Chapter 1.26 名無しの権兵衛

Chapter 1.26


名無しの権兵衛


『うつ病だってよ。残念ながら予想通りだ』

 時計型通信端末レガリアから、リアの声が聞こえる。

 ルクスは執務室の外廊下からリアと連絡を取り合っていた。

『事情を話して特別にノット医師に診てもらった。ラークさんの初診時の状態と極めて酷似しているそうだ』

「となると、このままだとあの病気になる可能性があるってことか?」

『廃用症候群な。先生は明言を避けたけど、まあ、否定はしないって感じだったな』

「わかった。報告ありがとう」

『職員登録書類は確認できたのか?』

「セイクスがいるときにまとめて報告する。とりあえず、俺は集会所でもう少し話を聞いてから支部に戻る。リアはどうするんだ?」

『こっちはロイド氏の家族が病院に来るまでここから動けない。そういや、家族に連絡してくれたのか?』

「ああ。すごく驚いていたよ。数十分で病院に着くって言ってた」

『わかった。じゃあ、また支部でな』

「ああ」

 ルクスはその言葉を最後に通話を切ると、体を反転させ、執務室の中に入った。そこには受付嬢が沈んだ表情をしながらソファの上に座っている。

「すいません、お待たせしました」

 ルクスは明るめの声色でそう声をかけると、受付嬢の目の前にあるソファに腰掛ける。

「先ほどロイドさんの診察が終わったそうです。問診や諸々の検査の結果、うつ病と診断されました。ラークさんと同じです」

「やっぱり・・・」

 受付嬢はそう声を漏らす。その声は表情と同様に沈んでいた。

「やっぱり、ということは想像がついていたようですね?」

「・・・はい。だって、ラークさんの時と全く同じ感じだったので・・・」

 受付嬢は伏し目がちにそう漏らす。

「それも踏まえてもう一度話を聞かせてください。自分が昨日聞き込みを終えた後、何か変わったことはありましたか」

「・・・わかりません。少なくとも私にはいつも通りの日常に見えました。あの日変わった出来事といえば、ルクスさんが尋ねてきたくらいで・・・」

「そうですか・・・」

 ルクスは思わず暗い声を出す。

 正直、打つ手がなくなってしまっていた。

 ロイドが預かっていたはずのラークの職員登録書類は紛失し、ロイド本人はうつ病と診断され、おそらくそのままでは入院する流れになるだろう。先ほどのあの表情を見るに、おそらく話を聞けるような状態ではない。

 昨日の時点で書類を預かっておけば良かったとルクスは深く後悔する。こんなことになるなら減給でもなんでも処罰をくらう覚悟でメモしていれば最低限の情報は確保できたのだ。中途半端に仕事じゃないから預かれないと判断した過去の自分に腹が立った。

「・・・ちなみに、ラークさんの職員登録書類を預かったらどうするつもりだったんですか?」

 目の前の受付嬢からそんな疑問が口に出る。

 ルクスは気を取り直し、自分たちの行うつもりだった行動について話をする。

「ラークさんの身に何か異変が起こったのはおそらく仕事から自宅への帰り道だと考えられています。昨日見た職員登録書類にはその経路が記載されていました。ですのでその情報をもとに聞き込みをしようと思っていたんです」

「私、ラークさんの通勤経路知っていますよ」

「・・・え?」

 ルクスの目が丸くなる。

「というか、この職場のほとんどの人は知っていると思います」

「そうなんですか?」

「はい。だってラークさんが結婚した時、お祝いにご自宅にみんなで伺ってパーティーしたんです。厨房の人たちはケーキなんかを焼いたりして、すごく楽しんでました」

「あ」

 ルクスは不意に思い出す。

 そういえばロイドが同じようなことを言っていた。

 −−−彼の家でケーキやらなんやらの美味しい料理を作っていたぐらいですから。

「じゃ、じゃあ、案内しようと思えばできる・・・ということですか?」

「まあ、はい。ただ、私が案内するよりかはラークさんと同じ現場で働いている厨房の誰かにお願いしたほうが確実だと思います。私が伺ったのはそのパーティーの時だけで、正直うろ覚えです。ラークさんは現場の方々と一緒に帰ることが多かったように記憶しています」

 完全に失念していた。

 受付嬢の言う通り、職員登録書類なんてものがなくとも通勤経路の把握は同僚の親しい人間に聞けばすぐにわかる。

 言われてみれば当たり前のことだが、遂行者オフェンサーと言う仕事の特性上、同僚と一緒に自宅に帰ることが滅多にないルクスからすれば目から鱗の発見だった。

「で、でしたら今からその案内をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」

「一応厨房の方々に確認してきますね。ちょっと今日はロイドさんが急にあんな状態になってしまったので、忙しいんですよ」

 そう言われて、集会所が妙に騒々しかったことや、中で長蛇の列ができていたことを思い出す。

「ああ、なるほど。だから今日はこれだけ忙しないんですね」

「はい。いつもだったらロイドが対応する案件を誰が担当するのかとか、誰が業務を引き継ぐのかとか、色々確認しなくてはいけないことが多くて・・・」

「そうですよね。申し訳ありません、配慮が足りなくて」

 ルクスは伏し目がちに頭を下げる。

「いえ、こちらの問題なので、気になさらないでください。今から案内できる人がいるか確認してきます。こちらで少々お待ちください」

 そう言うと、受付嬢は執務室の外に出る。

 部屋に残されたルクスは、誰もいなくなったことを確認すると、一人で大きくため息をついた。

「助かった・・・」

 受付嬢から話を聞いておいて正解だったと心の底から安堵する。

 とりあえず必要最低限の情報は手に入りそうだ。この異変の捜査が終わったら、まずはこの受付嬢にお礼を言わなければ。

「・・・あれ?」

 ルクスはそこまで考えたときに、とある疑問が頭に浮かんだ。

 −−−俺、あの人の名前、まだ知らなくね?

 頭に浮かんだその女性は、ルクスの中では未だに名無しの権兵衛のままだった−−−。

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