4 ビラ配り 成長と成果

 翌週の水曜日。昼休みに、峰岸先輩からチャットが届いた。


『放課後にビラを配る。ホームルームが終わり次第、速やかに部室へ向かうように』


 とのことだった。


 放課後、一目散に部室に着くと、二宮先輩が大量のチラシを幾束かに分別していた。


「二人とも、これを見て」


 渡されたチラシは、自主公演の広告だった。

 上部にはでかでかと、『ロミオとジュリエット』、と厳めしいフォントで書かれている。また、中央部は一目でイタリアの都市とわかるようなシルエットの絵が印刷されている。

 これは完全に余談だが、原作を読むまで、舞台がイタリアのヴェローナだということを知らなかった。


 イタリアの街のシルエットの下には、これまたわかりやすく公演日程が記されている。

 出演者も明記されているが、役名までは記載されていない。まだ引き返せるが、心の中では半ば決心がついている。


「このビラ、誰が作ったんですか?」

「俺だ」


 と、川嶋先輩がたいしたことでもなさそうに言った。さすがはこの部の名参謀である。


 感嘆と同時に、しかし、現在かなり多くの役割を川嶋先輩が担っているため、部としての先行きが不安でもある。俺もこのレベルとまではいかなくとも、ある程度技術を盗んでおかないと、来年再来年で苦労する予感がする。


