第一部第三幕 群狼の血Ⅳ
暗い部屋の中、僅かな、それもゆっくりとした揺れを感じながら、田中始は目を覚ました。部屋の扉はノブが外されており、田中の両手両足には手錠が掛けられている。港を彷徨っていたあの時、後頭部に衝撃を感じ、そのまま気絶してしまったようだ。田中は己の不覚を恥じながら、じっとチャンスを伺っていた。
足音――。
田中はその音が示す軽快なステップから、西谷がやって来たのを感じた。扉が開く。真っ赤なスーツ、正真正銘の西谷である。
――田中ちゃあん。目え覚めたかい。
――何の用だ。
――朝飯と新聞配達やでえ。
――新聞?
田中の足元に菓子パンの袋と、新聞が投げ出される。
――表はえらいことになっとるでえ。
田中は新聞を拾い上げると、さっと目を通す。
『抗争勃発!』
『死傷者まで発生か?』
『逮捕者多数。警察も本腰か』
――……西谷、お前何が目的だ。
――それを聞いてどないするんや。お前はここから動かれへんで。
――それなら、俺をここに拘束する理由はなんだ。何か意味があるんだろう。
西谷はにっと笑った。
――それはもうすぐ分かるで。食えや。
――チッ。
田中は菓子パンを拾い、食べ始めた。
――お前、東堂会はこの先どうなると思う?
西谷が問う。
――何の話だ。
――馬鹿な俺の予想だとな、警察に全員捕まって終わりや。
――お前が仕掛けたからだろう。
――いいや、違うね。一旦恨まれたもんは、死ぬまで恨まれ続けるんや。今まで散々人を痛め付けてきたもんが、これでお終い良い人間になります言うても、それで納得すると思うか。
――……。
――会長はもとより、大友も勘違いしとる。悪い奴らをそぎ落とした所で、どうにもならんで。
――なら、お前は何なんだ。
――俺か。俺は好きにやっとるだけの阿呆よ。
――お前にも考えがあるんだろ。
――……時代は勝手に変わるで、田中。何をやっててもな。勘違いしたらアカン。イケイケになれるんは、時代が己を選んだだけや。己が選ぶんやない。時代が選ぶんや。分かるか。
――だから、何の話だ。
――どれだけ利口になっても、そっからはみ出すもんはおるんやで。好きにやろうやないか、なあ。
――一体……。
――食い終わったな。立てや。
田中が立ち上がると、西谷は鍵を取り出し、田中の手錠を外した。
――何の真似だ。
――ついてこい。
西谷は部屋を出る。田中は後に続いた。
部屋から出ると、通路の照明が田中の目を眩ませる。西谷は構わず歩いて行った。その通路は、金属の壁に、木造りの床。どこからともなく、揺れが伝わって来る。それは左右への揺れか。この構造物全体が大きく傾いているような感覚だ。
田中は西谷を追い掛けた。
――お疲れ様です!
時折、西谷の手下が顔を見せる。彼らは田中には目もくれない。ここは西谷組のアジトか。逃げ出すことは出来ないだろう。田中はそう思い、西谷に大人しく従った。
西谷は時折、梯子を使って上の階に登った。階段はないのか。田中は不思議に思ったが、黙っていた。
いくつかの通路を通り、梯子を登ると、最後に、西谷は鉄造りの扉を開いた。
風。
湿気と磯の匂い。
外に出ると、田中はようやく気付いた。
目の前に広がっていたのは、巨大な湖か。違う。これは海である。己が今まで閉じ込められていたのは船の中だったのである。
――西谷、お前、海の上にいたのか。
――そうよ。ようやく気付いたんか。
――廃船間近のを、買い取ったのよ。ちょっと走って、浮かんどりゃええってな。
――いくらしたんだ。
――金何ぞもうどうでもええやろ。それより……。
西谷は近くにあった岸壁を指差した。
――大体、あっこまで二百メートルや。田中、お前カナヅチやないやろな。
――あ、ああ。
――じゃあ、近藤によろしくな。
西谷は田中を両手で持ち上げると、海に放り投げた。
田中の目の前に海が広がる。
着水。
鼻にまで水が入って来るのを、急いで息を吐き出し、留める。平衡を失ったが、光の方へ田中は浮上していった。
浮上。
酸素を思い切り吸い込み、息を整える。
田中は目の前にフェリーを捉えた。西谷が甲板上から手を振っている。
――覚えてやがれ。
田中は小さく呟くと、岸壁に向かって泳ぎ始めた。
第三幕 終幕。
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