徘徊する夏の幽霊

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 窓から見える街の景色があかく替わったりあおく替わったり、まるで宝石のように輝いている。夜だ。

 入院初日だけれど、誰も面会に来てくれなかった事が少し寂しい。

 いや、きっと来る。彼は約束を破らない。私は友人を待っている。


 五分、また五分。何分経っただろう? まだ時間なら。

 夜景。小さな瞬きが一つ、二つ、四つ。


 そして少しばかり経ったとき、指針は星が太陽の周りをまわるように躍るようにチクタクと円を描き、紺色と乳白色の深い煌めきで星空を表す懐中時計が八時五十分をきっかりちょうど指し示した頃、とうとう彼は現れた。革靴が床をこする音さえ聴こえなかったので、まさかすぐ近くまで接近していたとは思わなかった。気配を察知させない黒髪の友人は今も尚、病院を徘徊する幽霊を連想させた。

 気配はちょうど私の病床の仕切りのかたわらで止まった。「司。居るんだね」暗闇の間から低いが芯の通った声が放たれる。「迎えに来たよ」

 私は清潔で真白な病床から、動けるまでに回復した躰を起こす。

「やァ、れいクン。来てくれてありがとう」治療を受けた躰はとても軽い。

 私以外の患者を起こさないように零は静寂を包んで仕切りを開け、私の手元まで近寄って点滴の充電器を当然のように抜く。夕闇と同じ色のパーカーを着用した零が操作すると、まるで点滴が自動的に外れたみたいだ。

 同室の患者は寝息を立てていた。それほど疲れているのであろう、夢路につくのが想像よりも幾分か速い。今から十五分前に眠いと云いながら電灯を消してしまっていたのだから。

 零が自分と同等程度の高さのテレビ台を易々やすやすと移動させた。

 壁が露出するだけ。――と思っていた。

 ガチャリと鍵のまわる音。扉が開いたらしい。隠し扉かな?

「ほら、逃げようよ、つかささん」

 零が私の手を引いた。私は点滴を押しながらおぼつかない足取りで付いてゆく。

 テレビ台があった壁は暗闇の空洞に変化していて、湿気が多くカビ臭い。

 床質は病棟の物と若干違い、小中学校の教室に使用されるフローリングみたいな感触。壁に作られた隠し通路など不自然だ。開業当初から既に設置されていたのではなく、後付けされた部屋かもしれない。

 壁や天井を這い回る水道管の音。舞う埃。くしゃみが止まらないね。


 暗くて電気も無い秘密通路は裏口へ繋がっていた。

 外出に成功した私は、涼しい夜の空気を思い切り吸う。

「零?」壁にもたれかかるように零は立ち止まった。俯き腕を組んだ彼は無表情のようにも見えるし、何か必死で考え事をしているかのようにも見える。初めて見る表情ではないのだが、この刻だけふと妙に気になった。「ごめん。少し睡眠不足なだけだよ。」零は表情を消して空を見上げる。こんな夜遅くまでうたい続ける虫達の歌声こそ、まるで彼の真意を物語っているようだった。

 無言で渡されたのは、甘いカフェオレ。零は珈琲コーヒーをブラックで。さっきは所持していなかったはずだけれど、いつの間に購入したのだろう? それとも私が鈍感で察知できなかっただけ? ――まあまあ、どちらでもいよね。

「脱出できたから、家に帰っても大丈夫かな?」

「危険だ。病院関係者とか――、警察が来るかもしれないよ。」

「確かに。こういう状況に置かれたら、零ならどうする?」

「大丈夫。僕に任せて。」

 零が一歩を踏み出した。

 飲みかけのカフェオレが波打ち、懐中時計が真っ青に輝いた。

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