第62話 私の価値

 

 高瀬雪穂は机に突っ伏していた。


「お、高瀬じゃん」

 名前を呼ぶ声が聞こえたので、私は腕に埋めていた顔を少し横に向け目だけで声の方向を見る。

 確か江島くんの友達で軽音楽部の男子生徒。

 前にMVやVJを誉められた事が有ったわね。


 私は面倒なので黙ったまま。

「どうしたの? 高瀬」彼は私の近くに有ったイスに座る。

「知らねー。また何かイヤなことでも有ったんだろ?」私の向かい側に座っている江島くんが呆れたように言った。


 文化祭1日目の朝。既に文化祭は始まっている。

 私は開始早々に軽音楽部の部室に使っている教室に逃げてきた。

 教室には今日は軽音部のステージはないのに、私のように何人かがたむろしている。


「高瀬、それステージ衣装か?」江島くんの友達が訊いてきた。

「違うわよ」

「え? 何でそんな格好してんの?」

 何でこんな格好してるのか、私が訊きたいわよ!


 明日のクラス展示の劇、ロミオの衣装を着ていた。どこからかレンタルしてきた無駄に作りのいい衣装だった。

 劇は明日なのよ? 何で前日からこんな格好しているの?


「雪穂、明日の劇の宣伝に今日から衣装着て宣伝してね!」とクラスの女の子たちに着せられた。

 どうやら私は客寄せパンダらしい。


 そして私はパンダであることを拒否して軽音楽部の部室に逃げてきた。


「私は珍獣じゃないよ」奈乃ちゃんはそう言ったらしい。彼女の友達が言っていた。


「明日やるクラス劇の衣装だってさ」江島くんが私の代わりに答えた。

「何やんの?」

「ロミオとジュリエットのロミオだってさ」


 部室にいた一人がギターで短いフレーズを奏でた。

「あ、これね」江島くんの友達が理解した、って感じで言った。

「何?」私は何の曲かわからなかった。

「プロコフィエフのバレエ曲だろ。モンタギュー家とキュピレット家」江島くんが呆れたように答えた。

「え? 高瀬知らないの?」江島くんの友達が驚いたように訊いてくる。

「知らないわ」

「高瀬、音楽の習い事とかしてなかったの? ピアノとか」

「してないわよ。習い事なんか何も」

 子供の送り迎えが必要な習い事なんて、そんな面倒な事してくれるわけ無いわよ。


 軽音部の部室は沈黙する。

 何?


「高瀬、男の役やるんだ?」江島くんの友達が話題を変える。何かバカにしたように言ってきた。

 私だってやりたくってやってるんじゃないわよ!


「バカにしてる?」ついムッとした声を出してしまった。

「してる。……高瀬には音響とか照明させた方がよっぽどいい舞台になるのに。お前のクラスの奴ら、バカしかいないのか?」

「だよな」江島くんは得意気に同意した。


 私は驚いて顔をあげた。

「どうした?」江島くんも私が急に顔をあげた事に驚いていた。

「……いえ」


 クラスのみんなは私が演技ができるかどうかすら確認せずに、私の見た目だけで主役を押し付けた。私が嫌がっているのに構わずに。

 だけどここにいるみんなは、私の能力を評価してくれている。私の欲しい評価を。


「……おい。なぐさめて欲しいなら柏木の所に行けって」江島くんはポケットティッシュを差し出してきた。

「何?」

「……メイクが崩れてんぞ」


 え?

 いつの間にか涙が流れていた。

 ……気づかなかった。


 私はティッシュで涙を押さえるように拭き取る。ティッシュが涙以外のメイク落ちで汚れたのを見たときに、何かバカバカしくなった。


 私はまだ見た目の評価にこだわるの?

 ここにいる人たちは私がメイクの崩れた醜い顔をさらしても評価を変えない。そう思えた。


 メイクを涙ごと拭き取った。多分ひどい顔になってる。

 ついでに鼻をおもいっきりかんだ。こんな事を人前でするのは初めてね。

 軽音部の一人が私にゴミ箱を差し出してきた。

「ありがとう」そう言って使ったティッシュをゴミ箱に投げ捨てる。


 そして周りを見渡す。

 軽音部の人たちが楽しそうな顔で私を見ていた。


「私の価値は私が決める」そう言った。けど何か違うなって思った。言い直す。


「私たちの価値は私たちが見せつける。ライブで!」

「おう!」江島くんが笑顔で拳を差し出してきた。私たちは拳を合わせた。



 その後も私たちは音楽の話をした。

 メイクはちゃんと落とした。人前でメイクを落とすのも初めてだった。

 軽音部の人たちはMVやVJに詳しくないので私がみんなの質問に答える感じになった。


 始終江島くんが得意気だったのだけど、なぜかしら?


「柏木くんのメイクも高瀬さんがやってるの?」軽音部の一人が訊いてきた。

「いいえ。奈乃ちゃんは自分でメイクできるわ」私がMV作っているから、奈乃ちゃんのスタイリストも私がしていると思ったのかしら?


