7 茉莉也の人物像

「チェーホフの『かもめ』か……神崎さん、知ってた?」


 部員揃って和気あいあいと駅に向かう中で、話の切れ間、斜め後ろを歩いていた神崎さんに問いかけた。先ほどの神崎さんの反応が少し気になっていた。


「『かもめ』は読んだことないんだけど、私の名前ね、チェーホフの『三人姉妹』って作品が由来なの。次女の愛称が『マリーヤ』だから、茉莉也」


 神崎さんの隣の御厨さんが、興味深さそうに目を爛々と輝かせている。怖い。


「次女か。もしかして、お姉さんも?」

「そう。長女の愛称が『オーリャ』。姉さんの本名は、芸名と同じで、織江。結局、二人姉妹なんだけどね」


 御厨さんの瞳が煌々と輝いた。口が「ロマンチックです」と動いたのがわかった。御厨さんの感想には、俺も同意だった。


「もしもお姉さんと一緒に『三人姉妹』を演じられたら素敵だよね」


 何気なく口にすると、神崎さんは顔を苦々しげにしかめた。

 しまった、と思ったときには、もう遅かった。


「……全然、素敵なんかじゃないよ」


 低く、重く、強い口調。それは、今まで見たことない神崎さんの悲壮の感情だった。


「お姉ちゃんのことは、尊敬してる。でも、お姉ちゃんと比べられるなんて真っ平。敵いっこないもん。恥をかくだけだよ」


 はっ、としたように神崎さんが顔を上げ、ぶるぶるとかぶりを振って、


「ごめん。今の忘れて。八つ当たり。本当に、ごめん」

「ああ、いや、俺も軽率だったよ。ごめん」

「私も、ごめんなさい」


 三人してシュンとなって、縮こまって、会話がプツリと途絶えた。前を歩く二宮先輩が異変に気づいたようだが、あえて触れずにいてくれたみたいだ。その優しさに感謝した。きっと声を掛けられたら、神崎さんはもっと居たたまれなくなるだろうから。


 少し居心地の悪い沈黙。それは駅まで、解散までずっと続いた。


 でも、俺は失礼な話、嬉しくも思っていた。


 神崎さんにも卑屈さというか、後ろ向きな、悲観的な感情があるのだと知ることができたから。なんだかそれだけでも身近に感じることができる。

 その考え自体、俺がネガティブである証左なのだけれど、だからこそ俺だって変わることができるんじゃないかって、そう思えてくる。

 神崎さんが前向きに頑張っているように。俺にも、きっと。そう感じられたのだ。




「幸村ってさ、何部に入ったん」


 同じクラスの戸倉が、昼休みに購買で買ったパンを食べながら、俺の後ろの席に座って唐突に訊ねてきた。


 戸倉の席は、俺の隣の隣だ。本来の後ろの席の主は吉田である。吉田は昼休みになってすぐにどっかへ旅立っていった。その席を、今は戸倉が占拠中である。

 徐々にだが、クラスメイトとも打ち解けてきている。戸倉は三日目の体育のときにバスケで一緒のチームになった関係で、割と仲の良い方だ。


「演劇部だけど」


 俺は購買で買ってきたパックの焼きそばを平らげ、横向きに座り直して何気なく答えた。


「へえ! あの演劇部に入ったんか」

「言ってなかったっけか」

「聞いてない」

「山崎に言ってたから、お前にも言った気になってたわ」


 山崎が鮭おにぎりを開けながら鷹揚に頷く。

 先週の終わりころから、この三人でいることが増えた。クラスはまだ全体的に、友人作りが手探り状態。もっと輪を広げたいところだがひとまず、といったところだ。


「ひでえなあ。二週間もずっと一緒にいるのに」

「キモイ言い方すんな」


 一人二人は女の子とも話したいなあ、と思ってしまうのは男の性だろう。別に,

 戸倉に不満があるわけではない。プラスアルファがあってもいいと思うだけだ。


「戸倉はバドミントン部だっけ?」

「おうよ。まずは目指せ県大会。そして全国大会だ」


 まあ見てなって、と戸倉は自分を親指で指す。

 我が校のバドミントン部は県大会の常連だ。

 戸倉は身長一七二センチと平均以上の体格を持っており、中学ではテニス部で県大出場経験があるそうだ。部内でもかなり期待されているらしく、実際に全国大会に行くのも遠い未来ではないのかもしれない。イケメンなのがこれまた憎たらしい。


