第55話 楽しい1日

 

 江島貴史は柏木奈乃を家まで送っていった。


 柏木を送り届けたので帰ろうかと思ったら、

「寄ってかないか?」と柏木に誘われた。

 まだ日はある。

 帰って作業したいとも思ったが、断るとめんどくさい事になる気がして寄っていくことにした。


「ただいま」柏木は鍵を開けて家に入る。返事がないので誰もいないのだろう。


「あがって」

「おう」

 リビングに通される。

「適当に座って」

 ソファーに座った。

「麦茶でも飲むかい?」

「お、サンキュー」

 冷えた麦茶を出してもらった。


「着替えてくるから待っていて」そう言って柏木は部屋から出ていった。


 しばらく頭のなかで曲の進行を考えていた。早く帰って作業したい。


「ただいまー」玄関のドアが開く音がした。

 誰か帰ってきたのか?

 柏木がいないのに一人で家族と会うのは気まずいのだが?

 ちょっと焦る。


 リビングのドアが開いた。

 制服を着た女の子だった。

 俺と目が合うと、固まる。

 そして、叫び声を上げそうなった。


「待て! お兄さんの友達だ!」慌てて女の子に声をかけた。

 柏木には中学生の妹がいると聞いている。


 俺は立ち上がる。

「兄さんの友達だ。今、着替えにいってる」俺は妹に説明した。

 妹は叫び声を上げようとした体勢のまま黙って俺を見ている。


 俺、叫ばれるほど怖いか?


「あ、ライブの人……」妹は俺に見覚えがあるようだ。

「お、ライブ観に来てくれたのか。サンキューな」

「……こんにちは」妹はおづおづと挨拶した。まだ怖がっているみたいだ。

「おう、こんにちは」俺も怖がらせないように、できるだけ優しく挨拶を返す。


「お兄さんと同じ学校で、一緒に音楽サークルをやっている。江島だ」

「あ……、柏木那由多です」そう言って少し頭を下げた。


 すぐに自分の部屋に行くかと思ったら、荷物をおいてソファーの俺から少し離れてところに座った。

 俺も座り直す。


 妹は俺をじっと見てくる。

 友達の妹と二人っきりって、気まずいな。

「ライブどうだった?」とりあえず何か話しかける。

「え?……、あ、良かったです」

 ハードコアを理解するにはまだ早いか。

「あの……」妹は話しかけてくるが、何か言い淀んでいる。

「何?」できるだけ優しく促す。

 彼女は黙ってしまっている。

 気まずい。間を持たすために彼女から視線を外して麦茶を飲む。


 彼女は俺が視線を外すのを待っていたかのように、

「兄さんと付き合ってるのですか?」と訊いた。


 麦茶を吹き出した。


 むせる。


 何を言っているんだこの子は?!


「大丈夫ですか?!」彼女は慌てて台所からタオルを持ってきて俺に渡す。

 俺は麦茶で濡れた服や顔を拭く。

 彼女はもう一つタオルを持っていて、テーブルや床を拭いていた。


「……悪い」

 いや、妹が変なこと言うからだよな!


 妹が手を出してくる。拭き終わったタオルを返した。


「いや、俺は男だぞ?」間違えるとこ無いだろ?

 妹は不思議そうな顔をした。

「サークルの人と付き合ってると思っていたから……」

「ああ、高瀬だな」

 柏木は高瀬と付き合っている。

「え?」彼女は驚いていた。高瀬を知っているんだな?


 高瀬と付き合っていると聞いて、どこに驚くところがあるんだ? 俺と柏木が付き合っていると勘違いする方が、よっぽどおかしいだろ?


「……何で……」彼女は傷ついたような暗い顔をした。

 いや、何でって……。人を好きになるのに理由がいるのか?


「高瀬を知っているんだな?」

「……はい」

「高瀬は美人だからな。お兄さんはなかなかやるよな」

 俺は高瀬にフラれたけどな……。


 妹に、はあ? って顔をされた。怒りとイラつきが混ざっていた。


 何でそんな顔するんだ?


