第3話「嵐」
天球の頂には未だまばゆくその身を輝かせる星が浮かび、一行を乗せた馬車にその光を降り注がせ続ける。
「あっつ…」
ウィレムの黒髪は熱を随分吸収するらしく、ダラダラと流れてくる汗を拭いながらそうぼやいた。
「この時期はどうしてもなぁ…そうだ、帽子かぶっか?」
馬の手綱を引いたまま、片手で置いてあったつば広の帽子をウィレムのほうに投げ渡すと、汗だくになった少年はアントニオに礼を述べ、帽子を頭に乗せた。
「ありがとうございます…随分楽になりました」
「そっちのお嬢さんはいるかい?」
「ダイジョーブ!」
ジーナは橙色の上着を脱ぎ、素肌を文字通り白日の下に晒しながらそう答える。
「そ…そうかい」
もともと無口なたちなのか、老人はそう言ったきり前に向き直って移動に集中し始め、二人の耳に入ってくるのは馬車が揺れる音、そして時折吹く風の音、そして小鳥がさえずる声だけになった。
……
「のどかだなァ」
「…文字通り、平和って感じだナ。…あの時とはえらい違いダ…」
…ウィレムはこれまでの我が身を思い起こした。
…あの日、平和と思われた日々がすべて崩壊した。俺たちの王が殺された日だ。俺とジーナは皇子を担いでそこから逃げることで精一杯、二人は逃せたものの、取り残された俺は乗っ取られた王城で捕らえられ、言葉じゃ言い表せんほどの仕打ちを受けた。
…そんでなんとか生き延びて…反乱した野郎を打ち倒した。…それでも、失われた弟の命は帰ってこない。そんな事は気にするだけ無駄、天寿を全うできなかった兄と弟の分まで、幸せに生きれなかった分、俺が幸せに生きよう、そう決めた…はずなのに…
「ウィレム…?」
「っ…!」
つい物思いにふけり過ぎていた。どうやらジーナを無視する形になってしまっていたようで、その太い眉を不安げに垂れさせて呼びかけてきた。
「…悪い悪い。弟の事を思い出しちまってな…」
「…そうか」
ジーナは短くそう返すと、俺の目元を指で軽く拭ってきた。
(…あれ、涙出てた?…はぁ…もうすぐ十三歳になるってのに情けねェ…)
「また、会えるサ。…なんとなく、分かるんダ」
焦るウィレムをよそに、ジーナはどこか遠くの方を見つめながらつぶやいた。
「…だといいがな」
気づくと、馬車は見渡す限り黄金の植物が生い茂る地帯を抜け、見渡す限り緑、緑、緑が広がる草原地帯に入っていた。
「ウィレム!見ろよあレ!!」
「おおっ…!なんだありゃあ!?」
ジーナが指さした先には、草を食っている生き物の群れがあった。どっしりとした体に太い足…それに巨大な角が目を引く。
「ありゃ牛じゃ。…お前さん達一体どんな所から来たんじゃ?ここいらじゃそんな珍しいもんじゃねぇぞ」
老人が前を向いたままそう答えてくる。まるで風が吹いてもはしゃぐのではないか、その言葉にはそんな含みが感じられた。
「ほんとに何もかも新鮮だなァ…お前の誘いに乗って正解だったよ。良いところに来れたもんだァ」
「だろ!?」
その少年の言葉に、ジーナは見惚れるような笑顔で返した。
ふともう一度空を見渡してみると、太陽はいつの間にか傾き始め、空の色がほのかな赤色に染まり始めている傍ら、遠くの方に鉛のようにずっしりとした雲も見える。
「じきに嵐が来る」…アントーニオの老成された勘はピッタリ当たっていたのだった。
「よぉし、見えてきたぞ、港町エントラーダだ」
しばらくして、目的地に着いた。その港町…正しくは「ラ=エントラーダ」はこの付近ではそれなりに大きい町らしく通りは人で賑わっていたが、人々は何か焦っているようにも見える。
「…じきに嵐が来るからのぉ、皆焦っとるんじゃ」
満載された積荷を下ろしながら、アントーニオはしわがれた声でそう語る。
「このあたりに宿はありますか?…あと飯屋も」
