一章:イスパニア王国

第7話「潮騒に回る目」

 港町「ラ=エントラーダ」よりイスパニア王国の王都「トーレ」へ向け、一隻の船が出航した。嵐の去った直後とは思えないほどに海模様は穏やかで、船の帆が風を受ける音、そして潮騒だけが聞こえてくる。


「おいジーナ、大丈夫か?」

「うぇぇ…気持ち悪イ…」


 ウィレムは船の甲板から半身を乗り出し、うなだれているジーナの背中を優しくさすってやる。船が出てからこの少女は何度内蔵を裏返したのか、ウィレムはもちろん、とうの本人にももはや分からない。


「兄ちゃんのほうはもう慣れたか!」

「ええ!なんとか!」


 甲板の高い方から船主が大声で呼びかけてくる。


「ジーナ、もう少ししたら慣れるはずだ、…俺は三回くらいで慣れたからよォ」

「喉ガ焼けるみたいダ…」


 ジーナは生まれてこのかた船に乗ったことは無く、初の乗船が今日この時である。船酔いの苦しみは誰もが通る道であることはウィレムもその経験からよく分かっていたが、それでも今までに無いほど顔を苦痛と吐き気に歪めたジーナの様にウィレムは心を痛めながらも、これしかできることはないと、背中をさすってやり続けるしかなかった。

 先刻店で買ったミルクも真夏の日差しですっかり固まってしまって飲ませようにも飲ませられない。


「ダニエルさん!トーレまであとどれくらいですか!

「陽が沈む頃には着くぞぉ!!」


 …陽が沈む頃。思ったよりかは早いが…空を見上げてみると太陽はまだ空の中心からようやく傾き始めたばかりで、「陽が沈む」にはまだまだ時間がかかる…つまり、ジーナの船酔い地獄はまだまだ続く…ということだ。


「も…もういい、泳いデ…トーレまで行ク…」

「馬鹿かおめェは…そんなことできんのは人魚くれェだぜ…酔いすぎて判断力がにぶってるぞ」

「じゃあ…あたしも人魚ニなる…!」


 …駄目だこいつ。完全にいかれちまっている。手におえんしジーナには悪いが少し気絶してもら…


「おい!服を脱ぐな!飛び込もうとするな!!」

「とめるナァァ!!もう嫌なんだよォォ!!」


 ウィレムは海に飛び込もうとするジーナを羽交い締めにして押さえつけるが、ジーナもそれで大人しくなりはしない。振りほどこうと全力で暴れ始めた。


「嬢ちゃん!!飛び込む前に良いことを教える!」

「ちょっ…ダニエルさん…!」


「この近辺に伝わる話なんだけどなぁ」


 何を考えてるのかと言わんばかりに舵を握ったまま語りだしたダニエルをウィレムが一瞬だけ睨むが、船長は構わず話を続ける。


「この海域は別名『牙の海』と呼ばれている!それが何故かわかるか!飢えたサメが船底に噛み付いて!抜けたキバが船に深ーーく食い込むんだ!!船でさえそうなるんだ!嬢ちゃんみたいな柔らかそうな奴がこの海に飛び込んだら!!どうなるか考えておけ!」


 今にもウィレムの拘束を振りほどかんほどに大暴れしていたジーナも、その話で肝を冷やしたらしく急に大人しくなった。


「分かった…分かっタよ…」

「…少し寝てきたらどうだ?トーレに着いたら起こしてやるよ」

「じゃあ…そうすル…」


 ジーナは船に乗り込む時に通りかかった船長室の中に仮眠用のソファーがあったのを思い出したようで、ダニエルから許可を得るとまっすぐ船の中に入っていってしまった。


 ジーナが去り、ひとり残されたウィレムの耳には、ただ穏やかな潮騒、ウミネコの鳴き声…そして船長の音痴な鼻歌だけが飛び込んでくる。


「生まれ変わりの…精霊ねェ…」


 イサベルの残した翻訳が正しいとするなら、大自然の力が魂に憑依し、魂を核とする形で精霊が誕生するのだろうか。

…だとしても、ジーナの感覚も、そして俺の感覚も正しいという確証は無い。とにかく客観的情報が不足している。…少しでもあの精霊が遠くに行ってしまうまでに…なんとかたどり着きたい。それで…


コロン!


「ん?」


 物思いに耽っていたウィレムの靴に、何かがぶつかった。


「なんだ?」


 親指と人差指で作った輪に収まるくらいの深緑色に煌めく石だった。


「…ふむ…ただの石じゃないらしい」


 その石が放つ輝きは、ウィレムに深い深い原生の森を想起させた。ヒトの手など入る余地のない、世界の初期状態たる緑だ。

 ジーナがこんなものを持っているはずはないし、ダニエルの私物と言う線も薄い…ということは…


バタン!! 


船の扉が勢いよく開けられる音がした。


「…っ!?」


その音に気づいて振り向くと、すでにその音の主が視界に入り込んでいた。


「シャアアアッ!!」


「獣人…!?」


 勢いよく振り降ろされた爪を横にかわす。爪の振るわれた先にあった手すりは鋭い爪痕を残した。なのに奴の爪には傷一つない。鋼のように硬い爪だ。


「おい!落ち着けよ!俺を食っても美味くねェぞ!」


「グルルルル…」


 獣人は強い興奮状態にあるようで、こちらの呼びかけになんの反応も見せず、ただ牙を剥いてよだれをダラダラと垂らしている。獲物に狙いを定めるかのようにジリジリとこちらに詰め寄るその動きに、ヒトらしさは微塵も感じられない。


「こいつっ…飯屋にいやがった獣人か!」


「ウィレム!!大丈夫かぁ!」

「ダニエルさん!」


「ここから先は『船喰い』の海域だ!!見つからん航路を縫って進まなきゃならん!!悪いがそいつをなんとかしてくれんか!!」


「分かりました!こいつは俺がなんとかします!」


 ウィレムがダニエルのがなり声にそう返すと、ダニエルは羅針盤と地図を注意深く覗きこみ始める。表情の緊迫具合から見るに、少しでも邪魔が入ればまずいようだ。


 獣人のほうに向き直り、まさかと思って先程拾った緑の鉱石を見せつける。


「これが欲しいのか?俺とて無駄な労力は使いたくない!平和的に解決するなら俺も努力を惜しまんぞ!」


「う゛〜…フシュゥゥ…」


 やはり駄目だ。向こうは言葉を交わすだけの知性も理性も持ち合わせていないようだ。


「このウィレム…売られた喧嘩は」


 剣の柄が握られ、露わになった刀身が傾き始めた陽光を浴びて鈍く輝く。


「きっちり買ってやるよォ」


 獣人とウィレムの戦いが幕を開けた。

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