよ。会って話すのと電話で話すのは一緒じゃないですからね』

「そんなもんか?」

『そんなもんです』


 話しているうちに徐々に夏としていたいつもの会話を思い出してくる。

 夏の電話してきた目的は既に達成されていたが、俺はもう少しだけこの会話に付き合ってもらうことにした。


「今の夏はそうなんだろうな……。よし、じゃあせっかくだしもう少し話していくか。夏はさっきまで何してた?」

『あ、それ電話っぽいやつ……! でもそうですね……。ちょっと恥ずかしいけど、私は祐樹くんのことを考えてました』

「俺のこと?」

『はい。今日は楽しかったなとか、次は祐樹くんとどこに行けるんだろうとか』


 確かショッピングモールの帰り道に同じような話をしていたが、あの時は途中で夏の友達を名乗る二人が現れたせいで中途半端なままだった。


「そう言えば砂浜のある海の話、途中で止まってたよな」

『あ、確かそうでしたね。砂浜のある海がなんとなく頭に浮かんだからそこに行きたいって言おうとしてて……。だけど祐樹くん、心当たりはなかったって言ってませんでしたか?』

「言われた時はな。でも夏と別れた後に思い出したんだよ」

『ほんとですか……!』

「砂浜のある海。多分だけどあの日のことだと思う。って言うかあれしかない」


 少しタイミングが良すぎるかもしれないが、もちろんこれは夏のためについた優しい嘘ではない。

 俺は本当に砂浜のある海を思い出して、実際に夏と砂浜のある海に出かけたことがある。


『よかった……。海の記憶は私の気のせいじゃなかったってことですね』

「うん。どっちかと言えば俺の方が忘れてたみたいだ。次の目的地もまだ決まってなかったしほんと助かったよ」

『いえいえ。それよりも海に行ったってことは泳いだりもしたんですか?』

「泳ぐ? いや、そういうことはしなかったな」

『あ、そうだったんですね。海といえば泳ぎだと思ったんですが……。まあ楽しみなことに変わりはないです!』


 海と聞いて泳ぎを連想させるのはおかしなことではないが、残念なことにあの日の俺たちは海で泳ぐどころか水に触れることすらしなかった。

 まあ海は泳ぐ以外にも色んな楽しみ方があるので、彼女の期待には応えられるはずだ。


「……とにかくそういうわけだから土曜日の案内は俺に任せてくれ」

『毎回、祐樹くん頼りで申し訳ないんですけど、よろしくお願いします。これが記憶を取り戻す後押しになってくれれば良いんですけどね』

「どうだろうな。俺たちの思い出の中で夏が忘れてなかった数少ない記憶だからそうなってくれたらいいんだけどな」

『そうですね。私もいつも以上に頑張ります!」


 こうして三つ目の思い出の場所が決まった。夏が元気な姿を見せてくれたことも含めて、今は電話に出る前よりも心に余裕を持てている気がする。

 もちろん夏の知り合いの男女に関しての悩みもまだ残っているが、それも夏に会う予定ができたことでいつでも相談できる状態。

 解決に至るまでの道のりもここまで心の距離が近くなっている俺たちなら乗り越えられるだろう。


 とにかく予想外の事態にさえ遭わなければあとはいつも通りにするだけ。

 だから話題が一区切りついた今は電話を終えるのにちょうどいいタイミングだったが、俺たちはその後も何気ない会話を何度か繰り返した。

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