第2話
「うーん、やっぱり裕樹君と会っても何も思い出せないみたいねぇ」
夏の様子を見て小さくない衝撃を受けていると、横から夏の母親がやれやれといった感じで声をかけてくる。
「夏は本当に記憶喪失なんですか……」
「そうなのよ。びっくりしたでしょ?」
「はい……。正直まだ頭が追いついてません」
冗談ではないのだとしたらあり得ない変化だった。
それこそ記憶喪失という珍しい状態を当てはめない限りは。
「私のことはなんとなく母親だってわかるみたいだけど、大学のこととか友達のこととか、さっきみたいに裕樹君のことも。私の知ってることは話してはみたんだけど何も覚えてないみたいなのよ」
「あの夏が……」
まだ実感のようなものはないが、夏の母親の真剣な態度や夏の様変わりした姿を見せられたらもはや残っていた疑念は無くなる。
夏は記憶喪失になった。
これからはそれを前提に話を聞く必要があるだろう。
「それでもう察しはついてると思うけど祐樹君には夏の記憶を取り戻す手伝いをしてほしいの。祐樹君を見ただけじゃピンとこないみたいだし、先生もきっかけが必要だって言ってたから」
「きっかけ、ですか」
「難しいことを頼んでるのはわかってるけど、裕樹君にお願いしてもいいかしら?」
「はい。俺にできることがあるならもちろん協力しますよ。記憶喪失になったとはいえ恋人だったことに変わりはないですから」
夏の母親は俺が即諾したことを「よかったぁ」と嬉しそうにする。
だが客観的に見て恋人という関係は記憶を取り戻すのに最適だと思うし、そもそも普通の恋人同士なら断る理由がない。
「夏の記憶が戻って欲しいのは俺も同じですしね。でも俺は具体的に何をすればいいんですか?」
「そうねぇ……。やっぱり1番は思い出の場所を巡るとかかしら」
「思い出の場所ですか?」
「懐かしいものに触れると良いって先生が言ってたから。二人は恋人だしそういう場所は結構思いつくでしょ?」
夏の母親が言いたいのはつまり、付き合ってた頃によく二人で行っていた場所や印象に残っている場所などに夏を連れて行けということ。
それをきっかけにして夏の記憶を取り戻そうという試みらしい。
「なるほど……」
「もちろん私の方でも色々と試してはみるけど、人手が多いに越したことはないからね」
「わかりました。俺が思いついたところに夏を連れて行けばいいんですよね? 夏がいいなら俺もそれで大丈夫です」
夏の母親の説明がわかりやすく、且つ納得できるものだったおかげで話はとんとん拍子に進んでいく。
もちろん口答えするような場面が出てきたとしても、恋人だった子の母親に言い返そうなどとは思わなかっただろうが。
とにかく俺は話が一段落したのを見計らってもう一度夏の方に目を向ける。
「あー、えーっと……自分の名前はわかるよね?」
「わかります……」
「いきなりこんなこと言われて戸惑うかもしれないけど俺と君は恋人同士だったんだ。付き合ってもうすぐで一年経つぐらいのな。自分で言うのもあれだけど仲は良かった方だと思う」
俺は事実だけを淡々と話す。
だが彼女は心当たりがなかったのかあまり表情を変えない。
「はい、お母さんから聞きました。でもすみません、何も覚えていなくて……。えーっと、祐樹くん? でよかったですか?」
「前は呼び捨てだったけど……まあいっか。その呼び方で構わないよ」
「じゃあ、裕樹くん……」
「うん。俺のことは徐々に思い出してくれればいいから。それに今は恋人って思わなくてもいいし。普通に友達って感じで接してよ」
俺が優しくそう語りかけていると、彼女は少しだけ表情を柔らかくした。
まだ問題点はいくつか残っているが、ひとまずこれで記憶を無くした彼女の警戒心を解くことはできたと見ていいだろう。
そこで俺は夏に向けていた視線を再び夏の母親の方に戻す。
「夏を思い出の場所に連れて行くのは任せてください。でも俺はこの後直ぐ大学の授業があるので今日はこれで失礼します」
「あ、そうだったの。わざわざ来てもらったのにごめんさいね」
「いえ、俺も夏が大変な時にすみません」
「それくらい全然いいのよぉ。じゃあまた夏の携帯で連絡するからその時はお願いね」
短く「はい」と返事をした俺は、ばつの悪さを感じながらも病室を後にした。
一人になった俺は学校に着くまでに発生する空いた時間を使って、夏の母親に言われた思い出の場所という言葉を改めて思い起こす。
あの時は咄嗟のことで直ぐには思いつかなかったが、もちろん約一年という交際期間の中で俺たちが出かけた場所は数え切れないほどある。
その中で俺が記憶を無くしている彼女を連れていくとしたらやはり初めてデートした場所か、もしくは告白をした場所か。
時間をかければもっと色々な案が出てくると思うが、とりあえずそのどちらかから選ぶなら最初は初めてデートした場所が妥当だと思う。
約1年前に行った隣の県にある大きな水族館。その時はまだ付き合ってなかったので思い切って誘ってみたら承諾された、いわゆる思い出の場所。
そこですんなりと記憶を取り戻してくれればいいのだが、効果がなかったら2度目もあるかもしれないのでそこは覚悟しておかなければならない。
まあ何にせよ俺は夏の母親から連絡が来たらまずはそこに夏を連れて行こうと決めた。
「はぁ……」
決意をした直後に俺の口から零れたこれは冷静になるための深呼吸ではなくため息だった。
何故そんな場違いなものが今、零れたのか。それはもちろん吐いた自分一番よくわかっている。
俺たちからしたら何でもないようなものが夏からしたら身に覚えのない奇妙なものに見えている。
それは約一年間恋人だった俺の存在も含めて。
だから記憶を無くした今の彼女が何を考えているのか、彼女とこれからどう接していけばいいのか、今はそれさえも考えるのが難しい状況。
だがそんな状況だからこそ元の元気だった彼女に会いたいという気持ちを持っている周りの人間、家族や友人、恋人が率先して彼女の手助けに尽力していかなくてはならない。
むしろどんなに苦労したとしても自分がその周りの人間に入っていると思うなら俺はそう考えるべきだとも思う。
当然、俺が夏の恋人なら同じことを考えていただろう。
いつもの日常に戻るためならたとえ何日かかろうと出来ることを探して尽力していくと。
それは俺もちゃんと理解しているし、行動にも移すつもりだった。
本当に夏の恋人なら、だが。
「あぁ」
何もない空を見上げる。
「めんどくさ」
俺たちの恋人関係は1週間前に既に終わっていた。
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