6 チェーホフとシェイクスピア

「神前織江の妹だなんて、驚きです!」


 御厨さんは神崎の顔を至近距離でしげしげと見つめ、神崎が恥ずかしそうに顔を背ける。


「そういえば確かに似ていますね。納得です」

「うぅ……これ、外では内緒にしててね」


 御厨さんは物怖じしないうえに、結構遠慮がない。相手が友人の神崎さんということもあるのだろうけど。


「そうそう茉莉也」

「は、はい。何でしょう」


 助かった、と言いたげに神崎さんは、峰岸先輩の方へスススと移動する。


「確か戯曲の勉強をしているんだったね。参考までに、どんな本を読んでいるんだい」

「参考と言うと、自主公演の、ですか」

「そうだね。何にしようか決めかねているから、着想を得られればと思うんだが」


 神崎さんは、苦笑いしてから少し口をもごもごさせた。


「そ、その……参考にならないかと」

「言ってごらん」

「サミュエル・ベケットの、『ゴドーを待ちながら』を」

「なるほど。すまない」

「いえ……」


 何の会話かわからないけど、上演できない作品であることだけは理解できた。


「不勉強で申し訳ないんですけど、どんな作品なんですか」

「二人の男が、ただただ木の下で『ゴドー』なる者を待ち続ける。それだけの話さ」

「それだけ……ですか」

「そう。ただ待ち続けている。それしか描かれていないんだ。一本の木の下で、二人の男が『ゴドー』を待つ、何気ない二日間を描いただけ。とにかく何も起こらない。人間という存在そのものを描いたとも、『ゴドー』とは『ゴッド』すなわち神であるとも言われているが……真相は不明だ。こういった論理性のない、取り留めのない作品を〝不条理劇〟と呼ぶ。『ゴドーを待ちながら』はその先駆けとして、革命的作品と評されているね」

