第17話 

 もちろん俺は夏と思い出の場所を巡ることになった時からある程度の事態は想定していたし、その時の大まかな対策も考えていた。

 だが夏ではなく他の誰かの介入によってこの関係が破綻してしまう可能性は全くと言っていいほど頭になかった。


「……元カレ? あなたは何を言ってるんですか? どういうことですかそれは」


 亀裂の上に叩きつけられた強い衝撃。

 今俺たち身に起こっている出来事を一言で表すなら恐らくそれ。


「どう言うことって、夏が言ってたんじゃん。別れたいって言われたって。顔は写真で見せてもらったから覚えてるし、その人が祐樹って人でしょ?」

「ど、どうして名前を?」

「まさか覚えてないの? 夏、泣きながら私に相談したよね?」


 夏は今までにないくらい戸惑った表情になる。

 だがそれもそのはず。

 その女が話しているのは今までのような身に覚えのない記憶ではなく、あっていいはずがない記憶だから。


「言われてみれば俺も見たことある気がする。そいつが中井の言ってたやつなんだろ? どうして隠そうとするんだよ」

「か、隠す……?」

「違うのか? それじゃあやり直したってことかよ。でもそれならなんでそう言わないんだ」

「さ、さっきからあなたたちは何を言ってるんですか。そんなの私は知りません。記憶にないです。そうですよね、祐樹くん」


 もちろん二人が言っていることは殆どが真実だ。

 そしてその真実は俺たちの関係を終わらせるには十分すぎるものでもある。


 だがどんな事情があったとしてもこんなところで腐っているままというわけにはいかない。

 俺が今するべきことは沈黙を貫くことではなく、自分の意見をはっきり伝えること。

 最初からわかっていたことだが、不意に耳に届いた自分の名前を呼ぶ声で改めてそう感じた。


 そこで俺は一度大きく深呼吸をする。

 そして早くも決心を固めた後、纏まり切っていないままの頭で次の言葉を決めた。


「……大丈夫。夏の記憶にないだけで俺たちはちゃんと恋人だよ」


 これを言うことでどんな結果が待ち受けているのかなんてわからない。

 でも一つわかることがあるとするならそれは俺の嘘は夏にはまだバレていないということ。


「あんたねぇ、もうこれ以上夏をたぶらかさないでよ! しかも恋人とかよく言えるわね、飽きて捨てたくせに」

「……何のことだよ。俺には君が何を言ってるのかさっぱりわからない」

「はぁ? 全部事実でしょ?」

「事実じゃないよ。適当なこと言わないでくれ」


 想像していたものとは随分とかけ離れているが、この状況も危惧していた言い争いが始まった結果だと言っても過言ではないだろう。

 なのに俺が真実を語ってこの場を収めようとしないのは、結果的にそれが記憶を取り戻すために夏を助けるという約束を破ることになるからだ。


「夏は俺のこと、信じてくれるよな?」

「もちろん私は……」


 俺が口に出した脅迫にも近い言葉に夏が頷きかけた時。


「もういい」


 そう言って俺たちの間に割り込んできたのはもう一人の男だ。


「お前そろそろいい加減にしろよ。中井の気持ちを弄んで傷つけて、それでまたやり直したってのか?」

「だからそれは……」

「しかもわざわざ学校がある日に呼び出して。今日はな、進級を左右するかもしれない試験があったんだぞ?」


 夏がどちらを信じるのかという方向に話が流れていくはずだったが、その男の一声でまたしても違う方向に逸れてしまった。


「中井はこの日のために何時間も勉強してた」

「勉強……」

「試験のことも勉強を頑張ってたことも、恋人だったお前が知らないわけじゃないんだろ?」


 男はさっきまでとは違って、諭すような声音でそう言った。

 だがもちろんここ1ヶ月の間はほとんど夏に関心がなかった俺がそんなことを知っているはずがない。


「……さあ、どうなんだろうな」

「なんだよその投げやりな態度は。もしかしてふざけてんのか?」


 もちろんふざけているわけではない。

 むしろ四人の中で一番この状況をなんとかしたいと思っているのは、言い争いが長引くことで夏からの不信感が高まる俺だろう。


 だが二人の態度や、今までの会話を見たら分かる通りまだこの空気を一変させるような打開策を見つけられていないというのが正直な現状。

 逆に現時点でわかっていることはがむしゃらに会話しているだけでは反論が繰り返されるだけだということと、黙り込むのは隙を見せるだけなので論外だということ。


 つまり今の俺は八方塞がりの状態だった。


「別にふざけててもいいよ。でもこれでわかったでしょ。こいつは夏のことを何も考えてないって」

「だから俺はただ……」

「何よ。まだ何か言いたいわけ?」


 二人の鋭い視線が俺を射抜く。

 そこで窮地に追い込まれていくのをじわじわと自覚し始めていた時。


「もうやめてください……!」


 三人の間を突き抜けたその声は間違いなく夏のもの。

 だが自分の耳を疑ってしまうほど、その声には聞き慣れない迫力があった。


