第8話
誤魔化さずにそう伝えると、夏は苦笑いしながら「もう!」と可愛く悪態をついた。
大切な約束を忘れていたことを怒られると思っていた俺はそんな彼女の態度を見て少し引っ掛かりを覚えたが、気になっていた約束の中身のことを改めて聞こうとはしなかった。
俺の目から見た彼女の笑顔がどこか悲しみのようなものを帯びていたような気がしてならなかったから。
そしてそれ以降は偶然か必然か夏もその話題に触れることはなく、何気ない日常の会話だけで食事は進んでいく。
その間で夏がまた行きたいと言っていた場所のことをなんとか思い出せないか試みたが、残念ながら料理を食べ終える方が早かった。
会計をして店を出た俺たちはその後、俺の提案で大通りを少しそれたところにある人気の少ない道を歩くことになった。
この時間の街は行きの時とは違って街灯の光が幻想的な光景を生み出している。
それに誘われたのかはわからないが、たまにすれ違う人の殆どは男女のカップルで皆同じようにこの雰囲気に呑まれていた。
一方で俺たちはというと周りとは大分違った。
簡潔に言えば一定の距離を開けて歩いていた。
もちろん俺たちだって正真正銘のカップル。
さっきのことを引きずっているわけでもない。
だというのにこんな状況になっているのにはもちろんちゃんとした理由がある。
何ならそのために俺は今日、夏と食事に行く約束をした。
「夏、話したいことが……」
そう言いかけた時、不意に俺の前に夏の手が差し出された。
「その前に手、繋がないの?」
「いや……ああ、そうだな。忘れてたよ」
その手を戸惑いながらも掴むと、そこにはいつもと変わらない手があった。
小さくて柔らかくて暖かい夏の手が。
それが俺の決意を少し鈍らせる。
「……なあ、夏」
「ん?」
「楽しかったな」
空気を変えようと口に出した言葉に夏は「そうだね」と、そっけなく答えるだけでそれ以上何かを言う素振りを見せなかった。
なんとなく盛り上がることを想像していた俺はそんな彼女のらしくない態度を見て少し不安を覚えるが、俺はそこで同時に違う見方が出来ることにも気づく。
話したいことを切り出すならチャンスは今しかない、と。
少し遅れてそれを確信に変えた俺は「だけど俺……」と、そこまで言いかけた時、どういうわけかそれを遮るように夏が口を開いた。
「もうすぐで一年だね」
その言葉が何のことなのかは考えなくてもわかる。
俺たちが付き合ってから現在まで歩んできたかけがえのない日々。
それがもうすぐで一年目という記念すべき日を迎えようとしている。
だからもうすぐで一年。
もちろんその一年という文字はただの飾りではなく、その間に二人で出かけた場所は数えきれないほどある。
その分、二人で培ってきた思い出も溢れるほどにある。
何より俺は明るくて元気で、よく笑ってよく喋って、でも時々我儘な一面を見せることもあるそんな夏が好きだったし、夏も俺の側にいられることを心から喜んでいたと思う。
そしてそんな幸せな真只中だった俺は夏との恋人関係がこの先も変わらず続いていくことを疑うことなどなかったし、一年目の記念日を笑顔で迎えられると本気で信じていた。
恐らく夏もそうだっただろう。
もちろん今の夏もそう思っているかどうかはまた別の話だが、今日の態度を見ているともしかしたら今もまだ俺のことを信じてくれているのかもしれない。
或いはもしかしたら彼女は今もまだあの頃と変わらず俺のことを本気で好きでいてくれているのかもしれない。
そう考えると一言では言い表せないような申し訳なさが心の底から溢れてくる。
嬉しさではなく、申し訳なさが。
つまり何が言いたいのかというと、俺は夏との関係に飽きが来ていた。
そう言えば聞こえはいいが、結局は俺が彼女のことを好きではなくなったということ。
そしてこの時間はそのことを伝えるために用意したものだ。
もちろん彼女は何も悪くない。
悪いのは俺だ。
あの頃のはしゃぎ方も、ドキドキする手の繋ぎ方も、過去に交わした小さな約束も、全て忘れてしまった俺のせいだ。
その事実を告げることで彼女を傷つけてしまうことは当然わかっている。
それが彼女への裏切りだということも、もう二度と同じ関係には戻れないということも。
だがそれらのことを理解していても尚、俺は出来なかった。
無くなった気持ちに見て見ぬふりを続けることの方が。
だからはっきり言う。
俺はもう夏と恋人でい続けることは無理だと。
さっきまで迷っていたが、俺はようやく決心した。
ここで真実を打ち明ける。
たとえ夏に恨まれたとしても。
なぜならそれがお互いにとっての最善の選択だと信じているから。
そこで「その日何しよっか。実は……」と夏が言いかけた言葉を今度は俺が遮った。
「夏に言わなくちゃいけないことがある」
その言葉に夏は下を向いたまま頷いた。
付き合った最初の頃は毎日でも会いたかった。
それがいつしか三日に一回でもいいと思うようになり、徐々に一週間に一回でもいいと思うようになり、遂には会うのも面倒臭いと思うようになり。
お互いの家が遠いわけではない。
学校やバイトで忙しいわけでもない。
もちろん彼女のことを嫌いになったわけでもない。
それなのに休日に遊び行こうと駄々をこねる夏を鬱陶しく感じて、何週間か会わなければ自然と溢れてくるだろうと思っていた夏に対する愛情はいつまでも空っぽのままで。
結局、我慢して寄り添おうとしても心だけが追いついてこないという残酷な事実を思い知らされるだけだった。
そんな彼女の側にいて得られるものは虚しさだけだ。
俺はそこで一度大きく息を吸いこむ。
今日改めて夏と接してみてわかったこと。
俺と夏はもう恋人ではいられない。
だから俺は繋いでいた手を離す。
そして夏に、
別れたいと言った———
◆
その1週間後、彼女は記憶喪失になった。
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