「それは……面白いんですか?」

「読んでみる?」


 スッ、と神崎さんが本を差し出してくれた。


「貸すよ?」

「いいの?」

「買った本だし、読み終わったから」

「それじゃあ、ありがたく」


 鞄の中に、折ってしまわないように丁寧にしまっていると、横からひょこっと恵先輩が顔を覗かせた。


「ねえねえ、茉莉也ちゃん。次、私も借りていいかな」

「はい。問題ないです」

「じゃあ幸村くん。読み終わったら貸して」

「わかりました」

「次、私もお願いします!」


 と、御厨さん。


「なんか聞いてる限りだと面白くなさそうだよねー。琴美先輩が意図的につまらなそうに説明したのでない限りは」

「そんなこと、する意味がないだろう。面白いかどうかは、歴史的価値と鑑みて、個人の感想に委ねるとするよ」

「恵先輩、読んだことないんですね」


 思ったことをそのまま言うと、恵先輩が後ろからグイッと俺の首に腕を回してきた。


「おうおう。読んでなくちゃ悪いのかい。幸村くんも読んでないだろうが」

「いやいや、悪いなんて言ってないですって!」

「演劇部員だから名作はすべて読んでいなければならない、という決まりもないからね」

「たぶんだけどよ、恵。お前、シェイクスピアも読んだことないだろ」


 川嶋先輩がそう言うと、恵先輩が腕をパッと離して、明後日の方を見ながらヒューッ、と音にならない口笛もどきを吹き始めた。ベタすぎる。


「別にそんなことで目くじら立てねえよ。別にいいじゃねえか、読んでなくても」

「言われてみると凄く恥ずかしい気がして」

「今から勉強しても遅くねえよ、二年生」

「頑張ります」


 そんな二人の会話に、峰岸先輩がじっと耳をそばだてていた。


「どうかしましたか」


 訊ねると、しばし心ここにあらずのように考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。


「自主公演だが、『ロミオとジュリエット』でどうだろう」

「ロミオとジュリエット、ですか」


 オウム返しすると、川嶋先輩が大きく嘆息した。


「まぁた思いつきで振り回す」

「単なる思いつきだけ、ってことでもないさ。何年か前の文化祭でも使われた題材だよ。ちょうど資料があってね」


 昔の台本やDVDがしまってある棚を開け、しばらくガサゴソと漁り、二枚のディスクを取り出す。それから本棚に移って、一冊の本を取り出した。


「文化祭の舞台を映したものだ。所詮、高校の備品のビデオカメラで撮影されたものだから、映像が荒いのはご愛敬。我慢してくれ。それと、こっちが埼玉芸術劇場で公演されたものだ。で、これが翻訳版の『ロミオとジュリエット』だ」


 二枚のディスクと一冊の本を机の上に並べる。ちなみに、部室にテレビはない。


「遠い先輩方の演技と、プロの演技が見られるんだ。贅沢だろう?」


 それは、間違いなく是である。高校生の舞台も気になるし、プロの舞台が見られるのは映像と言えど純粋に嬉しい。


「これを貸し出そう。朝倉先生からの許可はとっておくから、家に持ち帰って観てくれ」


 事後承諾じゃん。とは言えなかった。


「最初から少しハードルが高いような気もするんですが……」


 文化祭の舞台で演じられたものを、自主公演で、しかも初出演の一年生が二人加わる。なかなか難しいのではないか、そう思って訊ねてみる。


「最初だからこそ、私はこれで行きたい」


 ググッ、と拳に力を籠め、熱の入った口調で峰岸先輩が声を張り上げた。


「悲劇。恋愛要素が絡む。そこが大事だ」


 恋愛。まだ俺は、誰かと付き合ったことすらない。初心者どころかスタート地点にも立っていない。


「命を懸けるほどの恋愛など、我々は誰も経験したことがないだろう。そして、これからも。経験できるのは舞台の上でだけだ」


 俺もいつかは恋をするのだろう。それはきっと、平凡で、取るに足らないことで、なんということもない一幕なのだ。


「君たちには、違う人物になる楽しさを見出してほしいんだ」


 だから、舞台上だけの経験を。それが、演劇の魅力の一つ。


「もちろん、自分の人生経験を多少は生かすことはできるだろうが、あまりこだわらなくていい。究極のところ、共感できるところもあれば、絶対に受け入れられないところもあるはずだから。良し悪しすべてをひっくるめて、キャラクターを愛し、演じてほしい」

「琴美、あんまプレッシャーをかけなさんな」


 やれやれ、と川嶋先輩が頭を左右に振った。


「プレッシャーをかけているつもりはないよ」

「ちょいと急いているんじゃないか、ってことだよ。まだ台本も出来上がっていないうちからそんなこと言われても、ピンとこないだろ」

「それもそうだな」


 うんうん、と深く頷いて、峰岸先輩はキラリと白い歯をのぞかせた。


「なるべく早めに仕上げる。信二が」

「そう来ると思ってたよ!」

「大丈夫。著作権等、申請は私の方で済ませるから」

「負担が釣り合ってねえんだよ!」


 川嶋先輩、相変わらずかわいそうに……。


「すまんな。少々舞い上がっていた」


 峰岸先輩は、ゆっくり歩いて、窓にそっと手を当てる。


「ずっとやりたかった戯曲があるんだ」


 振り返った峰岸先輩は、感極まったように瞳と口を震わせていた。


「チェーホフの『かもめ』だ」


 一瞬、神崎さんが肩をピクリと震わせた。作家名に反応したように思う。


「チェーホフ?」

「ロシアの劇作家です。短編小説家としても有名ですね」


 俺の呟き声を拾った御厨さんが解説してくれた。


「その通りだ、紫苑」


 御厨さんは戯曲にも造詣が深いのだな、と脱帽してしまう。


「私が最初に『かもめ』を読んだのは、中学生のときだった。私が敬愛する、地元の図書館の司書さんがいてね。彼女が、『かもめ』が人生のバイブルだ、と言ったんだ。だから読んでみた。正直なところ、よくわからなかった。何が面白いのかわからない。登場人物の気持ちも、まったく共感できない。不思議だったよ。本当に何もわからなかったんだ」