「どうしてそんなひどいことを言うんですか。どうしてそんなひどい嘘がつけるんですか」

「夏……! やっぱりわかってくれたんだね……!」

「本当によかった。俺たちはずっと中井を心配して……」

「あなたたちのことなんてもう知らないから……!」


 激昂していた二人は夏の言葉を聞いた瞬間、時が止まったように固まる。


「あ、あなたたちって……」

「ほ、ほんとにどうしちゃったんだよ。なんか今日は中井らしくないぞ。いつもなら俺たちのことを真っ先に信じてくれてたのに」

「そ、そうだよ。夏は私たちといた方が絶対に幸せになれる。だからそんな最低な奴とは縁を切ってまた学校に来てよ」


 赤の他人の俺が聞いても絆を感じる二人の説得。

 だが言われた本人は一切表情を変えなかった。


「学校には早くいきたいですし、友達にも会いに行きたいです」

「それなら……」

「でも私にあんなにも優しくしてくれた祐樹くんを最低だなんて平気で言えるあなたたちは友達なんかじゃ……」


 夏の口から飛び出した言葉。

 それを聞いた俺は反射的に目を瞑った。


「……多分ないと思います」


 今までの二人の言動は全て夏を想っているからこそ出たものだった。

 夏の目にどう映っていたかはわからないが、少なくとも俺の目にはそう映った。


 つまり何が言いたいのかというと、最終的に夏の心を揺らしたのは二人の夏を想う気持ちではなく、短い時間を共に過ごした偽りの恋人の卑怯な嘘だった。


「な、なんか今日の中井は変だぞ。もう少し冷静になって考えてみろ。いつか絶対に後悔する時が来る。そうだよな、久保田」

「……」

「だ、だから俺たちを信じてくれ。いつもの中井に戻ってくれ」


 そう言って友人を名乗る男は諦めずに夏の方に手を伸ばそうとする。

 だが何を思ったのか、近くにいたもう一人の女が夏に届く前にその手を掴んで静止させた。


「は? 何だよ久保田」

「……もういいよ、健太けんた


 女はさっきまでの勢いが嘘のように冷たい声でそう言った。


「もういいって、いいわけないだろ。ここで諦めたら最後になるかもしれないんだぞ」

「そんなのわかってる。でも突き放したのはどう見てもあっちでしょ。だからもういいじゃん。こんな奴らほっとこうよ」

「け、けどさ……」

「それに私は友達にも言って良いことと悪いことがあると思う。なのにあんなことを平気で言える夏はもう……友達じゃないから」


 友達を名乗る女が夏に送り返した言葉。

 それは単なる悪態ではなく、はっきりと突きつけた絶縁状だ。


「それならもう帰ってください」

「言われなくてもそうする」


 夏がその絶縁状を何の迷いもなく受け取ったのを合図に、その女は俺たちが元来た道に向かって歩き出した。

 こちらも迷いのない足取りで。

 まだ夏に対して未練を残しているようだった男も、その女に掴まれていた腕を引っ張られたせいで程なくして足を動かし始めた。


「……おい久保田、本当にこれでいいのか?」

「いいんじゃない、別に。まあでも最後に元友人として言っておきたいことはあるかな」


 久保田と呼ばれていた女が俺たちとすれ違うちょうどその瞬間に一度だけ夏の方を視線を向ける。


「なんか変わったね、夏」

「私は私です」

「あっそ……」


 そんなやり取りを最後に二人の姿が完全に俺たちの視界から消えた。


 直後に俺の周りを心待ちにしていた静寂が包む。

 その中で落ち着きを取り戻した俺が一番初めに感じたのはもちろん夏に信じてもらえたことへの嬉しさではない。

 夏を信じさせてしまったことへの罪悪感だ。


 いつか夏の記憶が戻る日が来たとしても、もうこの三人は元の関係には戻れないかもしれない。

 俺の身勝手な嘘のせいで。


「……大丈夫か?」


 恐る恐る話しかけてみると、夏は前を向いたまま口を動かし始める。


「……大丈夫、だと思います」

「思う?」

「うーん……なんだか胸の辺りがまだ苦しいんですよね。なんでだろう。二人が去っていった時は清々したと思ったんですけど」

「それは夏が優しいから……」


 俺はそう言いかけて途中で止める。


「……いや、そうじゃないよな。あの時俺が進んで否定しなかったから。だから俺の代わりに夏が怒ってくれてたんだよな……」

「あの人たちが言っていたことは今でもよくわからないけど、同じ状況なら夏さんも私と同じように怒ってたと思いますよ」

「だからあんなことを?」

「はい。何か変ですか?」


 もちろん「おかしい」なんて事実はいつも通り言うことはないし言えるわけがない。

 ただ今回ばかりは嘘で「おかしくないよ」とも言えなかった。


「……とりあえず俺たちも行こうか」

「そうですね」


 複雑な表情を浮かべながらそう返事をした夏。

 それから俺たちは一言も言葉を交わさないまま家までの帰路を渡った。

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