2 水族館と神崎
これはあくまでデートの練習である。
練習でも、興奮するには十分すぎる。
前日から服装を念入りにチェック。あまり気合が入りすぎても「え、何、こいつ……」とドン引きされるのがオチなので――神崎がそう思うかはともかく――まあ、ほどほどに。
無難な恰好。それはそれで悩ましいもので、何時間も頭をひねらせた結果、Tシャツの上に薄手のパーカー、ジーンズにスニーカーというコーデに落ち着いた。もはやそれが普通なのかもわからなくなっていた。
当日はドキドキしっぱなしで、待ち合わせの一時間近く前には駅前時計台にたどり着いてしまった。
まだ朝の八時とちょっと。部活に向かう学生や、通勤途中のサラリーマンたちがポツリポツリと行き交っている。土曜日なのでその数はさほど多くない。その中で、「これから美少女とデートに行ってくるんだぜ」、という優越感が頭をもたげてくる。あと一時間、余裕綽々でいられそうだ。
さて、これからについて軽くシミュレートを――。
「あ、すみません」
空を見上げながら何となしに一歩下がると、誰かにぶつかってしまった。
「こちらこそすみません――幸村くん?」
「神崎?」
ぶつかった相手は、神崎だった。
……お?
「あれ、神崎、なんで」
唖然として、口をポカンと開けてしまう。傍から見たら、それはそれは滑稽な表情をしていたことであろう。
「幸村くんこそ、まだ一時間前」
「いや、それは……」
楽しみで浮かれていました、なんて言えない。その発言は普通にキモい。
「遅れたらまずいと思って。男が後から来るなんて、なんかダサいじゃん」
「そんなこと、ないと思うけど……」
心からの疑問、といった純粋無垢な視線を投げかけてくる神崎。そのままのあなたでいてください。
「そういう神崎こそ、早いじゃん」
「私が誘ったから、それこそ遅れたらまずい」
そういって胸を張る神崎。胸の膨らみに一瞬だけ目が行ったのは男の性だから仕方がないとして。
青いワンピースの上に、茶色のカーディガン。水色のショルダーバッグ。清楚な上品さが滲みだしている。神崎は行動的ではあるものの、普段は大人しめで、読書をしている姿が様になっているようなタイプだ。その中間点にあるような雰囲気が、いかにも神崎らしさを表現していた。
「ああ、その……」
喉が引きつってパサパサに乾き始めた。今日の俺、徹頭徹尾気持ち悪いな。
「似合ってるよ」
なけなしの勇気を振り絞る。女子を褒めることすら慣れていない超絶奥手野郎にしては頑張った方だと思う。
「あ、ありがとう」
照れたように、神崎が自分の恰好を見下ろしてはにかんだ。
「お姉ちゃんが選んでくれた服なんだけど……」
なるほど。それはイメージとピッタリなわけだ。仲はいいみたいだし、妹想いのお姉さんなんだろう。
「お姉さん、センスいいんだな。神崎にピッタリでかわいいよ」
「かわっ!」
やべっ、と自分の口を押えた。
彼氏でもない相手から突然かわいいなんて言われて、さぞかし気持ち悪いに違いない。
「ああ……その……行こうか」
「……うん」
しくじったな、と思ったものの、時すでに遅し。なんだか微妙な空気になってしまった。
ぎこちない会話を交わしながら、二人連れ立ってバス停へと歩き出す。少しだけ重苦しい。神崎につまらない思いをさせていることが悔しかった。
しかし、ポツリ、ポツリと話していると、自然と調子が戻ってきて、部活の話なんかを始めたときには互いに饒舌になっていた――もっとも、神崎は普段通り淡々としているが――。バスが来るころには、すっかりいつも通りだった。
「水族館にはよく来るのか?」
休日とはいえ、まだ朝の八時半。比較的空いたバスの後部座席に座って、神崎に尋ねる。
「昔はよく行ってた。お姉ちゃんが高校に入ったころ――私が小学高学年になったころから、あまり行かなくなった」
隣に座っていると、ふわりとフローラルな香りが。シャンプーだろうか。その匂いにドキッとしてしまう。
「友達と行ったりは?」
「ない。周りは、動物には興味なかった」
まあ、そんなもんだよな。動物園は臭いが苦手って人が多い。
比べて水族館は抵抗感が薄いだろう。だからって、積極的に行きたいと思うかどうかは別問題。わざわざ足を運ぶほどでもない、と思う人が大多数のはず。
「それじゃあ、久しぶりの水族館だ」
「楽しみ」
「俺も」
よかった。神崎が楽しめないなら、デートの練習にはならないのだから。
