第14話
「ど、どうしたんですか……?」
「俺が言いたいのはそういうことじゃないんだよ……。何回も言っただろ……? 君は夏なんだって。同じ人間なんだって」
「同じ人間……」
「そう。だからそのままでもいいんだ。無理に合わせようとしなくてもいいんだよ。君は君のままでいいんだ。だって、それが夏なんだから」
どれだけ多くの記憶を無くしても、それで何かが変わっても、彼女は彼女。
俺は俺のせいでそんな当たり前のことも忘れてしまった彼女に向かって、自分でもよくわからないくらい感情的になって吠えた。
「私は私でいい、か……。確かに普通はそうなのかもしれませんね」
「普通は……?」
「実は自分でもまだよくわかってないんです。お母さんに夏さんがどんな人だったのか聞いてもピンとこなくて。何となく試したりもしたんですけどやっぱりうまくできなくて。そしたらますます自分が何者だったのかわからなくなって……」
こうやって彼女の心に踏み込めば踏み込むほど今までの自分の幼稚さが浮き彫りになり、それと同時に後悔の念が溢れ出てくる。
もっとちゃんと彼女と2人で話し合っておけば、最初からちゃんと彼女のことを知ろうとしていればことにはならなかったかもしれない、と。
「……気づいてあげられなくてごめん。でも俺は恋人だったから君のことならなんでも知ってる。今までの君はちゃんと、俺の大好きな夏だったよ」
「そ、それはほんとですか……?」
「ほんとだよ。嘘だったらこんなに必死になって説得するわけがない」
「じゃ、じゃあ祐樹くんはこんな迷惑ばっかりかける私を夏さんみたいに好きだって思ってくれてるってことですか……?」
彼女とあまり深く関わらないようにしていた以前の俺ならこんな時、何も考えずただ適当に返事をしていただろう。
しかし彼女と過ごして、彼女とたくさん話して、そして彼女が記憶喪失のことで悩んでいたことを知ってしまった今は違う。
「君が……いや、夏。俺は夏が好きだよ」
考え抜いた末に俺はそう答えた。
もちろんここでどんな言葉をかけるのが正解だったのかなんてわからないし、今の言葉が正解だとも思っていない。
ただ記憶喪失になった彼女の存在だけは認めてあげてもいいと思ったから、はぐらかさずに答えた。
もしかしたらその殆どは罪悪感から出た優しい嘘だったかもしれない。
あるいは元恋人のためということを認めたくなくて出た醜い意地だったのかもしれない。
しかし夏のためではなくあくまで記憶を無くして困っている彼女のため。
自分にそう言い聞かせると不思議なほどにスッキリと気持ちが収まっていく感覚に陥ったのもまた事実だった。
「嬉しいです……。本当に嬉しいです……」
「俺たちは恋人だった。その事実だけあれば何も怖がることはないよ」
「そうですよね。私は祐樹くんの恋人なんだからあれこれ悩まなくてもよかったんですよね」
彼女は笑顔を浮かべる。
それは作り笑いではなく、水族館やショッピングモール内で見せたあの無邪気な笑顔だった。
「じゃあ色々あったけどさ、ここからまた恋人として1から始めてみるか。去年のクリスマスみたいに」
「去年のクリスマス、ですか?」
俺の言葉に心当たりがなかったのか彼女は少し首をかしげる。
「うん。いつ言おうか迷ってたけど実はその日にこの場所で夏に告白したんだ。ちょうどさっきの俺たちみたいに」
「へぇ、ショッピングモールに来たのはそういう理由もあったんですね。でもごめんなさい。大事なことなのに何も思い出せないみたいです……」
「自信あったけど告白の記憶はだめか。うーん、他に何か……あ、そういえばあの日は告白した後にハグもしたっけ」
その言葉に彼女は「ハグですか!?」と驚いたような態度を見せる。
「その反応はやっぱり思い出せてないみたいだな。まあハグなんて数えきれないほどしてるしこっちの方は期待はしてなかったけど」