 意味がわからない。何を言ったら良いのかわからず、会話が途切れた。


 気まずい時間を過ごす。


 やっと柏木が部屋に帰ってきた。

 部屋着にでも着替えるのかと思っていたら、よそ行きの格好をしてきた。

 今日はビビッドだった。


 ショートヘアで耳が出ている。今日買ったイヤーカフが目立つようにか?

 白地にカラフルな模様をちりばめた半袖パーカー。パーカーの前を開けて下に英字のプリントされた白のTシャツを着ている。

 ボトムはジーンズ地の短パン。素足に短いソックスをはいている。


「あ、那由多、帰ってたの? お帰り」

「ただいま」妹が不機嫌そうな声で返事する。


 不機嫌そうな妹の声に柏木は気圧される。


「江島くん、私の部屋に行かない?」柏木は妹といるのが気まずいらしい。


「待って、お姉ちゃん」妹が呼び止める。


 お姉ちゃんって言ったか? さっきまで、兄さんって言ってたよな?


 この妹もちょっと変わってんな……。初対面の相手にそんな事言わないけどな。


「高瀬さんと付き合ってるの?」咎めるような口振り。

 柏木は目をそらして返事をしない。

「どうして? ……それでいいの?」きつい言い方。怒っている? いや、心配しているのか?


 この兄妹の会話は意味がわからない。

 兄貴に彼女がいて何が悪いんだ? 何で柏木はそんな辛そうな顔をしているんだ?


「……イヤーカフ?」妹が柏木のイヤーカフに気づいた。そして俺を見る。

「お揃い?」

 俺と柏木がお揃いのイヤーカフをしていることに驚いている。


「……、お姉ちゃんが何をしたいのかわかんないよ……」妹は泣きそうな顔でうつむいた。


 柏木は何か言おうとして口を開きかける。

 口から出たのは嗚咽だった。

「うっ……」柏木の目に涙が溢れる。


 そして柏木は逃げ出した。


「柏木!?」俺は呼び止めるが、柏木は部屋からでて二階に走っていった。


 呆然とするしかなかった。追いかけた方がいいのだろうか?

 追いかけようとしたときに妹が口を開いた。


「すみません、江島さん」彼女はうつむいたままだ。


「今日は帰ってください」


 俺は家族の問題には口を出せない。

 ……でも、これって俺にも関わりのあることなのか?

 そんな気がした。




 柏木奈乃は逃げ出した。

 妹の咎める視線に耐えられなかった。妹が私を心配している事はわかっているけど……。


「柏木!?」

 江島くんの声が聞こえる。


 私は部屋のベッドに身を投げ出した。

 涙が止まらない。声を出して泣くのを我慢する。


 しばらくして足音が部屋の前で止まった。


「お姉ちゃん」那由多が心配そうに呼び掛けてくる。

 私は嗚咽を止められない。

「入るよ?」

 那由多がベッドの横に座る気配がする。

 私はベッドに顔を埋めたまま、声を殺した。


「お姉ちゃん、ごめんなさい」

 泣き声を聞かれたくない。

「江島さんが好きなの?」

 言いたくない。

「江島さんが好きなのに、どうして高瀬さんと付き合ってるの?」


「……わかんないよ」私は顔を埋めたまま答える。嗚咽を押し止めて。

「わかんない事無いでしょ?」那由多が労るように優しく話しかけてくる。


「わかんないよ」キツい言い方になってしまった。

「え?」


「わかんないよ!」私は顔を上げて那由多をにらみつける。

 涙があふれて止まらない。


「わかんないよ! 那由多にはわかんないよ!」

 ごめんね、那由多……。


「生まれたときから女の子の那由多にはわかんないよ!」


 今日は楽しかった。

 江島くんとデートした。

 お揃いのイヤーカフも買ってもらった。

 大人ぶって飲んだブラックのコーヒーは苦かった。


 今日は楽しかったな……。



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