4 本番前に
「お疲れ様」
ゲネが終わり、調光室から朝倉先生が下りてくる。
「いいんじゃないか。ミスもあったが、それぞれがフォローできている。破綻はしていない。この調子なら、明日も問題はなさそうだ」
一か月以上、あれだけ練習しても、ミスは生まれてしまった。一つや二つじゃない。いくつも重なってしまった。
俺も当然の如くミスをした。台詞の中の単語を一つ飛ばしてしまったせいで、会話のリズムがわずかに揺らいだ。それを、不自然にならないように、川嶋先輩がアドリブで器用に修正してくれた。
ゲネが終わってからずっと、心臓が早鐘を打ち続けている。昂奮が冷めやらない。
始まる前はあれだけ緊張していたのに、いざ劇が始まると、身体が自然と動いて止まらなかった。ミスはしたけど、楽しくて仕方がなかった。
今のうちにミスをしておいてよかった。明日は、今日よりいい演技ができる。ワクワクが止まらない。
これが、二宮先輩が言っていたことなんだ。
「それでは先生。寸評を」
峰岸先輩の言葉に、ぐんと現実に引き戻された。
「そうだな。初めてということで、一年生を公開処刑しようか。御厨は勘弁してやる」
もうちょっとくらい余韻に浸っていたかったのに。
朝倉先生が、ぐるんと能面のような表情でこちらを向いた。
「幸村。発声が甘い。動きが小さい。それは衣装のせいだけじゃない。ミスをしないようにと、正確さを意識するあまり縮こまっているんだ。終盤はよくなったが、序盤は実によろしくない。もっと大袈裟でいい。舵は他の連中が取ってくれる」
グサリと胸の中心を突き刺された。
確かに、ミスをしないようにこじんまりとした感は否めない。さらにミスをすればより顕著に。途中から吹っ切れたものの……。すべて先生の言う通りだった。
「神崎。お前は力みすぎだ。ジュリエットはお転婆だが、今の演技ではじゃじゃ馬だ。逆に『静』の動きのとき、力が抜けすぎてブラブラしている。ピンキリがすぎる。加減しろ」
しゅん、と神崎が小さくなった。俺も似たようなものだ。
値踏みするように朝倉先生が俺たちを交互に見る。それから、ニッと口角を上げた。
「悪いところばかり挙げたが、全体的には及第点だな。新入生だから、という色眼鏡もなしに。お前ら二人とも、もう戦力になってるよ。……どうした、呆けたりして」
もっと厳しい評価が来ると思っていたから面食らってしまった。それとも本当に認めてくれたということだろうか。だとしたら、もの凄く嬉しい。
自信と、不安と、困惑の狭間でふわふわしている。混乱して突っ立っていると、後ろからポン、と峰岸先輩に肩を叩かれた。
「二人とも、もっと喜べ。朝倉先生はとりたて厳しいわけでもないが、お世辞を並べるような人でもない。正当な評価だと胸を張るがいい」
「なーんかバカにされてる気がするんだがねえ、峰岸」
朝倉先生が、胸ポケットを手探ってタバコを取り出し、我に返っては舌打ちしてタバコを胸ポケットにねじ込んだ。生徒の前で思わずタバコを手にするのはやめていただきたい。
「そういうことで撤収。あとの連中には一人ひとり寸評をくれてやるから、覚悟しとけ」
パン、と手を叩いたのを合図に、一斉に散らばって小道具や衣装を拾っていく。明日が本番とはいえ、公共の場だ。置いていくという不用心なことはできない。誰が何をすることもないだろうが念のためだ。ゴミと間違えられたりしたらまずいし。
「川嶋」
朝倉先生が、川嶋先輩を呼び止めて今日の評価を伝えていた。
「サポートしようと気を張りすぎだ。身体が一年生ら三人の方に向きすぎだ。父親か。気になるのは結構だが、客席に身体を向けなけりゃあ本末転倒だろうが。それから――」
川嶋先輩が注意を受けていた技術的な部分は、たいてい俺もできていない。
自分のダメなところを見つめなおすのも楽しい。どんどんワクワクしてくる。
ああ、ちくしょう。楽しいな。こんな日が、いつまでも続いてほしい。