「そういや、演劇部って大会はあんのか」

「あるけど、ウチは出場しないみたい」

「なんで」

「昔からそういう方針なんだと」


 川嶋先輩によると、創部から二十年ほど、一度も大会にエントリーしていないとか。顧問を朝倉先生が引き継いだ今でもその方針は変えるつもりがないそうだ。


「ふぅん。それでも……いや、なおさらか。部活、厳しいんだろ」

「そう思うか」

「だってなあ。部活動紹介、さすがに覚えてるぜ」


 演劇には興味なさそうな戸倉ですら覚えている。強烈な印象が、演劇部をスパルタ集団だと刷り込ませている。実際、間違っていないから何とも言えない。


「大会はなし。文化祭公演に賭けてるわけだ」

「あと、六月に自主公演もある」

「ストイックだなあ」


 感心しているのか呆れているのか判断がつきかねるため息を漏らしてから、戸倉はパンを口の中に放り込んだ。ゴクン、と音を立てて飲み込み、袋をくしゃくしゃにさせてから、


「今年は何人なんだ」


 そう訊ねてきた。口ぶりから、どうやら部員が少ないことは知っているらしい。気づいていなかったのは俺だけという、なんとも間抜けな話だ。

 あまり言いたくないがいずれはバレる。顔が引きつっているのが自分でもわかる。


「俺含めて二人だ」

「少なっ!」

「見学者はみんな、峰岸先輩に憧れている感じで。結局練習になると尻込みしてたな」


 ああ、と戸倉は納得の声をこぼした。


「想像がつくな、それ」


 戸倉が言うと、飯をぺろりと平らげた山崎がさも当然と言った顔を作った。


「ほらな。言った通りだったろ」

「痛いほど感じたよ」


 俺は頭にはてなを浮かべている戸倉に、部活動紹介の際の俺たちのやり取りを説明した。すると、大きく頷いて、


「一瞬の分析力、さすがだな。これからは知将・山崎と呼ばせてもらおう」

「冗談でもやめてくれ」


 戸倉は抗議の声を聴き流し、ニヤニヤとした笑みを浮かべて半身を乗り出した。


「ちなみに、もう一人ってのは、男か、女か」

「女子だけど」

「かわいいのか」

「何でそんなこと、気にするんだ」

「重要だろ」


 何を当たり前のことを、とでも言いたげに、戸倉は肩をすくめた。


「かわいい女子が、たった一人きりの同期。憧れるシチュエーションだろうが」

「へえ。女子か。俺だったら気後れするな」

「知将は黙ってろ」

「物理攻撃かますぞ」


 こいつら、仲いいな。


「それで、どうなんだ。かわいいのか」

「まあ、その、何と言うかだな」

「なんで小声なんだよ」

「クラスでは話しづらい内容だからだ。察せ」

「意味わからん」

「つまり、このクラスのやつなんだろ」


 山崎の助け舟に、戸倉が一瞬目を開いて、爛々と目を輝かせた。


「なるほど。さすが知将」

「ふん」

「悪かったって。で、誰だよ、このクラスのやつって。かわいいのか」

「しつこい。あと声がでかいって」


 俺が声を潜める中、気にせずに普段のトーンで戸倉がしゃべり続ける。

 その声、主に「かわいい」の部分に反応して、教室の前の方でガールズトークに花を咲かせていた三枝がぐるんと振り返ったのが見えた。


「はいはい、呼んだ?」

「呼んでない」


 そっけなく返してもどこ吹く風で、平然と俺の隣の席に座って話に割り込んでくる。


 三枝さえぐさ雲母きらら。モデルのようにすらっとした体躯。ふんわりしたクリクリの目で、柔らかな口元が温かみを感じさせる。

 自分で言うからありがたみがないが、実際、三枝はクラスどころか学年全体を見渡してもトップクラスにかわいい。しゃべらなければ。


「相変わらず、ゴシップのこととなると途轍もない地獄耳だ」


 山崎が、ふぅっ、とため息をつく。


「否定はしない☆ 伊達に新聞部じゃないからね☆」


 山崎と三枝は、同じ中学だ。その関係で俺と戸倉も、三枝と喋る機会は多かった。


「三枝、友達は放っといていいのかよ」


 先ほどまで話していた女子たちの方を見遣ると、三枝は何食わぬ顔でサムズアップした。


「大丈夫。私、普段からこの調子だから」

「いばるなよ……」

「で、何の話?」

「こいつの部活の同期の話だよ」


 どうはぐらかそうか考えていると、山崎がさらりと裏切った。いや別に口止めしてたわけじゃないんだけど。でもそんなに簡単にしゃべらなくても。


「幸村の? 何部なの」

「演劇部だよ」


 観念して言うと、なぜか三枝は目をパチクリさせた。


「あ、そうなんだ。へぇ~」


 三枝がくるっと顔を後ろに向ける。その視線の先には、空の席。普段、神崎さんが座っている席だ。


「神崎さんも演劇部なんでしょ?」

「神崎?」


 戸倉は三枝の視線を追って、ちょっと考えてから、思い出したように手のひらをポンと叩いた。


「ああ、いつも本読んでる。へぇ、文芸部じゃないのか」

「ね。ちょっとギャップ萌えだよね」


 見た目に反しておっさんみたいなことを言いだした。女子高生の使う言葉じゃないと思う。偏見か。


 それにしても、ギャップ萌え。

 言葉にされると得心がいった気がする。そうか。そういうことなのか。

 恥ずかしがり屋な神崎さんが、いざとなると強い意思を見せつける。そういうのを、人はギャップ萌えと呼ぶかもしれない。