「柏木のあれ、私服だ」江島くんが補足をいれた。

「普段からあの格好? ……お前んとこのメンバー、尖ってるな」

 私も含まれるのかしら?


「柏木くん、今日はメイド服着てたな」3年の先輩が言った。

「柏木のクラスはメイド喫茶らしいですよ」

「じゃあみんなで行くか?」

 そうね。私一人じゃ入りづらいから、その方がありがたいわね。


「いや、待って下さい」江島くんが先輩を止めた。そして私を見る。


「高瀬は一人で行け」

「何で?」先輩が疑問を口にする。

「二人は付き合ってるからですよ」そして彼は私に向かって、「みんなで行って冷やかされたいか?」とからかってきた。


 そうではなくて、B組には行きづらいのだけど……。


 江島くんは私のためらいがわかっていた。私の耳元に顔を近づけると、他の人には聴こえない声量で、

「柏木を信じろ。あいつは自分の女も守れないやつじゃない」と言った。



 私は散々冷やかされながら部室を後にした。

 いつもは教室で散々持ち上げられるので、新鮮な体験だった。

 奈乃ちゃんとのお付き合いを祝福されているようで嬉しかった。


 深呼吸して気合いをいれて2Bの教室に向かう。


 入り口で客の呼び込みをしていたメイド服の女子が私を見て、口を閉じた。

 さっきまで楽しそうに呼び込みしていたのにね……。

 私は受付を無視して教室の中に入る。緊張はしている。怖くない訳じゃない。

 でも、軽音部の人たちに勇気をもらった。江島くんに後押ししてもらった。


 私が教室に入った瞬間、B組の人達が私に注目する。

 私は顔をあげ、奈乃ちゃんを探した。


「雪穂ちゃん!」奈乃ちゃんが驚いて大きな声をあげた。そして私のところに走ってくる。

 私の前に立った奈乃ちゃんは私を真っ直ぐに見て、

「お帰りなさい。ご主人様!」と言って嬉しそうに笑った。


「ご注文はお決まりですか?」席に案内してくれた奈乃ちゃんは楽しそうに注文を訊ねる。

「……、コーヒーセットしかないんだけど?」

「メイドさんが売りだから、後は全部省略した!」

 ……思い切ったコンセプトね……。

「じゃあ、コーヒーセットを下さい」

「はーい! コーヒーセットですね!」

 奈乃ちゃん、楽しそうね。


 奈乃ちゃんはカウンターの方を向いて手を振った。メニューは一つだから注文を取るフリだけなのね。


 奈乃ちゃんはコーヒーを取りに行くことすらせずに、私の所に居続ける。

 とてもサービスの良い喫茶店ね。


 奈乃ちゃんたちのメイド服は、とてもメイドには見えなかった。パニエで膨らんだスカートは短すぎるしエプロンやカチューシャもフリルが大袈裟だった。

 これが世間一般で言うところのメイド喫茶のメイドさんかしら?


 ……奈乃ちゃんが可愛いから、全然OKよ!

 むしろ、可愛すぎるわ!


「雪穂ちゃん、独り言? 口に出てるよ?」

「え?」

「これ、ロミオの衣装? カッコいい! 王子さまみたい!」

 ロミオは王子様じゃないわよ?


「奈乃ちゃん」メイド服の女の子が奈乃ちゃんに声をかけてトレーを渡した。

「ありがとう」

 奈乃ちゃんがトレーを受け取ると、女の子は私を見もせずに戻っていった。

「ご主人様、コーヒーでございます」奈乃ちゃんは澄ました顔でコーヒーとお菓子をテーブルに並べた。


 奈乃ちゃんは微笑みを消して真面目な顔をしていた。


「雪穂ちゃん、大丈夫?」奈乃ちゃんは心配そうな顔で私を見る。

「大丈夫よ、奈乃ちゃん」私は笑顔で答える。「私は大丈夫。奈乃ちゃんが誉めてくれたからね」

「ん……」

 奈乃ちゃんは私の胸を見ていた。バストホルダーをつけていない膨らんだ胸を。私が自分の意思で男装をしていないという、ささやかな抵抗を。

 私は男装なんてしたくないんだ。


「奈乃ちゃんはメイド服、気に入ってる?」

「うん。可愛いでしょ?」

「ええ、可愛いわ」

 奈乃ちゃんは嬉しそうな顔をした。

 私は強ばってしまって、言葉を続けられなかった。

 そして奈乃ちゃんは申し訳なさそうな顔をする。

「メイド服、着ても着なくてもいいって言ってもらったから……」

「そう……。奈乃ちゃんは、クラスのみんなに愛されているのね」うまく笑えたかしら?


「ん……。クラスのみんな、優しいから大好き」

 奈乃ちゃん。私は奈乃ちゃんにそんな申し訳なさそうな顔をさせたかったのじゃないのよ?



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