5 ここから始める
夕陽が差し込み始めた部室で田中先輩と休憩していると、女性陣が戻ってきた。峰岸先輩は、衣装をハンガーに引っ掛けると、鞄を置いてすぐに部室を後にする。
「みんなは先に帰っていいよ。私は大講堂に寄ってくるから」
部室の鍵を渡すと、二宮先輩がゆったりと微笑んだ。
「あの二人の仲は気になるけど、お先に失礼するね。明日もよろしく。お疲れ」
菅原先輩は帰り支度を済ませ、さっさと一人立ち去ってしまった。いつも通りの風景である。定時を絶対に守りたいタイプらしい。
「じゃ、俺も帰るわ。お疲れさん」
田中先輩は自転車通学だ。この流れだと、俺は残った三人と帰ることになるだろうか。それとも二宮先輩を待ってから帰るのだろうか。
ちょっと前だったら神崎と一緒なことを喜んでいたのだろう。今はどうしたらいいのかわからない。不安だ。間に恵先輩と御厨さんがいるとはいえ。たまらなく憂鬱だ。
「それじゃあ、俺も失礼します」
「あ、ちょっと――」
逃げるようにその場を離れる。背中に恵先輩が声をかけてきたようだが、立ち止まりたくなかった。気づかないふりをして、脇目も振らず昇降口へと向かう。
「あのさ、幸村くん」
早歩きで昇降口へ着くと、駆け足の恵先輩が追いついてきた。しっかりと鞄を持って。
「茉莉也ちゃんと話してみたんだけど、幸村くんのこと、別に嫌ってるわけじゃないから安心して」
「え?」
「本番前にはっきりさせといた方がいいかと思って。不安はなくしたほうがいいでしょ? ちゃんと本人から聞いたから。『嫌ってるわけじゃない』、って」
「……何か含みがありますよね」
「その先は、相変わらず教えてくれなかった」
今日何度目かわからない溜息をついて、昇降口の外を見る。斜向かいの大講堂は、ここからでは見えない。
夕暮れの、オレンジ色の光が差し込んで、少し目に染みた。嫌われていないとわかってホッとしたが、ただそれだけだ。
「どこ見てるの?」
「大講堂の方を」
「どうして?」
「どうしてって……川嶋先輩を思い出して」
「茉莉也ちゃんが相談してたって話? そういえば、ちょっと気になってたんだよねー。信二先輩を頼りたい気持ちもわかるけど、なんで弘子に相談しなかったんだろう、って。三年生って、ちょっと大人というか、特別な感じじゃない? 先輩と先生の間っていうか。弘子の方が身近に感じるはずだもん」
それは、神崎が川嶋先輩に惚れているからじゃないですか?
そう言おうとして、疑問が湧いてきた。
恵先輩の目から見て、そう映っていないということなのか。
「あの、恵先輩――」
振り返ると同時に、俺と恵先輩との間に、小柄な影が飛び込んできた。
「……神崎?」
神崎が俺の左手の袖をきゅっと握って、上目遣いで俺の顔を窺ってきた。
ふと、二か月ほど前の記憶がよみがえる。
神崎と最初に出会った日。体験入部の初日。昇降口で互いの演劇への想いを語り合った日。
あの日も、夕陽が差し込んで、オレンジ色に染まっていた。
俺にとっては、自分を見つめなおすきっかけになった分岐点。
そして、神崎と出会った、大切な日だ。
その日の記憶と現実の光景が交差して、得も言われぬ感傷がぐっと押し寄せてきた。
「あ、あの……」
神崎はすぐに口ごもる。その表情には、困惑の色がありありと浮かんでいた。
「ご、ごめんなさい」
顔をくしゃりと歪め、辛うじてそう言ってから、ばっと駆け出してしまった。掴もうとした手は、するりと宙を切った。
「神崎!」
叫んでも、神崎は止まらなかった。たぶん、向かった先は、大講堂だ。
「幸村くん、追いかけて!」
「は、はい」
間抜けな声で返事すると、恵先輩の表情がこわばった。何事かと振り返ると、大講堂から峰岸先輩がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「まったく、君たちは何をしているんだ」
呆れたように、大仰に、峰岸先輩は息を吐いてやれやれと首を振った。
「こんなに拗らせているとは思わなかったよ」
「……琴美先輩に、何がわかるんですか」
カチンときたのか、恵先輩が刺々しい口調で言った。こんなに敵意をむき出しにする恵先輩を初めて見た。
「言ったろう。ある程度はわかっている、と。少々想定外のこともあったが」
すると峰岸先輩は、一転して優しげに微笑む。
「私に遠慮しているのかい」
息を吞む音が、恵先輩の口から洩れた。俺は混乱していたせいか、「遠慮」が川嶋先輩のことを指していると気づくのに数瞬かかってしまった。
「文化祭を楽しみにしている、と私が言ったから、台無しにしないように遠慮しているのだろう」
バカだなあ、と小さく苦笑いして、恵先輩の頭を優しく撫でる。恵先輩は、泣きそうな表情でぐっとこらえていた。
「気にするな。好きに動け」
「そ、そう言われましても……」
「もう今更だよ。考えてもみろ。茉莉也を巡って、私と信二は対立している。このまま何も動かなければ、どのみち壊れるんだよ」
「……琴美先輩のせいじゃないですか」
「そうだね」
くしゃくしゃに歪んだ恵先輩の表情を見て、ゆっくりと、恵先輩を正面から抱きしめる。
「私は思いのままに行動している。だから、君たちも好きに動け」
それだけ言って、峰岸先輩は職員室の方へと去っていった。完全に姿が見えなくなってから、恵先輩がへなへなと後ずさりして、壁にぺたりと背中からもたれかかる。
「う~。私、嫌なこと言った!」
顔を手で覆って、左足で地団駄を踏む。もし俺が恵先輩の立場だったら、きっと似たようなことを言っていたと思う。
「……ここで動かないと、俺も、ただのダメなやつですよね」
「よし」
バチン、と恵先輩が自分の両頬を叩いた。大きな音に、ぎょっと目を剝いてしまう。さすがに痛そうだ。幸い、頬はちょっと赤くなっているだけで済んでいた。
「覚悟決めよっか」
「……そうですね」
何も動かなければ、どのみち壊れる。動いたとしても、どのみち壊れる?