もちろん、俺も楽しまないといけない。
朝倉先生の言葉を思い出す。あのアドバイスは演劇に関してだったけど、こういう機会でもそうだ。俺が楽しまないと、神崎も遠慮してしまう。二人で目いっぱい楽しまないとな。義務感に駆られてではなく、心の底から。
十分ほど揺られて水族館に到着。さすがに開館前だ。あまり人が並んでいることはなかった。それなりに大きい水族館だけど、GWのような繁忙期はともかく、それも過ぎた土曜日の朝早くとなればだいぶ落ち着いたものである。
「何見たい?」
並びながら、無料で配られていたパンフレットを眺める。気がつけば、二人で一緒に覗き込む。二人で一冊。肩を寄せ合う距離感。この一か月で築き上げた信頼を感じることができて、なんだか嬉しい。
それに、今のこの感じが、まるで恋人のようで――いや、恋人ってこんな感じなのか? わからん。何せ恋人がいたことなど一度もないんだし。
うぅむ……デートの練習って言っても、実感を覚えづらいかもしれないぞ……。
「どうしようかな……」
真剣な目を走らせる神崎。
また俺は、余計なことを考えて楽しむことを忘れる。こういうときくらい、神崎の無邪気さを見習えってんだ。
「決めた」
神崎は一つ大きく頷き、
「ぐるっと回って、全部見たい」
「よっしゃ。それで行こう」
割と欲張り。それもいい。俺も同じだし。出来るなら隅々まで観たい。
天ヶ崎水族館は、残念ながら動物たちのショーはない。イベントは定期的に行われているけど、小さい子ども向け、すなわち家族向けのものが多い。俺らが参加するのは……カップルだったら様になるのかもしれないが、友達同士で挑むのは、ちょっと違う気がする。
「いつかペンギンショーとか、そういうのがある水族館も行きたいね」
行きたいね。
そう言われて平然としていられる精神力など、持ち合わせていなかった。
「あ。まだここに入ってもいないのに、他の水族館の話は、失礼だった」
ちょっと律儀な反省を口にする神崎。それに相槌を打つように、
「おぉ……そうだな、バッチリ楽しもうぜ」
などと誤魔化すように頷いた。
視線をふいっと逸らしながらも、やっぱり神崎が気になって、結局チラチラと横目で見遣ってしまう。
すると、神崎が周囲をキョロキョロしていることに気がつく。
何を見ているのか、と視線を追うと、前後に並んでいる周囲の客たちが目に飛び込んできた。
「カップル、案外と、多いね」
「……そうだな」
神崎の言葉に、思い切り意識してしまう。
俺と神崎も、そうやって見られているんだろうか。
「そのぶん参考にはなる、かな?」
「どうだろうなあ……」
果たしてロミジュリの参考になるのだろうか。
ちょっとキザったらしい人がいたら、何かしらのインスピレーションは得られるかもしれない。あとは、人目をはばからずイチャイチャしているカップルがいたら、それは十分に参考になるだろう。
問題は、そんな連中を見て、俺の心の平穏が保てるかどうかだ。イラついてしまうかもしれない。その方が可能性高いね、間違いなく。
「お、開館か」
スタッフさんたちの誘導に従って、チケットを買う。神崎が生徒手帳を見せながら、「高校生、二枚」と勇んでドヤ顔していたのが、なんだか無性にかわいらしかった。販売員のお姉さんもほっこりと微笑んでいる。俺もたぶん、同じような表情をしていることだろう。
中に入ると、水をイメージしたような、ヒーリングミュージックが迎え入れてくれる。
薄暗い照明の中、青色を基調とした館内を歩いていくと、最初はサンゴや熱帯魚たちが暮らす小さな壁面水槽が並んでいた。
「幸村くん。水族館が暗い理由、知ってる?」
「いや、知らないな」
びっくりするほどさらりと嘘が口から零れ出た。知ってたけど。予習済みだし。
「水槽を目立たせるため。光が反射しないようにするため。幻想的な雰囲気を作り出すため。色々あるけど、一番は、魚のストレスを無くすため。魚が、人間の視線を受け続けて、ストレスで体調を崩したりしないようにしているの。魚は人より視力が弱い。そして水槽のガラスは光を跳ね返しやすい。だから、水槽の中を明るく、外を暗くすると、人の姿が見えなくなる」
「へえ。マジックミラーみたいだな」
……引っ込みつかなくなったから、とりあえず知らない体で行こう。