 そう口にする峰岸先輩は、裏腹にとても嬉しそうだった。


「同じ人間で、こうも感じ方が違うのか……でも、あの司書さんが言うのだから、何か魅力があるはずなんだ。私は何度も読み返した。何度も何度も読み返して、登場人物の――違う誰かの人生を、何度もなぞり続けた。私が演劇に興味を持ったきっかけだよ」


 先輩の、演劇人生の原点。出発点にして分岐点。そこから数年間で、日下部が高校でもトップクラスと評するほどの、類まれなる役者になった。


「結局、十回くらい読み返しても、よくわからなかった。でも、中学を卒業するころにまた読み返して、少しだけ、何かが見えた気がした。『かもめ』に描かれた人生の不条理さが、ふと垣間見えた気がした」


 何かに縋るように、峰岸先輩がふるふると両手を掲げ、ぐっと握りしめた。


「演劇を始めて、また感想が変わった。そして、高校二年生になったとき、ストンと腑に落ちたような感覚になった。これが人生の一つなのだと。一読しただけでは悲劇にしか見えない。しかし、チェーホフはこの作品を喜劇だと言う。……みんなも暇があったら読んでみてくれ。きっと、最初は意味がわからないと思う」


 峰岸先輩は、心の底から楽しそうに語っていた。ここまで言わせる作品だ。非常にそそられる。


「私は『かもめ』に人生を変えられた。だから、最後の公演では是非演じてみたいと思っていた。朝倉先生も了承してくれている」

「本当は頓挫しそうだったんだよな」

「男子が、信二と健吾の二人になってしまったからね。あの作品は、男二人ではちょいと無理がある」


 峰岸先輩は、俺へと優しいまなざしを向けた。


「もう一人、欲しかった。そして今年、君が入った」


 あの……今日一番のプレッシャーなんですけど。

 出かかったその言葉をすんでのところで呑み込んだ。この空気を壊すのは憚られる。

 しかし峰岸先輩は、見透かしたようにカラカラと笑った。


「なぁに、まだ文化祭まで五か月だよ」


 五か月が長いのか、短いのか。それは初心者の俺には判断がつきかねた。


「これは天啓だよ。運命だ。申し訳ないが、これだけは譲れない」

「俺からも頼むわ。なにせこの一年間、琴美がずっと望んできたことだからな」


 川嶋先輩が座ったまま、膝にパシンと手を置いて、頭を下げる。


「ちょ、ちょっと、川嶋先輩! やめてください!」


 頭を上げてくれ、と制止の声を挙げたが、じっと川嶋先輩は頭を下げたままだ。

 そして、峰岸先輩も頭を下げた。二年生も、一年生も、固唾をのんで動けずにいる。


「……わかりました。頑張ります」


 ここまでされて、何もしないなどということがあろうか。

 俺は立ち上がって、深く、深くお辞儀をした。これが、俺なりの精一杯の誠意だ。


「ありがとう」


 川嶋先輩のホッとした声が聞こえて身体を起こした。川嶋先輩の安堵の表情を見ていると、峰岸先輩との絆の深さをより感じられ、心を強く揺さぶられた。


「そして、茉莉也にも、よければ紫苑も。期待しているよ」

「ちなみに、自主公演の俺たちの出番って、どれくらいなんですか」

「一年生だからな、あまり無理のない範囲にするか」

「二人がロミオとジュリエットでいいんじゃないですか」

「……恵先輩?」


 不穏な発言が、天真爛漫な先輩の口から飛び出した。


「だって、新入生が男女で、ちょうどいいし」

「いやいや! 二宮先輩がロミオで、恵先輩がジュリエットでいいじゃないですか!」

「お、その割り振り方はどういう意図なのかなあ?」

「わかるぜ。恵が男役で主人公ってのは、なんか違うよなあ」

「あの、私が複雑なんですけど……」


