第10話 帰還
柚が万里の彼氏になったのは、万里の猛アタックの末、柚が折れて付き合い始めたからだ。たまにデートに誘ってくれるし、軽めのボディタッチもしてくれるが、基本受け身だ。大体万里が押す形であれよこれよとしているので、万里のほうが柚のことが大好きで柚は万里ほどでもないが一応好きだという認識だった。
一応好きというレベルでも、いずれは愛しているレベルに到達するぞと意気込んでいたのだが、まさか。
「信じられないなら……」
魔法使いが指をパチンッと鳴らす。すると、空中に映像が現れた。
まるで水面のような画面だ。たまに波紋が広がったり、ゆらゆらと映像が揺れている。乱れているのではない、本当に揺れているのだ。
その揺れている先に、見覚えのある風景が映っている。
間違いない、万里がこの世界に転移する直前にいた川の堤防だ。時刻は夕方で、空が赤く染め上がっていた。大地も赤く照らされている。
そんな堤防に一つの人影がある。その立ち姿に覚えがあって、万里は息を呑んだ。
その人影は何かを探しているのか、キョロキョロと辺りを見渡しては、茂みの中に入りガサガサと茂みを掻き分けている。
「あの子、アナタが行方不明になってから何度もアナタが最後に目撃された場所に行っては、ああやってアナタの手掛かりを探しているのよ。手掛かり探しは毎日しているし他の場所でも探しているけど、やっぱりあの場所を徹底的に探しているみたいね」
言葉が出なかった。胸が温かくなり、それが顔まで込み上げてきたと想ったら、視界が滲んで映像が見えなくなった。もっと彼の姿を焼き付けたいのに、この溢れ出しそうな喜びが邪魔してそれが叶わない。
「無理に焼け付かなくてもいいのよ。だってすぐ会えるんだもの」
万里の心を見透かしたように、魔法使いが囁く。
「でもその姿だと、帰った後に目立つわね。せっかくのお揃いのドレスだけど、そうね……こうしましょうか」
魔法使いが指を鳴らす。すると万里の周りが無数の光が現れ、それが万里を中心に渦を巻いたかと思えば、万里のドレスが光り始めた。
その光が霧散すると、ドレスは消え代わりに着慣れた制服を着ていた。ついでに鞄もある。万里がこの世界に来た時と全く同じ出で立ちだ。違うところがあるとすれば、シンプルな手提げ鞄が一つ追加されたくらいだ。
「その手提げ鞄の中にドレスを入れておいたから」
手提げ鞄の中をちらっと覗き込むと、ドレスと同じ色の布とアメロアの花が見えた。
「準備は出来たわね。ということで」
映像が人一人が通れるほどの大きさになる。視点も変わり、万里が転んで落ちた場所からの景色になる。
「それを潜れば帰れるわ」
万里は目から零れそうな涙を手で乱暴に拭き、魔法使いを見る。目が合うと魔法使いは、慈愛溢れる淡い笑みを浮かべ、小さく頷いた。
その笑みを見ると、様々な感情が込み上げてきて思わず頭を下げた。
「魔法使いさん、ありがとうございます」
「どういたしまして。けれど、アナタが帰れるのはアナタの日頃の行いが良かった結果。そのことは忘れないで」
「はい」
もう一度公爵家一同に振り返る。皆が突然現れた映像に唖然している。特にエムロードは涙ぐんで映像を凝視している。
改めてお礼を言いたかったが、これ以上は別れが惜しくなる。公爵が我に返って万里を見る。万里は深々とお辞儀をした。
踵を返し、映像と向き合う。
(ううん、映像じゃない。これは、道だ)
道というより、扉がない出入り口みたいな感覚だが、魔法使いが道を開くと言っていたのだから道なのだろう。
「マリ嬢!」
スターリーの声がする。マリはスターリーを一瞥した。
スターリーは目を潤ませマリをじっと見据えていた。まるで縋り付いているみたいで、吐き気がする。
それと同時に、あれだけ怒鳴ったのにまだ縋り付こうとするメンタルが残っているのが、と逆に感心してしまった。
けれどスターリーには情の一欠片もない。
あっかんべえをしたいが、これ以上視線も合わせたくない。万里はそっぽ向いて道の中に足を踏み入れた。
足を踏み入れた瞬間、ふわっと身体が軽くなった。まるで階段から落ちる一瞬のようだった。それは一瞬でなくなり、身体が重くなって地に足が着く。
目の前には見慣れた、懐かしい風景が広がっている。
その光景を呆然と眺めていると、次々と感覚が押し寄せてきた。
土を踏みしめる感触がする。湿っぽい匂いが鼻腔を掠める。素足の部分に草が触れ、チクチクして少し痒い。
そこでようやく、自分が風景の中の一部だと認識することができた。
(帰って、これた)
その事実が脳に行き渡ったそのとき、ずっと聞きたかった声が耳に届いた。
「万里…………?」
トクンッと胸が高鳴る。高鳴り続ける胸を抑えながら、ゆっくりと声がしたほうへ振り返る。
振り返った瞬間、彼と目が合う。
彼は堤防の上で突っ立っていた。目を瞠って、万里を凝視している。
あんなに探してくれたのに少しくらい嬉しそうにしてくれたっていいじゃん、とか、こんな顔をしている彼も珍しいな、とか色々な思いが浮かび上がってはすぐ霧散する。そんな思いよりも、やっと会えたという嬉しさが上回っていた。
感情が迫り上がってきて、顔が熱くなる。ついでに目頭も熱くなった。
ずっと、ずっと、会いたかった。やっと会えて嬉しい。ただいま。
伝えたかったのはそういう言葉だったのに。
「ゆずくん……」
自然と口から出てきたのは、彼の名前だった。
名前を口に出した瞬間、彼が弾け飛んだかのように万里の方へ駆け寄ってきた。
転がるように堤防から駆け下り、万里の許まで辿り着くと両腕を伸ばし、万里を腕の中に閉じ込めた。
とても強い抱擁に万里は戸惑う。こんなに強く抱きしめられることは、今まで一度もなかった。抱きしめられてもふわっと優しい程度の力だったのに。
どうしよう、とあわあわしていたが、彼の手が震えていることに気が付いた。彼に初めて強く抱きしめられた混乱と、恥ずかしさと嬉しさで頭に熱が籠もっていたが一気に冷める。
おそるおそる背中に手を回し抱き返すと、彼の身体がビクッと震えた。さらに強く抱きしめられる。息苦しくて仕方なかったが、それでも力を緩めて、とは言えなかった。
だって万里は、ずっとこのぬくもりが欲しかった。柑橘類の香水が微かだけど鼻腔を擽る。この匂いも恋しかった。徐々にぬくもりと匂い、そして声が頭に染みこんで鼻がツンッとなった。
このぬくもりも匂いも声も、全部覚えていると思っていた。けれど、意外に忘れてしまっていたのだなと少し衝撃を受けた。
でも今は、ちゃんと思い出した。そしてそれらはちゃんとこの腕の中にいる。幻なんかではない。
万里、万里、と涙ぐんだ声につられて、万里の涙腺も崩れていく。
それは無事戻ってこられた安心感からだったのか、それとも会いたかった彼に会えたからなのか。どちらからくるものなのか、はたまた両方なのか。万里に考える余裕はなかった。
一気に溢れた涙を流しながら、彼の背中をギュッと握った。
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