神崎も予習してきたんだろうか。それとも、詳しいから水族館を選んだんだろうか。どちらにせよ、生き生きと語る神崎に水を差すのは避けよう。
「カクレクマノミは、雌雄同体魚と言って、正確には雌でも雄でもない。群れの一番大きな個体が雌になって、二番目が雄になって卵を産むの」
「へえ。大きいのが雌なんだ」
イソギンチャクがゆらゆら。その間を縫うように、クマノミたちがひらひらと泳いでいる。
「雌がいなくなると、子どもが産めないでしょう? だから、二番目に大きいのが雄になって、雌が死んでしまったときに備えるの。雌が死ぬと、雄が雌に性転換するようになる」
「なるほどねえ。繁殖のための知恵なんだな」
……どうしよう。これも知ってた。
機会があったら豆知識の披露、とか考えてはいたけど……こんな形で裏目に出るとは思わなかった。
嘘をつくのは、本当はいけないことだけど、こればかりは仕方ない。お釈迦様も許してくれるだろう。
これ、ちゃんと誤魔化せているのだろうか。演劇と噓の上手さはまったく関係ないと、恵先輩が身をもって示してくれている。
あ、デート中に他の女性のことを考えるのは失礼か。
「海月って、脳も、心臓も、血管もないんだって」
漂う海月を眺めていると、自分の頭の中もふわふわしてきて、水の中にスーッと吸い込まれていくような浮遊感に支配されてくる。
「それじゃあ、どうやって動いてるんだろうな」
「代わりに神経がたくさんあるらしい」
「じゃあ、考えて動いてるわけじゃないのか……?」
これも知ってたんだけど。やけに後ろめたい気持ちになってくる。
「それでも生きてる。ロマンがある」
「ロマンか」
ははっ、と笑いをこぼすと、神崎がコクン、と首を傾げた。
「どうしたの?」
「GWのこと思い出してさ。神崎、ロミオのこと、ロマンティストだから好きだって言ってたじゃん」
「あー……言ったかも」
なぜだかばつが悪そうに、神崎は前髪をちょんと指でいじり始めた。
「神崎ってやっぱり、ロマンを求めてるんだなって、そう思っただけ」
「うー……」
恥ずかしそうに顔を背ける神崎。ちょっといじりすぎたかな。
けど、神崎は気分を悪くするふうでもなく、口元をほころばせている。少しだけ覗いた瞳も、柔らかな優しさをたたえていた。
俺も釣られて目を細め、それから、水族館の水槽たちに視線を戻した。
二人でぐるりと水族館を一周し、最後にたどり着いたのは、いわゆる『人気者』たちが集まるコーナーだった。ペンギンや、アシカや、アザラシたち。時間が来ればショーをこなすような花形の動物たちが住まっている。
そこには、とりわけ多くの人が集まっていた。もはや人混みと言っても差し支えない。気をつけて歩かないと近くの人にぶつかってしまいそうだった。かなりの大盛況である。
どの水槽の前にも、大きな人だかりができあがり、ひしめき合っている。その周囲に、これまたかなりの人数の流れができている。
もしもここではぐれたりしたら危ないだろうな。互いの連絡先は知っているが、立ち止まってスマホを操作することは憚られる。明らかに邪魔だから。
家族連れや恋人同士、横になって歩いている集団はたくさんある。でも、彼らは手をつないだり、身体を寄せ合ったりして、なるべく小さくまとまって行動している。当然と言えば当然だ。
定期的に神崎を見遣る。度々目が合った。なんだか、水族館に集中できていない。そのぶん神崎に集中している。何が目的かわからなくなってきた。
ふっ、と神崎の姿が視界から消えた。
ビクッと肩を震わせる。しかし、人の流れができていて、すぐには立ち止まれない。歩きながらも振り返ろうとして、隣の人に肘がぶつかってしまい、慌てて頭を下げる。
どこかの水槽まで寄って、一度足を止めるべきだろうか。
そう思った直後、きゅっ、と袖をつかまれた。
どうにか肩越しに振り返ると、神崎が一歩斜め後ろから俺の右手の袖を、親指と人差し指できゅっと挟んでいた。俯きがちで、前髪に隠れて表情は見えない。
神崎は何も言わない。ただ袖を握っているだけ。
はぐれるのを怖がっているのか。ちょっと不謹慎かもしれないけど、こんなふうにされて嬉しくないわけがない。
神崎の歩幅に合わせるように、ゆっくりと、人の流れに沿うように歩き続ける。
長袖でよかった。なんて、そんなことを思ってしまった。
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