彼、ときどきマイホーム

桜乃

第1話

 千咲くんが行ってしまう・・・・・・。

「どうした穂乃果。気分でも悪いのか?」胸の前で両手を握りしめていると、父親である太一が目を細めながら聞いてきた。目の前でカレーが湯気を立てながら冷めていく。

 穂乃果は綺麗な長い黒髪を撫でながら「明日、千咲くんがイタリアに行っちゃうんだ」と俯く。

「また彼の事か。スポーツで食べていこうとしている人間の事なんか気にしなくていいんだよ。そういう現実味の無い奴はどこかで痛い目を見なくちゃいけないんだ」太一は静かににんじんを口に運んだ。

 バレーボールの強豪選手である千咲は、高校をするのと同時にイタリアへ行ってしまう。

―二か月前、正式に彼とお付き合いを始めたばかりなのに・・・・・・。一緒に映画を見に行ったり、洋服を買いに行ったりもした。ぎこちなかったがこの前は手もつないでくれた。順調だったはずなのに・・・・・・。

「とにかく、お前が気にするようなことではないんだ。分かったね、穂乃果」

「でも、」

 バンッ! とテーブルが鳴った。

「でもじゃないっ! お前は自分のことだけを気にしていればいいんだ! そんな得体の知れない恋心で進路を有耶無耶にでもしてみろ! ただじゃすまないぞっ!」

 太一のナイフのような鋭い目つきに「・・・・・・ごめんなさい」と、穂乃果は顔を下げることしかできなかった。

 洋風の室内はやけにキラキラ輝いている。見慣れた自分の家の筈なのに今の穂乃果には重い空気をはらんでいる収容所のように感じた。天井から吊らされているオレンジ色のシェードのペンダントが太一と穂乃果を優しく照らす。イタリアに住む母親の和代が特注で送ってくれたものだ。

「ごちそうさまでした」穂乃果はその明かりから逃げるように二階にある自分の部屋へと階段を上がった。

 

 ベッドに勢いよく飛び込んだ。ピンク色のクッションに口を埋めながら穂乃果はスマホを開く。写真ホルダーを開くと、彼との思い出がたくさん詰まっていた。

「もっと一緒にいたかったよ・・・・・・」小さく呟いてしまった。

 金髪の髪の毛、耳にはピアスを付けていて最初はチャラい人なのかなぁと、おどおどしていた。が、笑っている顔は子犬みたいにいじったらしく可愛い。それにすごく優しい。

 でも、今でも忘れられない―。

 彼がイタリアへ行くと決まった瞬間。大好きなバレーボールで、それが夢だったはずだ。もっともっと海外で技術を高めたかったはずだ。

 なのに千咲くんは眉尻を下げて、

「ごめんな、中途半端な男で。自分の好きなこと選んでしまって、穂乃果の事を両方選べずに。穂乃果に悲しい思いさせることになって・・・・・・本当にごめんな」

 そんなことない。人は一つの事を選んで必死で生きていくしかないのだから。謝る必要なんてないよ・・・・・・。

 頬に涙が伝る。

 もう二度と、千咲くんにあんな顔をしないでほしい。悲しい思いをさせたくない。

 穂乃果は部屋から飛び出して洗面台へ向かった。おとぎ話に出てきそうな大きな三面鏡の前に立つ。

 彼女の綺麗な黒髪の艶が、ミラーライトの光で反射する。お母さんがよく私の髪をみて羨ましがってたっけ。懐かしいな・・・・・・。

 引き出しから箱に入った染料を取り出す。初めての挑戦で手が小刻みに震えていた。それでも千咲の顔を思い出して染料を髪の毛に着けた。

 一時間もしないうちに彼女は着替えや、勉強机に入れてあった貯金を旅行用の鞄に全部詰め込んだ。

 恐る恐る一階のリビングに下りる。ソファに座る太一が眼鏡を指で押し上げながら新聞を読んでいた。穂乃果は目だけを出してひょこっと壁から覗く。

「なんのようだ?」

 低い太一の声に肩が跳ねあがってしまった。それでも勇気を出して一歩を踏み出す。

「お父さん、あのね・・・・・・?」

「バカなことをしようとするなと言っただろ。今すぐ荷物を置いてきなさい。話はそれからだ。あと、」

 太一はため息をついて「それはなんだ」と穂乃果の髪の毛に侮蔑の目を向けた。

 さっきまで純粋な黒色だった彼女の髪の毛は、太陽のようにオレンジ色に輝いていた。

 穂乃果はくるくると指で髪を巻きながら、「最後だから」とほほ笑んだ。

 太一は眉を捻じ曲げながら何かを言おうとしたが、すぐに形のいい頭を掻きむしった。

「千咲というやつの家まではどのくらいで着く」

「・・・・・・自転車で三十分くらい、だけど・・・・・・」

「二時間以内に帰ってこい。話はそのあとにしてやる」太一は千円札を穂乃果に差し出した。


 玄関を開けると雪が降っていた。ゆっくりと舞い落ちる、静かな粉雪が。

 積もる前に急ごう! 彼女は重たい鞄を担ぎながら速足で駅にむかった。

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彼、ときどきマイホーム 桜乃 @gozou_1479

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