「そ、そうですね。その通りです……」
「それに安心してよ。俺はただ覚えてるのかが気になっただけで、別に今からそれを再現しようって言ってるわけじゃないから」
流石にハグは恋人っぽいことに積極的な彼女でもハードルが高いだろうと思って俺は誤解を解いた。
だが彼女は何故かその後も何かを言いたそうにチラチラとこちらの様子を伺ってくる。
それに居た堪れなくなった俺が我慢できずに「どうした?」と尋ねると、彼女は顔を下に向けたまま目だけを俺の方に向けてこう答えた。
「……やっぱりハグ、してみませんか?」
予想外の提案に俺は言葉を失いかける。
「……本気か?」
「何か思い出す可能性もあるしそれに私、祐樹くんとなら嫌じゃないっていうか……。そ、それとも祐樹くんは私とじゃ嫌ですか……?」
「いや、そんなことはないよ。ただ無理してないか心配だったってだけ。けど夏がいいって言うならほんとにやってみるか? ハグ」
「は、はい……。もちろんお願いします……」
「……わかった」
自分から提案したにも関わらず、彼女は少し上擦った声で返事する。
そんな彼女を見て危うく俺も元恋人のことを意識してしまいそうになる。
だがこれはただ目の前にいる彼女の記憶を取り戻すためにすること。
手を繋いだ時と同じでそれ以外に何か特別な意味はない。
俺は心の中で繰り返し自分にそういい聞かせた後、覚悟を決めて一歩前に出た。
彼女はそれが合図だと気付いてくれたのか、開けていた目を閉じて俺を迎え入れるようにゆっくりと両手を広げる。
もちろん彼女が途中で拒否反応見せたらすぐに中断しようと思っていたが、これはもう警戒する必要はなくなったと見ていいだろう。
そして辺りになんとも言えない空気が漂う中、遂に二人の体が触れ合った。
そこでさらに俺が彼女の背中に手を回してみると、彼女も同じように、でもどこかぎこちなく俺の背中に手を回してきた。
「祐樹くん……」
耳元で囁かれた彼女の甘い声。
その声が奥底に閉まっておいた最後に夏と抱きしめ合った日の記憶を鮮明に思い出させる。
その時の抱擁は良く言えば友人と握手をするような、何気ない言葉を交わすような、そんな自然なものだった。
だが悪く言えば感動も何もない、むしろ早く終わってくれないかと願ってしまうような、そんな残酷なものでもあった。
そしてたった今、俺の腕の中にいる彼女とその時の夏は同じ人間。
見た目も、髪の感触も、体の大きさも、体温も、鼓動も、匂いも、何もかも全てあの時と同じ俺の元恋人。
つまり今の俺が彼女を抱きしめたら、あの時に感じていたようなどうしようもない虚無感が再び降りかかってくるはずだった。
彼女と密着する直前までの俺はそれを信じて疑わなかったし、何ならあの時と同じでなくてはならないという使命感みたいなものや、苛まれていない方がおかしいという固定観念みないなものまでもが根底にはあったと思う。
それなのに、
それなのに俺は一体どうしてしまったのだろうか。
「夏……」
どうしてあの時とは違ってこんなにも満たされた気持ちになってしまうのだろうか。
「……何か、思い出せたか?」
「いえ……でも……」
彼女は俺の胸に埋めていた顔を上げる。
「幸せだったことは、思い出せた気がします」
その瞬間、短い二人の関係が本当の始まりを告げる。
それは早ければ明日終わるかもしれない既に亀裂が無数に入った壊れかけの関係。
些細な変化でいとも簡単に崩れ落ちてしまうもの。
でも俺はそれでもいいと思った。
一瞬だけでも、嘘だらけでも、終わり方が悲惨でも、俺はこの優しくて儚い彼女の、夏の側に居たいと思ってしまった。
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