ふぅ、っと息を吐いて顔を上げると、小道具をまとめ終えた神崎が目に入った。瞬間、胸がぐっと締め上げられる感覚に陥る。
この楽しい日々を続けるためには、俺は、どうすることが正解なのだろう。
ガリガリと頭をかいて、もう一つ息を大きく吐いた。
今はこの感情に委ねるしかない。それが正解だって、演劇初心者の俺が成長するための近道だって、そう結論づけたはずじゃないか。それが自己暗示だとしても。
夕方の五時半。まだ外は明るい。それと対比するように陰鬱とした気分を引きずりながら、更衣室に引き上げて衣装を脱ぐ。一気に身軽になって、むしろ何だか落ち着かない。
「健吾。幸村。俺はいったん大講堂に戻る。朝倉先生と琴美と、明日の準備があるんだわ。部室の鍵は預けるからよ。先に帰ってくれや。戸締りは二宮に任せてくれ」
川嶋先輩が、俺に鍵をぞんざいに押しつけた。
苛立っているようだった。俺に。
ここにいる正部員が俺だけだから、仕方なく俺に鍵を渡した。そんな雰囲気だ。
苛立ち。間違いない。勘違いじゃない。
「お前と峰岸、仲直りしたのか?」
「するか。仕方ねえだろ」
「副部長殿も大変だねえ」
「茶化すな」
川嶋先輩が、田中先輩と雑談を交わしながら制服のボタンを留め、首をぐるんと俺の方に伸ばしてくる。
「何か言いたげだな」
ぐっ、と声が詰まった。そんなに顔に出てただろうか。
なぜ先輩が俺に怒っているのかわからないけど、かと言って逃げ場はない。
「喧嘩の原因って、神崎が悩んでいたことじゃないですか。俺も神崎に何かしてやれなかったのかって、ちょっと後悔があって」
神崎はたぶん、川嶋先輩のことが好きなんですよ。
そんな言葉は口にできない。ただ、俺の情けない後ろめたさを吐露するだけだ。
「ふぅん」
あまり面白くなさそうに、川嶋先輩が鼻を鳴らす。
「前に言ってたろ。異性だから話しづらいこともある、ってよ。琴美のやつならどうにかできたかもしれねえ。それでもあいつは傍観することを決めた。好きじゃねえな。その選択はよ」
「あの、川嶋先輩も、峰岸先輩も、何か知ってるんですよね。何があったんですか」
「んなこと、自分で聞けよ」
鞄を持って、更衣室を出ていこうとする。慌てて俺は川嶋先輩を呼び止めた。
「聞いても教えてくれないんです」
「だろうな」
乾いた笑い声をこぼした川嶋先輩を、田中先輩がきつく睨みつけた。
「後輩に当たってんなよ」
「そんなんじゃねえ」
「今のお前、峰岸がやってることと何が違うんだよ」
カッ、と川嶋先輩が目を見開いたのが分かった。まずい。そう直感して、余計かとは思いながらも、身体を二人の間にねじ込んだ。
「……これも前に言ったがよ。神崎が一番信頼しているのは、幸村だ。なのに教えてくれないわけだ。なんでだろうな」
そう言われても知るわけがない。ただただ他人に言いたくなかっただけじゃないのか。それとも、川嶋先輩は俺の気持ちを知っているから、遠回しに俺のことを哀れだとバカにしているのだろうか。
気が荒ぶって思わず睨みつけるが、見下ろす川嶋先輩の視線は冷たい。ビクッと肩が震え二の句が継げないでいると、何かを諦めたように視線を逸らされた。
「自分の胸に聞いてみろ」
言うや否や、川嶋先輩は乱暴にドアを開けて去っていった。
立ち尽くす俺の肩に、田中先輩がやさしく手を置いた。
「気にすんな、って言っても無理だろうが、なるべく忘れてくれ。あいつも、峰岸との件で気が立ってるんだろう」
「……はい。ありがとうございます」
「俺たちもさっさと帰ろうぜ」
本当にただの八つ当たりだろうか。
川嶋先輩は何を伝えようとしてくれていたのだろう。神崎のこと? それだけじゃない。何かがあるはずなのに。自分のことでいっぱいいっぱいで、頭が回らない。
がっくりと項垂れながら、部室へと引き上げる。川嶋先輩はいなかった。
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