第2話 魔法使い
やはり見たことのない女性だった。まるで羽のようにふわりと広げている長い黒髪に、髪と同じ色の黒い瞳。顔は均整取れた面立ちで、可愛らしい印象を受ける。が、それは一瞬だけで、目元と口元が妖しく弧を描いている。服装は学園の制服を着ているので、ここの生徒だろう。年齢も万里よりも少し上に見える。
黒い髪色に黒い瞳。この世界では珍しい組み合わせらしい。実際に万里は今まで自分と同じ組み合わせの人と会ったことがない。けれど珍しいというだけで、少数ながらにいるとのことだったので、その少数の中の人だろう。
「あの、助けてくださりありがとうございます」
「ん? ああ、いいのいいの。それよりもアナタ、濡れているわね」
女性に言われて、万里は慌てて女性の制服を見る。だが、密着したはずの女性は全く濡れていなかった。
あれ、と首を傾げる。たしかに柔らかい身体の感触がしたはずなのに。
「少し待ってなさいな」
女性はそう言うと、指をパチンッと鳴らした。
その瞬間、突如万里の周辺に生暖かい風が巻き起こり、万里を優しく包み込む。その生暖かい風が止む頃には、あんなに濡れていた万里の制服と下着が乾いていた。
「これでオッケー」
「え、え?」
万里は混乱した。先程の生け垣と良い、濡れていない制服といい、一瞬で乾いた制服といい。次々と信じられないような事が起きている。
「はいはい、落ち着いて深呼吸ー」
「すーはー」
「ふふ、素直な子は嫌いじゃないわよ」
深呼吸してスッキリした頭で、目の前の女性の正体について考える。そしてある可能性に思い至った。
かつて栄えていた魔法は、今や廃れている世界。その理由は、魔法使いの減少だ。減少というだけで今もいるが、文明が栄えるほどいないという。
「あの、もしかして魔法使いさんですか……?」
「うーん」
女性は一瞬間を置いてから、妖しく笑った。
「とりあえずそういうことにしておくわ」
なんて曖昧な返事だ。
「私のことは適当に、その魔法使いさんとやらで呼んで?」
「あ、はい」
頷くと魔法使いは満足げに微笑んだ。柔らかい感じだが、有無と言わせない迫力がある。これ以上、彼女のことを聞き出そうとしても彼女に失礼な気がして、万里は頭を下げた。
「申し遅れました。わたしは」
「知っている。西園寺万里。十五歳の高校生」
「ご存知でしたか」
万里はゆっくりと立ち上がった。
「だって私はアナタに会うために来たんだもの」
「わたしに?」
「そう、アナタに」
魔法使いは腰を下ろす。そこには椅子も椅子代わりにできそうなものもない。けれど魔法使いは、あたかもそこに椅子があるように優雅に座って見せた。
これが本当の空気椅子。魔法使いというものは、空気ですら椅子に変えてしまうのだろうか。
「今通った坊や、ずいぶんとアナタに御執着ね?」
「坊やって……もしかしてスターリー殿下のことですか?」
「殿下……ああ、そういえばそういう肩書きだったかしら? 肩書きなんて別にどうでもいいけど」
坊やって貴女と大して変わらない歳なんですが、という台詞を引っ込める。
「ええ、そうですね。あの人に対して何もしたことがないのに、何故か執着されて」
「あら、あれは初めての一目惚れに浮かれて勘違いしているのよ」
「一目惚れ? 勘違い?」
万里は首を傾げる。
「つまり殿下はわたしに一目惚れしたということですか?」
「そう。だから最初、アナタを自分の手で保護しようと躍起になっていたでしょう?」
言われてハッとなる。確かに自分を捕獲しようと剣を抜いてきた護衛たちに対して、身を張って万里を庇った。その後も強引に両陛下に面会し、城で保護しようと強く言い出したのもスターリーで、自らが仕切るように手を回していた。
スターリーの強引さは最初からだったということに、今更ながら思い至った。