 二宮先輩が苦笑いしてから、ゆっくり微笑んで、


「でも、恵の意見はありかも」

「二宮先輩……?」


 おかしい。二年生が積極的に敵に回っている。こんなことがあっていいものか。


「だって、恋愛模様を役として感じるためには、ロミオとジュリエットの二人に充てた方が絶対にいいから」


 じゃあ別の作品にしましょう。そう言う間もなく、


「ふぅむ。颯斗がロミオで、茉莉也がジュリエットか……」


 峰岸先輩が何事か考えながら、トントン、と自分の額を指で小突く。


「……悪くないな」

「いや、悪いでしょ! ロミオとジュリエット、そんな詳しくないですけど、バルコニーのシーンは俺でも知ってますよ。『どうしてあなたはロミオなの』、ってやつ。あのシーン、二人だけですよね。新入生が二人だけで舞台に上がるなんてまずいですって!」

「大丈夫。そのシーンさえ乗り切れば、主役だが、あとは終盤までそんなに出番はない」

「ちなみに、終盤は?」

「それも知っているだろう。二人が自害するシーンは、当然二人きりだ」

「ほらあ! 重要なシーンは二人っきりだ! ダメですって、二か月じゃさすがに厳しいですって!」

「でも」


 と、神崎さんの今にも卒倒しそうなほどに何か思いつめたような声。


「文化祭のためには……」

「うっ……」


 文化祭にすべてを賭ける峰岸先輩。そのサポートを全力で行うためには、成長の場はもはや自主公演にしか残されていない。


「人生に影響を与えた作品、ですもんね」

「ああ。そして、そこで私のすべてをぶつけるつもりだ。だが、私の勝手に君たちを巻き込むのも違う。それに、田中たちエキストラも参加する。そんなに気負わなくていい」

「琴美。本音は?」

「二人が主役を経験すれば、文化祭公演は最高の出来になるだろう」

「恵先輩と二宮先輩は、主役じゃなくてもいいんですか……?」

「私は主役にこだわってるわけじゃないかなあ。来年の文化祭は主役やりたいかもだけど、今はそれほどじゃないかも」

「私は、脇役の方が美味しいと思ってる。殺される役とか、最高」

「じゃあ自決するロミオかジュリエットでいいじゃないですか」

「殺されるのと、自殺するのでは、違う」


 ばっさりと言い切られたので二の句が継げなくなってしまった。

 反論を試みようと思考を巡らせながら横目に見ると、神崎さんは目を白黒させていた。

 神崎さんにとっては役者を引き受けるのを今決めたばかりだ。なのに突然、ヒロインに抜擢。青天の霹靂。寝耳に水。凄まじいジャンプアップである。高く上がり過ぎて天井をぶち破らんばかりの勢いだ。


「まあ、無茶を言っているのはわかっているさ。半ば冗談だよ」

「半分本気じゃないですか」

「ひとまず練習だけでも、やってみないかい」

「練習だけ、でいいんですね?」


 峰岸先輩は力強く頷く。


「一緒に練習していれば、役の一つや二つ、入れ替えることくらい訳ないさ。もちろん、役の適正というか、似合う似合わないはあるが」


 それは重々承知している。

 実際にやってみないことにはわからないこともある。これも一つの経験、と考えれば悪い話ではないだろう。


「君たちは練習では思う存分、主役を演じてくれ。一か月くらい試してみて、それから考えても遅くない。融通は利く。脚本の有無と違って」

「オチに私を使わないでください!」


 誰もフォローしないので、恵先輩はこのネタで一年間みんなからいじられ続けるのだろうと、心の中で合掌した。もちろん、俺もフォローはしなかった。

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