だったら、動いた方がいいに決まっている。
どうしてこうなったんだろう。神崎の泣きそうな顔を思い出す。もう壊れているのかもしれない。どうして?
わからない。だから、聞きに行かないと。
「今日、勝負します」
「え、今日?」
「はい」
「……そっか」
行動しなければ、必ず別れは訪れる。
そんなの、嫌だ。
たとえ振られたとしても。
今日ですべてが終わるんじゃない。今、ここから、始めるんだ。
「信二先輩、まだ残ってるよね」
恵先輩はそう呟くと、大講堂の方へと一目散に駆け出して行った。
「先輩! ちょっと!」
「幸村くん」
追いかけようとしたところで、背中から声を掛けられ立ち止まる。
「御厨さん……?」
「ごめんなさい。峰岸先輩との話、聞いていました」
深々と、美しい所作で、長い艶やかな髪を揺らして頭を下げる。
「最初は要領を得なかったんですけど……」
頭を上げた御厨さんの表情は、真剣そのものだった。
「『勝負します』、って、そう言いましたよね」
真っ直ぐな視線。逸らしてはいけない。そう思わせる、強い意思を感じる。
見つめ返し、自信をもって大きく頷く。
「つまり、幸村くんは茉莉也ちゃんが好き。そういうことでいいんですね」
「ああ」
御厨さんはじっと目をつむり、数瞬ののち、外を見つめながら滔々と語りだした。
「これは、一か月ほど前の水曜のことです――」
「すっかり遅くなってしまいましたね、茉莉也ちゃん」
「ごめん。付き合ってもらっちゃって」
「責めてるわけじゃないんです。むしろ今の状況を楽しんでますから。それにほら。私も読みたかった本を買うことができたので。地元では見つからなかったものですから」
「門限、大丈夫?」
「大丈夫ですよ。お母様には電話を入れましたから。部活で遅くなるって。悪い子ですね」
「紫苑ちゃんもズルするんだ」
「それはもう。女子高生ですから」
「なんか……卑猥に聞こえる」
「どうしてですか!」
「ギャップというか……」
「そういえば茉莉也ちゃんって、結構ズバズバ言いますよね」
「うぅ、気をつけてるつもりだけど」
「いいじゃないですか。隠し続けてると、猫を被ってると思われますよ」
「猫を被ってる……あまり、否定できない」
「うーん……私から言っておいてなんですが、そんな性悪には思えないですけど。でも、幸村くんにはちょっとくらい見せた方がいいかもしれませんね」
「前、毒がある、って言われたことがある」
「幸村くんは理解がありますね」
「……あれ?」
「どうしました?」
「あれって……」
「今スタドから出てきたの、幸村くんと恵先輩?」
「どうして……」
「珍しい組み合わせですね。それに、恵先輩、こそこそしてるような……あっ、茉莉也ちゃん! 引き返してどこに行くんですか! 茉莉也ちゃん!」
「――ということがありまして」
二人きりだとこんな感じなんだな。まあでも、そんなにイメージと外れてない気もする。ちょびっと毒がある神崎も、少し斜め上にずれている御厨さんも。
そもそもこの空気でこの会話。フォローなのか笑わせる気なのか。やっぱり御厨さんはずれているんだよな。このままの御厨さんでい続けてほしいものだ。
「あの日から、茉莉也ちゃんの様子がおかしくなったように思います」
俺と恵先輩が一緒にいるのを見て、それから様子がおかしくなった。
でも、嫉妬のはずはない。だって、神崎も、恵先輩の気持ちは知っているのだから。俺のことを好きじゃないって、知っているのだから。
「ねえ。それって――」
「さあ、どうでしょう」
俺が言葉を紡ごうとすると、先回りして御厨さんがはぐらかした。
「どういう気持ちなのか、ちゃんと茉莉也ちゃんの口から聞いたわけではありません。これは幸村くんが直接聞くべきだと、そう思います」
「……どうして話してくれたの」
「友達がギクシャクしているのは嫌ですから。早く仲直りしてほしいんです」
「別に喧嘩しているわけじゃないけど」
「仲たがいはしています」
それは事実なので閉口するしかない。反論の余地はない。
「私は、事実を伝えただけです。あとは幸村くんが決めてください。でも、必ず仲直りはしてください」
「無茶を言うなあ」
発破をかけている、ということか。実際ここまでうじうじと悩んでいたのだから、俺が文句を言う筋合いはない。
でも、大丈夫。もう逃げない。そう決めたから。
「ありがとう。頑張るよ」
「はい。お二人を応援しています」
ふわりと微笑む御厨さんが、俺の手から鞄をひったくった。すぐにでも向かえと、そういう言外の意思表示。
俺は手を挙げて踵を返し、全速力で走る。校舎の中とか、今は関係ない。
動悸が激しくなる。当然、緊張はしている。
これから何が起こるか、俺にはわからない。峰岸先輩とか、事情を知っている人から見ると滑稽なのかもしれない。でも、今を生きている俺には必死でしかない。人の気持ちを量るのは苦手だ。
そんな俺は、伝える努力をしたのだろうか。
自分で何もしていないのに、期待ばかりしていたのではないか。
大馬鹿野郎だ。俺は。
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