3 今見えるものを

「ダブルチーズバーガーで……!」


 神崎が興奮した様子で、レジカウンターの上のメニュー表を指差した。ダブルチーズという言葉の響きにご執心だ。よっぽど魅力的に映るのだろう。


「単品でよろしいですか?」

「ええと……」


 先ほどまでのテンションが嘘のようにシュッと鎮火した。かわいそうだが、心を鬼にして横から見守る。


「た、単品で」


 明らかにポテトに視線を送っていたのに、結局は諦めてしまったらしい。


「飲み物は?」


 わずかばかりの助け舟を出すと、神崎ははっと顔を上げ、


「オレンジジュースも……」


 と、今にも消え入りそうな声で続けた。


「サイズはいかがなさいますか」

「あ、Mサイズを……」

「かしこまりました」

「テリヤキバーガーセットで。飲み物はコーラのL」


 普通に注文するだけで尊敬の視線を送ってくる神崎。ハードルが低すぎてめっちゃ困る。あと罪悪感。


 番号札を受け取り、席を確保。混雑していたが、ちょうど一席だけ空いていた。


 水族館に三時間ほど滞在し、正午を回った。

 現在、水族館近くのファストフード店にいる。全国チェーンを展開している国民的ハンバーガーショップ。神崎の提案だ。こういう店にはあまり来ないらしく、多大なる興味を抱いていた。結果、注文はあんな具合になったというわけだ。


 ポテトを神崎側へ寄せると、神崎はひれ伏さんばかりに喜んだ。俺は救世主か何かなのだろうか。ジャンクフード店に現れる救世主。何とも安っぽい。


 ホッと一息ついた神崎は、包みからハンバーガーを三分の一ほど取り出し、両手で持って小さくぱくついている。小動物みたいでかわいい。


「参考になったか」

「うん。割と」


 ウキウキ気分の神崎が、唇の端にソースをつけたまま子どもっぽく微笑む。


「動物を観るのも、人間を観るのも、楽しい」

「同列に扱っていいのか」


 苦笑いしながらも、パクパクと頬張る神崎を眺める。こういう何気ない日常が、たまらなく好きだ。常に向上心と挑戦心を持ち続けていたいとは思うが、時に休息も必要。その束の間の癒しとして、今日は実にいい一日だ。


「どうしたの?」

「あ、いや……」


 ボーっと見つめていたところ、視線が交錯し慌ててしまった。食事風景をじっと見続けるのも失礼だし、何より、見惚れていた事実に気がつき、それに気づかれてしまったのではないかと狼狽した。


「楽しそうでよかったなあ、って。来た甲斐があったよ」

「ありがとう」


 付け足すように言うと、神崎は柔らかくはにかんだ。


「喫茶店に行って、水族館や、ファストフード店。幸村くんのおかげで、色々なとこに行ける」


 目を瞑り、思い起こすように神崎が相好を崩す。

 お姉さんとだって行けるだろう、とか、御厨さんとだって行けるだろう、とか、そう思うものの、俺を誘ってくれるのは嬉しい。神崎の助けになっているのなら僥倖であるし、役得でもある。


「幸村くんは、楽しんでる?」

「ああ、もちろん。楽しいよ」

「よかった」


 おずおずと訊ねてきた神崎が、俺の返事を聞いてホッとしたように息を吐く。そりゃあそうか。神崎も、俺の反応を気にしていたんだ。

 やっぱり、嬉しいな。


「これからどうする?」

「どうしよう、かな……まだお昼だし」


 帰るには早い。でも、所詮は高校一年生。昔より行動範囲は広がったけど、なにせ先立つものがない。となると、定番かもしれんが……いや、定番だからこそか。


「映画でもどうだ」


 訊くと、神崎は一も二もなく肯いた。


「行く」

「決まりだな」


 財布の中身を確認しなかったのは気になるが、まあ、足が出たらおごればいい。神崎のことだから「おごり」じゃなくて「貸し」にしてくれと言ってくるのだろうが。


 調べると、近場の映画館が、どの映画も次の放映まで一時間ほど。もふもふと少し急ぎながらハンバーガーをかじる神崎をなだめ、ゆっくり食べるよう促す。より一層ハムスター感が強くなっていた。


 満足げな神崎とともに店を出て、ゆっくりと歩き出す。映画館までは、バスに乗らずに歩いていける距離だ。


「……これでいいか?」


 スマホで映画のホームページを開き、神崎に見せる。


 巷で噂の、泣けると評判の恋愛映画だ。


 神崎はこういうのが観たいのではないか、という考えで選んだのだが、ちょっと下心が見え透いているようで、なんだか提言するのが小っ恥ずかしかった。

 チラッと神崎の反応を窺うと、


「私も、これ観たかったの」


 そう言って頷いてくれた。安心して、ホッと一息。


 映画館に着いて、神崎が学生証を取り出す。俺も取り出すと、神崎は相変わらず「高校生、二枚」とドヤ顔で注文していた。

 続けて、売店で「ポップコーンのキャラメル味と、オレンジジュース」と注文。


「神崎って細いのによく食べるなあ」

「……どうして私が細いって知ってるの?」

「え」


 いやだって、ぱっと見で細いじゃん。別にいやらしいこと考えてないぞ? 