「ええ……わたしに一目惚れ要素あるかなぁ……」
万里は不細工ではないが、かといってとびっきり美人でも可愛いというわけでもない。可も不可もない、ごくごく平凡な顔と体型だ。強いて褒めるところがあるとすれば愛嬌のある顔、これだけである。
エムロードと比べたら月とすっぽん、一目惚れされるのはむしろエムロードのほうではないだろうか。どうしてエムロードのほうに一目惚れしなかったのか。
「一目惚れってそういうところあるから、深く考えることはよしなさいな」
「はぁ。そういうものなのですか?」
「わりとあるあるよ」
「そうなんですね。ところで勘違いっていうのは?」
訊くと魔法使いは、そこの肘掛けがあるように空気に肘を置き、ゆったりとした動作で頬付いた。
「アナタが運命の相手だって勘違いしているっていう意味」
「は?」
「突然異世界の少女が目の前に現れた」
魔法使いが頬付いていないもう片方の手で、一を示す。次に二を示す。
「プラス、その異世界の少女に一目惚れし、同時に初恋でもあった」
次に三を示す。
「プラス、まるで引き合わせられたようなことが起きうるわけがない」
三を示した指を下ろし、人差し指を立てて、イコールの記号を描く。
「イコール、まさしく運命の相手だ! きっと彼女も僕のことを好きになってくれるに違いない! っていう計算式ができちゃったっていう感じね」
「なんていうはた迷惑でお花畑な計算式」
万里は頭が痛くなって頭を押さえた。まるで某掲示板などで見かけるような勘違いストーカーの定型を見ているようだ。
スターリーはストーカー。悲しいことにしっくりと来てしまった。
「それで囲おうとしているけれど、囲おうとしている相手にバレるなんてまだまだ青いわね。囲みはバレないように、じっくりと時間を掛けてこっそりと進むのが定石なのに。焦っても無駄だっていうことが分かる例だわね。まあ、見ている分には滑稽で愉快だけど」
完全に他人事である。今学園には留学生がいないらしいので、魔法使いはこの国の者だ。自分の国なのに、そんな他人事でいいのだろうか。さらに頭が痛くなってきた。
「ていうか仮にも王太子になるかもしれない御方が、恋に舞い上がっていいものか……」
「若さ故の過ち、一歩手前ね」
「ええ……国のために止めてほしい……下手したらわたし、国を乱した悪女になっちゃうじゃないですか……」
スターリーは立太子していないが、王太子になること間違いなしと云われているらしい。それほど彼は優秀ということもある。あとは第二、第三王子がまだ幼いためという理由もあるらしい。とりあえず、彼が王太子の位に一番近い立場なのだ。
そのせいで虐めに遭っているというのに、王子を誑かした悪女と国中に言われたら立場が悪くなるどころの話ではなくなる。考えるだけで末恐ろしくなる。
「アナタは若いわりに、けっこう客観的に物事見ているわね。夢見るお年頃でしょ? 本物の王子に好かれていたら舞い上がっちゃうとと思うけど」
「まあ、そうですね。好きな人がいなかったらそうなっていたかもしれませんけど」
「あらあら、まあまあ。つまり元の世界に好きな人がいるってこと?」
魔法使いが瞳を輝かせ、興味津々といった表情でグイッと万里に顔を近づける。
「はい。彼氏がいます」
万里は苦笑しながら答える。
「あらあら、つまりあの坊やは恋人がいる子を寝取ろうとしているのね?」
「まあ、彼氏がいることは言っていないんですが」
「ああ、言ったら色々と妨害してきそうだから?」
「はい……」
今は自分自身を使って異世界に未練を残し、あわよくば万里をこの世界に引き留めようとしていることは明白だった。
今の時点でこれだというのに、彼氏がいると知られたら元の世界に帰る方法を探してくれている魔法研究院の職員たちに何を仕出かすか分からない。