「あぁ、あるぞ。飯屋はこの通りを進んで…
ポツン…
空から落ちてきた水滴はアントーニオの鼻先に当たり、その言葉を止めさせた。
「思ったとおりだのう…嵐じゃ」
いつの間にか空一面を真っ黒な雲が埋め尽くし、遠くから岩を転がすような雷鳴まで聞こえてくる。
「ちょっとこの嵐…やばいのぉ…ワシは農家仲間の家に泊めてもらうからお主たちは宿でも探したほうが良い…すまんの、そいつは気難しい奴でワシにしか気を許さんのじゃ」
「ここまで乗せていただいただけでも有り難いものです。…アントニオさん、どうかお気をつけて」
謝辞を述べたウィレムを押しのけ、ジーナが前に躍り出た。
「この鎌!もらっていいカ?」
ジーナは馬車に紛れていたであろう、干し草と泥に塗れた小ぶりの鎌を振り上げた。
「あぁ、失くしたと思ったらこんなとこにあったんかい!ええで!持ってきや!」
老人は快く許可すると、急いで通りの外れに走っていった。本降りになりかけている雨を見れば当然か。
「よし、俺たちも泊まれる場所を探すぞ」
大通りを少し進んだ先に、大きく「宿」と書かれた看板があった。
「すいませーん…二人泊まりたいんですが…」
宿屋の戸を開け、恐る恐る店主に話しかけるウィレム。
「ごめんなさいね…あいにく満室なの…でも屋根裏で良ければタダでいいですわよ」
忙しく手の動きを止めぬまま、その女将は答えた。
「いえ、十分です、ありがとうございます」
通されたその「屋根裏部屋」は、屋根裏部屋という言葉が示唆する荒れ果て、小汚いイメージとはいささか離れたものだった。
調度品に少しだけ年季が入っているようには見えるが、それでもまだ使える…というか少し前まで誰かが住んでいたかのようだった。
事実、宿屋の女将の娘がつい最近まで使っていたものだという。
「ふぅっ…」
「時間が目まぐるしく進んだみてェだったな」
ベッドに勢いよく腰掛けて長い息をついたジーナを横目に、ウィレムはマントをたたみながら小綺麗な椅子にゆっくりと座り込む。
少しして、部屋の扉が叩かれた。女将が軽い食事と、湯気の湧きあがる桶、そして大判の布を三枚持ってきてくれたのだ。財布からウィレムが銅貨を五枚取り出して渡すと、女将は満足げにその場を後にしていった。
「ジーナ、先にその桶の水で体を洗え。相当汗をかいているはずだ」
食事を平らげ、ウィレムは呼びかける。それを聞くとジーナは返事もせず衣服を脱ぎ捨て、桶に足を突っ込んで体を洗い始めた。
「まったく…まるで脱皮したみてェに脱ぎやがって…ちゃんとたためよなァ」
雑に脱ぎ捨てられた服を丁寧に畳んでやると、ジーナが体を洗っている間、暇だからとウィレムは机に戻ってそばの本棚をじっと見つめた。
「遠近法1」、「凍てつく浜辺」、「隠された議定書」…難解な題目の本が並ぶ中、ウィレムの目に止まった本が一つだけあった。
「生まれ変わりの精霊」…その本の背表紙に貼り付けられた紙に雑に描き殴られた題目に、ウィレムは釘付けになった。
「…駄目だ…未知の言語で書かれてやがる…」
その本に書かれた文字は人間界の古代言語だろうか、文字列から何かしらの共通点を見出すことも困難で、全く何もわからない。だが程なくして本の所々に貼り付けられた薄い紙にはイスパニア王国の公用語、イスパニア語で何かが走り書かれていることに気づいた。
「え~っと…『魂』、『自然の力』…『集積』…『憑依』…?」
…だめだ。やはり意味が分からない。そう思って本棚にその本を戻そうとした時、本の間から小さな紙がひらりと落ちた。