 そして俺は見事にはまりきっているわけだ。


「萌えって言われてもよ、神崎っていつも前髪下ろしてるじゃん。顔、ちゃんと見たことないんだよね」

「ああ、確かに。顔、わからないな」


 戸倉の感想に、山崎が同意して頷く。


「私もちゃんと知らないなあ。でも、雰囲気とか、なんかかわいいよね」


 自然とコクリと頷いてから、ハッとなった。案の定、三枝がニヤニヤしている。


「やっぱり~、幸村も~、そう思うんだ~?」

「ムカつく顔をやめろ」


 プププ、と三枝が笑う。こういうところが素直にかわいいと言いたくないところだ。


「私、神崎さんとも仲良くしたいんだよねー。情報ちょうだい。ついでに、どんなところをかわいいと思ったかも」

「野次馬根性を混ぜんな」

「いいからゲロッちゃえよ。うん?」


 身を乗り出し、俺の腕を肘でグリグリしてくる。

 やっぱりちょっとリアクションが古いんだよなあ。キャラ的にわざとやっている可能性もあるけど。


「幸村、こいつはこうなったら風呂場のカビ汚れよりもしつこいぞ」

「それ、女子に言うセリフ……?」


 青筋を立てる三枝にちょっぴり同情した。


「ともかく、マジで一日中追いかけ回してくるぞ。そういう女だ」

「さすがにプライベートな詮索はしないよ。でも、これくらいはいいじゃない」


 ルンルンと笑みを浮かべる三枝を前に、毒気がスーッと抜けていく。


「女子にこういう話は、気が進まないんだがなあ」


 ガリガリ、と頭を掻いて、腹をくくる。

 三枝が神崎さんと仲良くしたがってるのなら、ちょっとくらい手伝ってもいい。三枝もそんな嘘はつかないだろうから、本心のはずだし。


「本人がどう思うかはわからないけど、小動物的なかわいらしさはあるよな」

「わかるわかる」


 あと瞳が綺麗なんだよ、という言葉はぐっと呑み込んでおく。そこまで言う義理はない。


「演劇に対する心構えとか、姿勢とか、考え方とか。そういうのは参考になることが多いな。芯が強い子だと思う。あくまで個人の感想です。俺からは以上だ」


 もにゅっ、とした表情で三枝がジト目を向けてくる。それでもかわいいのだから美人は得だと思う。


「何だ、その顔は」

「思ったほどの情報ではない、残念。そういった顔だ」


 山崎がそう解説する。


「自分から振っといて、なんて理不尽な」

「もうちょっと甘酸っぱい話が聞きたかったー」

「二週間で無理があるだろう」

「わからないよ。男と女だもん」

「お前は今までどんな生活を送ってきたんだ」


 一目惚れ、というものの存在は知っているが、生憎とそんな感情を覚えたことは人生で一度もない。たぶん、これからもない。でも――。

 入部した日、放課後の昇降口。神崎さんと話したときのことを思い出す。


 そうだ。俺が今さっき口にした通りだ。あの日、確かに神崎さんに尊敬の念を覚えた。少し、自己嫌悪に陥った。そして、目指すべき目標の一人になった。

 これは一目惚れとは言わないけど、出会ってたった一日でこんな感情を抱くことだってあるのだ。

 まあ、今は関係のない話だな。


「でもそっか。小動物系だけど、芯が強い。なるほどね。私が抱いた印象も似てるから、これは間違いはない感じだね。オーケー。その感じで行ってみる」


 そこで神崎さんが一人教室に帰ってきた。

 三枝がキュピンと目を光らせて、ばっと立ち上がる。


「チャ~ンス! それじゃあ、早速行ってきます!」


 言うや否や、席に座った神崎さんに突撃していった。凄まじい行動力だ。

 抱いた印象が似てる、か。すでにだいぶ観察していたらしい。それを、わざわざ俺から聞く必要があったのだろうか。

 それとも、自分の直感が正しいか確かめたかったのか。


 俺だって、神崎さんの表面しか見られていないから、無責任な感想でしかないのだが。

 三枝は、神崎さんに一方的に話しかけている。それに戸惑いながら、神崎さんが一言二言返事をする、その繰り返しだ。


「ああやってスルリと人の中に入り込んでくるんだよ、あいつは。面白いだろ、見てるぶんには」

「他人事だな。こっちは大変だったぞ」

「まあまあ」


 確かに、こうやって見てるぶんには面白い。神崎さんはあたふたしてるけど、申し訳ないが面白いことは面白い。

 あのコミュニケーション能力は、誰か人が真似てできるようなものではない。気づいたら輪の中にいる。そういうタイプ。峰岸先輩とは違ったタイプのカリスマ。感心はする。


「神崎ねえ」


 ポツリと戸倉が言った。興味津々、といった表情だった。


「気になるのか?」

「今の話聞いて、興味は湧いた」


 山崎の問いに、頬杖をつきながら頷いた戸倉が、目を細めて神崎さんを見つめる。


「顔立ちは整ってそうだよな。ちゃんと見えないけど」


 それを聞いて、なんとなく憮然とした気持ちになった。

 たぶんファン心理みたいなのがあって、魅力が広がっていくのががっかりなんだろう。それが、仲の良いクラスメイトであっても。

 我ながら本当に、随分と勝手な話なものだ。

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