魔法は廃れているが、その魔法を研究している魔法研究院という施設がある。王立なので王族もあれこれ口に出しやすくて、元の世界に帰れる魔法、界渡りの魔法探しに、両陛下の名に尽力してくれている。王族の顔が利くということは、スターリーの顔も利くということだ。つまり妨害しやすい。
今のところは兆候はないが職員たちのため、そして万里のためにもスターリーには絶対に言わないほうがいい、とエムロードにも釘を刺された。
「それが定石ね。その恋人さんは同い年?」
「年上です。まあ、びっくりするほど離れてはいませんが。あ、殿下よりかは上です」
「なるほどね。ぶっちゃけ、坊やと彼氏、どっちのほうがいい?」
「彼氏」
「ふふ、即答」
魔法使いが愉快そうに小さく笑声を上げる。
「アナタは顔じゃなくて、中身で選んでいるのね。坊やは顔だけはとても整っているじゃない? それでも靡かないなんて、その彼氏さんはよほど良い人なのね」
「そう、ですね」
そっとあの人の顔を浮かべる。確かに顔は王子よりも劣るが、中身は万里にとって魅力溢れる人だった。不器用だけど優しくて頼りがいがあって面倒見がよくて、辛い過去があったのにそれを面に出さない強さを持った人。笑うと笑窪が可愛くて、ついつい笑顔をじっと見つめていたことを思い出し、ぎゅっと胸が締め付けられる。
「今凄く会いたいって顔をしているわね」
「わかります?」
「ええ。アナタ、恋人さんのことが大好きなのね」
魔法使いがニッコリと笑う。含みのない、綺麗な笑顔だった。
「一途な愛を貫くことは簡単で難しいこと。それを乗り越えるほどの強い想いだからこそアナタはブレない。いいわね、個人的にそういう子は応援したくなるわ」
「そ、そうですか」
「で、恋人さんに会いたいから、アナタは元の世界に帰りたいってことね?」
「それもありますが、家族と友達のことも心配ですし、それに」
「それに?」
魔法使いが笑みを崩さないまま、ちょこっと首を傾げる。
「とっとと殿下から逃げ出して、この追われる日々から解放されたいです」
「お嬢さんたちからの虐めから逃げたいよりも、まず坊やから逃げたいってことね?」
「そうですね」
スターリーは正直言って末恐ろしい。笑顔なのに底の知れぬ表情を浮かべていることもそうだが、最近は狂気じみたことを端々に感じてしまい、ヤンデレに目覚めていないだろうかと冷や冷やしている。
「早く逃げたいんですけど、帰る方法がまだ見つかっていないので当分無理なのが辛いですね」
「帰る方法、ねぇ」
魔法使いが目を細める。どこから出したのか、いつの間にか手に握っていた扇を口に当て呟く。
「あの坊やが素直に差し出すかしら、ねぇ」
「え」
そのとき、突風が吹いた。思わず目を瞑る。
突風が止み、目を開くとそこには魔法使いの姿はなかった。辺りを見渡しても影も姿もない。
「な、なんだったの」
まるで夢でも視ているような錯覚に陥る。
「ていうかなんでわたし、あんなベラベラと喋っちゃったんだろう」
誰がスターリーに繋がっているか分からないから、誰にも本心を吐露するなとエムロードにあれだけ酸っぱく言われたのに。ちゃんと気をつけていたはずなのに。
「これも魔法……?」
知らず知らずのうちに本音をぶちまける魔法があっても、不思議ではない。だって魔法だから。
(そういえば……)
ふと、疑問が浮かぶ。
(なんで高校生だってこと知っていたのかな?)
この世界に高校生という概念はない。だから学生ということで通している。
(どこからか情報が漏れたのかな? 念のためにエムロード様に報告しないと)
辺りの気配を探りつつ万里は踵を返し、そそくさと出入り口の方へ歩き出した。
魔法使いの含みを持った言葉の意味を知るのは、しばらく後のことだった。
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