 うろたえてしまう俺をじっと見ていた神崎が、不意に笑いだした。


「からかったな」

「いつもの仕返し」

「そんなにからかってるつもりもないんだけど」


 無邪気に笑う神崎。まったく、やってくれるよ。


 予約したシアターの座席に着く。まだ三十分前だけど、休日の昼過ぎだからか、いい席は埋まっていた。後方の右端という、正直いまいちな席だ。唐突に思いついたのだからこればかりは仕方ない。


「カップル、多いね」

「……そうだな」


 ダメだ。これは意識する。めっちゃカップル多い。


 そりゃそうか。恋愛映画だもんな。全体的に見て、女性の方が大多数。男はいても彼女連れ。お一人様の強者男子はいない。


 神崎は興味深そうに周囲を見渡す。自分もカップルに見られてるのかも、とか、そういった意識はなさそうだ。異性として見られていないようで、それはそれで不服である。

 そんな悶々とした気持ちを、相も変わらず抱き続けていた。




「面白かったぁ」


 神崎が満足げに手のひらを合わせて、ほぅっ、ととろけた表情を見せる。その瞳は、少し赤くなっていた。


「話題になるだけあるな」

「うん。満足」


 映画館を出て、二人連れ立って駅へ向かって歩いていく。結構長い時間遊んだし、金も使った。少し早いけど、このまま解散だ。


 午後の四時。まだ空は明るい。夕方に見た方が雰囲気の出る映画だったかもしれない。ただ、昼間から見ても大満足だった。


 病による、恋人との死別。定番中の定番。お涙頂戴の押し付けと、あまり得意じゃないジャンルだったが……彼女が病気で弱っていく姿とか、当人たちや周囲の感情の変化とか、リアルかつ丁寧で、それでもエンタメ性を損なっていない、配分が素晴らしい映画だった。


「なんだか、不思議」


 少し伸びをして、神崎がポツリと言った。


「演劇始めたからか、背景とか、カメラの角度とか、演出とか。そういうのに目が行くようになった」

「わかる。あと、役者の喋り方とか、抑揚とか」


 神崎が、苦笑いしながら頷いた。純粋に見られなくなったことを悲しめばいいのか、より細かく堪能できるようになったことを喜べばいいのか、難しいところだ。


「例えばさ、俺はまだ恋愛を知らないわけで、本当の意味でロミオの気持ちはわからない」

「それは私も」

「もしも……俺に恋人ができたとして」

「え?」


 突然の仮定に驚いたか、神崎が目を丸くして驚きの色を見せた。


「恋人ができたとしたら、今の独り身の気持ちも、忘れちゃうものなのかな」


 積極的に恋人がほしいと思ったことはないけど、いつか彼女持ちを羨む日も来るのだろう。そしてそのときに覚える感情は、実際に彼女が出来たら忘れてしまうのだろう。


「人間は、良くも悪くも、忘れる生き物」

「そうだな」


 ロミオは物語の最初から、恋に恋し、女性を追い続けている。そしてジュリエットという最愛の恋人を手に入れる。恋に破れる時期と、恋に落ちる瞬間と、恋に浮かれる時期とを、同時に演じるのだ。


 だが人間は、経てきた感情のすべてを覚えていられるわけじゃない。だからやっぱり、実体験を基に演じるというのは、必ずしも正解ではない。空想に説得力を持たせるのがベターだ。

 もしもすべての思い出を胸にしまい続けられるなら、何でも演じることができるのに。


「初めて、忘れることが怖いかもしれない」


 俺の独り言のような呟きに、神崎は少しだけ空を仰いで、


「そういうこと、今後もやって来るのかも。忘れたい、嫌な出来事。それでも、役者にとっては、きっと芸の肥やし」


 芸の肥やし。そんなこと、考えたこともなかった。辛い思い出も力に変えられるような、強い人間に、俺はなれるのだろうか。


「……難しいな」

「うん」


 その声は、とても大人びて聞こえた。魅力的で、同時に置いて行かれるのではないか、という寂しさを感じさせる響きでもあった。


「今見えるものを、大事に、胸にしまっておきたい」


 神崎は胸元に手を持っていきながら、俺を仰ぎ見、柔らかく微笑んだ。


「だから、今日のことは忘れない」


 あまりに華やいだ笑顔に、勘違いすらしてしまいそうになる。

 神崎は本当に、ずるい。


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