「ビラを配る許可は先生からもらっている。今日から少しずつこのビラを配っていくよ」

「そいじゃあカチコミだ。さっさと昇降口行くぞ」


 ビラを小脇に抱えるや否や、峰岸先輩を先頭に昇降口へと急ぎで駆けていく。

 昇降口は帰宅する生徒たちでごった返していて、一気にビラをさばけそうだ。


「二年生二人は別れて校門に向かって」

「了解です!」


 恵先輩が、スカートがわずかも揺れぬほど流麗なフォームで内履きのまま外に飛び出す。次いで、二宮先輩も俊敏な動きで駆けて行った。


「演劇部、春の自主公演! ぜひ観に来てください!」


 峰岸先輩が昇降口の前で声を張り上げると大勢の生徒が振り返る。

 それでも、気後れしているのか、興味がないのか、ビラを直接取りに来る生徒はいない。


「よろしくお願いします!」


 すかさず川嶋先輩が足を止めた生徒にビラを押し付けていく。言い方は悪いかもしれないが、押し付けているという表現がピッタリだった。


 俺と神崎も見様見真似で配っていく。

 しかし、現実は非情で、受け取ってくれない生徒も多い。川嶋先輩からも、峰岸先輩からすらも。俺と神崎に至っては、目もくれてもらえない。


「よろしくお願いします」

「よ、よろしくお願いします」


 慣れないビラ配り。俺と神崎の声は震えていた。たぶん、神崎にも俺の緊張が伝わっている。お互いの緊張が共鳴して増幅していくようだった。


「ほら、もっと声を張り上げろ」

「はい……!」


 川嶋先輩がすれ違いざまに俺の背をトンと叩く。


「ガチガチになりすぎだ。肩の力を抜け」


 そうは言われても。

 頭ではわかっていても、身体はどんどん鈍くなっていく。ずぶずぶと沈んでいくように足が重くなって、きゅっと押さえつけられたように喉が絞まっていく。


「茉莉也ちゃん。もっとお腹から声を出して。スーッと抜けてしまっている。その声ではお客さんの心には響かないよ」

「は、恥ずかしくて」

「舞台上はもっと人の視線が集中するんだ。これくらいで恥ずかしがってどうする」

「舞台上なら、こんなにはっきりお客さんの顔は見えないじゃないですか」


 パニックになっているのだろう。神崎が小声で峰岸先輩に反論する。正直俺も同意見だったので、諫めることはできなかった。


「うぅむ。やれやれ」


 嘆息した峰岸先輩が、ビラを配る手と駆けまわる足を一旦停めて、


「一年生諸君」


 キリッと表情を変えて、ゆっくり俺たちの瞳を覗き込んできた。

 周囲の生徒たちが、何事かという好奇の視線を送ってくるのがわかった。

 でも、それが気にならないくらい、峰岸先輩の強い眼力に吸い寄せられていく。スッと頭が冴えていくような感覚に包まれていく。


「変わりたいのだろう?」


 峰岸先輩は、胸をズン、と刺すような鋭い眼光で、けれど聖母を思わせるような優しい口元と声音で、たった一言だけ、そう言った。


 まるで魂に訴えかけられたようだった。

 背中を押してくれているのだ。急かすのではなく、あくまで俺たちの意思を試している。


 自分たちで踏み出せ、と。


 魔法にかかったように、不意に気分が軽くなった。

 そして、俺もこんな、心を揺さぶるような人になりたいと、そう思った。


 今がそのチャンス。第一歩なんだ。足を踏み出すなら、今しかない。

 俺の拙い技術でも、心から振り絞れば、きっと誰かに届くのだと信じて。


「演劇部、来月に自主公演をやります! よろしくお願いします!」


 自分でも驚くほどの大きな声が出た。

 クルッ、と遠くの生徒たちの顔が自分に向く。脳裏に、部活動勧誘のときの恵先輩が浮かんだ。


 俺の声に、俺の方に振り返ってくれる。他の誰でもなく、俺の方を見てくれている。

 練習の成果が出たようで嬉しかった。「みんなが楽しんでくれる演技」だってできるのではないか。そんな根拠のない自信も沸いてきた。


 戻ってきた恵先輩がポン、と俺の肩を叩いて、グッ、と親指を立ててくれる。不思議なもので、自信がつくと実力以上の力が込み上げてくるような気すらしてくる。


 声を張り上げるたび、手元からどんどんビラがはけていく。先輩方には及ばないけど、さっきよりも確実に速いスピードで。


 俺はビラを配りながら、神崎に目配せした。でも、俺がそんな気を利かせるまでもなく、神崎はすでに腹を決めているようだった。


「演劇部、春の自主公演のお知らせです! よろしくお願いします!」


 神崎の声が、場の空気を支配した。普段の自信なさげな雰囲気は微塵もなく、凛とした澄み切った声が昇降口に響き渡る。


 教室での神崎を見ている俺としては、なんだか奇妙で。でも、部活で一緒に練習している身としては、むしろこんなもんじゃないぞと声を大にして言いたいくらいでもあった。

 同時に、「俺は知っているんだぞ」、という優越感や独占欲のようなものも込み上げてきた。


「やるじゃん、神崎」


 川嶋先輩がそう言って朗らかに笑う。


 しまった。俺が先にこうやって好感度を上げに行くチャンスだったのに。なんて、そんな邪な気持ちをぐっと堪えて、ビラをひたすらに配り続けた。


 そこから十分ほど経って人足が減ってきたころ、遠くからドタバタと、こちらに向かって駆けてくる足音が聞こえた。


「噂の一年生たち、発見!」


 音の正体は、首に下げた一眼レフカメラを構えた三枝だった。ズザザ、と滑るように現れ、うまく止まれず横に倒れそうになっていた。慌ただしいやつだ。


「どうした、一年生」

「あの、噂って……?」


 神崎の疑問に、三枝はニタアッ、と獲物を狙う蛇のような笑みを浮かべた。


「随分と話題になってるよ。活きのいい一年生たちが演劇部の舞台宣伝をしてるって」

「早すぎね?」

「学校内なんてそんなもんじゃない?」


 そんなバカな。少なくとも俺は、他の部の一年生たちの動向なんぞ聞いたこともない。俺が疎いだけなのか。それともやっぱり三枝の耳が早いだけなのか。


「ということで取材に来ました。私のことは背景だと思って。あ、写真撮っていいですか」

「構わんよ。一年生たちも出演する。記事にするなら、彼らを主役にしてくれ」

「了解です!」


 峰岸先輩があっさりと許可を下ろして、水を得た魚のように三枝がパシャパシャとフラッシュをたきまくった。眩しいからやめろ。この明るさの中なんでフラッシュ使ってんだ。


「新聞部の君。お客さんが逃げるから、フラッシュは勘弁してくれ」

「す、すみません……」


 至極真っ当な峰岸先輩のお説教で、大人しくパシャリと距離を開けて撮り始める。


 三枝の立ち位置は気が利いていて、俺たち演劇部員を邪魔しないように立ち回っている。かつ、ビラを手渡した相手の顔が映らないように撮影している。それを見て、峰岸先輩は満足そうに頷いた。


「は、恥ずかしい……」


 撮られるたび、神崎は身もだえていた。その反応がお気に召したか、三枝は恥ずかしがっている神崎の姿を写真に収める。あとでその写真をもらえないか交渉してみよう。


「春の自主公演、よろしくお願いします!」


 自分では見えないけれど、生き生きとした笑顔が出せているような、そんな気がしている。


 ビラを手渡した瞬間、横からこちらに向かってシャッターを切った気配がして、神崎の気持ちがようやく理解できた。


 恥ずかしいじゃねえか。

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