『…偉大なる考古学者(のタマゴ)、イサベル記す。この本は難解な表現が多い。古代言語ラーリン語に似ている…と思いきやどうやら体系を全く異にする言語のようだ。いくつか単語の対訳語をひり出す事は出来たものの、依然として全体の構造が掴めない上、これが正しい訳し方であると証明することは出来ない、というか十中八九間違っている。…十年前、エルドラド遺跡で偶然見つけたこの本の他に、この謎めいた言葉で書かれたものは私の確認する限りでは無かった。…頼みの綱は王都トーレの国家図書館だ。知恵の宝庫たるあそこに行けば何かわかるかも知れない。そう思い立ち、私は地元の船乗りの力を借りてトーレに向かうことにした。
…偉大なる考古学者(駆け出し)、
「…なんてこった。この日付は…」
「昨日だナ!」
体をびしょびしょに濡らしたまま、ジーナはウィレムの見つめていた小さな紙切れを覗き込んできた。
「…ああ、最初はトーレに行ってから何をするか決めようと思ってたが…明確な目的が出来たなァ…あと服を着ろ、素っ裸のまま部屋を歩くんじゃない。風邪引いたらどうするんだ」
全身から水滴をぽとぽとと落とし続けているジーナに大きい布を投げ渡し、服が汗まみれだがどうするのか、と問いかけるジーナに、洗っておく、だから寝てる間はシーツでも体に巻き付けていろと雑に言ってからウィレムも服を脱ぎ、桶の中に足を突っ込んだ。
「生まれ変わりの…精霊か…」
ウィレムは湯を被って汗でベタベタになった体を洗い流しながら、なんとなくその言葉を頭の中で反復し続けた。
・・・・・・・・
「さぁて…と」
自分の体も二人の服も洗い、そしてジーナが貰ってきた鎌の汚れも落とし、ようやく後は寝るだけ…という状態になった。
使わなかった布を腰に巻き、布の汚れていない部分で歯の汚れを落としながら、ちらりとジーナの方に目線を移すと、既にジーナはベッドに横になっていた。
嵐の勢いはますます強まってとどまるところを知らぬ程で、あまどいがガタガタとやかましく震え、冷えた空気が隙間から入り込んでくる。
換えの服を持ってきていないのにも関わらず、下着まですべて洗ってしまったことをウィレムは少しだけ後悔した。
「…寝るか」
明日発つ時に先程のイサベルなる者の手記を忘れないよう、ジーナの新しい得物の下敷きにしてからあたりをほのかに照らしていた蝋燭の火を吹き消し、寝ているジーナを起こすまいと、ベッドにもたれかかった。
「ウィレム…もう寝るのカ?」
「なんだ起きてたのか」
「なかなか寝付けなくテな…」
「…そうか。なら目を閉じてじっとしてろ。眠りに落ちなくてもそうすりゃ脳は休まる。…明日は早いからな」
目を閉じたままジーナにそう言ってやる。嵐の音はうるさいが、とりあえず聞こえる音はそれだけになった。
「…
…マントまで洗ってしまったのはまずかったな。昼間の暑さとはえらい違いだ。嵐のせいもあるだろうが本当に寒い。
かたかたと身を震わせているのに気づいたのか、後ろからもぞりと体を起こす音が聞こえた。
ガバッ!!
「…!?」
突然脇を掴まれ、ベッドの上に引きずり込まれてしまった。両腕の力だけで軽々と。…やはりこの種族は末恐ろしいな。
「…なんのつもりだ」
動揺する気持ちを抑えながら冷静にジーナに問いかける。
「寒いだロ?真っ暗でも震えてるのがわかっタ」
「…よせよ、大丈夫だ。それに女と一緒に寝るのはちょっと恥ずかしいんでな…」
「でも…風邪引いたら明日に響くだロ?」
ウィレムはジーナの的確な指摘に、何も言い返すことができなかった。
・・・ジーナの体温は高い。これなら凍えることは無いな。
ウィレムはなんとなく落ち着かない気持ちを無理やり押さえつけながら目を閉じた。
しばらくして、嵐の音に混じって二人の寝息が聞こえ始めた。
続く
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