5 一歩踏み出す勇気
「すみません。ただ今よろしいでしょうか」
「紫苑。今日は文芸部の日ではなかったかな」
「はい。本日は新入生歓迎会の予定だったのですが、先輩が二名、風邪をひいてしまいまして。人数が少なくなったので後日改めて、と解散となってしまいました」
残念そうに、御厨さんは眉をハの字にする。
鞄を身体の前でそっと握りしめる様子、艶のある長い黒髪、ピンと張った背筋。所作の一つ一つが流麗で、身だしなみは端麗だ。話し方からも品位が感じられ、お嬢様とはこういう人のことを言うのか、と見惚れてしまうほどである。
「文芸部も小規模だからな、仕方ない」
峰岸先輩は、何かを思いついたように顎に手を当てて、
「せっかく紫苑とも繋がりができたわけだし、来年からは文芸部に依頼するのもありかもしれないね。文芸部にとっても発表の場になるわけだから、悪い話ではないだろう」
「ええと、何の話でしょう」
今しがた着いたばかりの御厨さんは、さらさらの髪を揺らしながら小さく首を傾げる。
「実はだね」
峰岸先輩は、ホワイトボードに書かれた二宮先輩の丸っこく丁寧な文字を指差し、先ほどまでの流れをかいつまんで御厨さんに説明する。
「なるほど。自主公演ですか」
目をつむって頷く姿などをとっても、柔らかく美しい。
ゆっくり目を開けると、御厨さんは自分の胸に右手をそっと当てた。
「私にも、何かお手伝いできることはありますでしょうか」
「いいのかい。文芸部の活動もあるのだろう」
「そうですね。一番忙しいのは文化祭の文集を作成するときらしいのですが……私は文章を書くことも好きですので、帰宅してからいくらでもできます」
サラッと言ったが、かなりのハードスケジュールだ。よっぽど好きじゃなければそんなことまでできない。御厨さんの人となりがわかる発言だ。
「文章を見せ合ったり、添削し合ったり。宿題等、勉強もあります。そういった時間も欲しいので、毎日練習、というわけにもいきませんが、可能な限り参加させていただきます」
「そんなに畏まらないでくれ。嬉しい限りだよ」
手を広げて歓迎のポーズを表す峰岸先輩。それから振り返って、神崎さんと御厨さんを交互に見る。
「だが……裏方が二人というのは、正直なところ多いんだよね。一人、舞台に出てほしいのが本音だ」
「茉莉也ちゃんは、舞台に上がらないのですか」
率直な疑問に、神崎さんは焦ったようにかぶりを振る。
「ま、まだ考え中で」
「裏方は、一人は必要なのでしょうか」
「いや、朝倉先生が照明をやってくれるから、絶対に必要なわけではない。もともと凝った演出はしない主義だし、実力勝負、ってね。全員が舞台に立つことも可能だ。だから、全員が出演する準備ができた方が、いざというときの対策にもなる」
つまりエキストラも合わせればいくらでも人数の調整は利くということだ。
けど、いざというときのために、例えば文化祭直前に不慮の事故やらで欠員が出たときなどのために、舞台経験は積むに越したことはない。おそらくはそういうことだろう。
「茉莉也がどうしても裏方、というなら無理強いはしないさ」
「琴美。本音は?」
「茉莉也も役者側に来てくれると助かる」
「うぅ……ですよね……」
悩むように視線を彷徨わせる神崎さん。
ふと、目が合った。神崎さんは俺と視線を交わしたまま、動きを止めた。綺麗な瞳に吸い込まれそうで、恥ずかしさから顔を背けたくなった。
でもなぜか、今は視線をそらしてはいけないと、そんな気がする。神崎さんが何かを訴えかけているようで、逃げてはいけないのだと、そう思わされた。
そこへ御厨さんがササッと近寄って、神崎さんの両手をパシッと取った。
「茉莉也ちゃん。一緒に舞台に上がって、思い出を作りませんか」
「えぇ!?」
「一生の思い出になると思いますし、きっと自信になると思うんです」
なんとアクティブな人なのだろう。もう舞台に上がる気満々で、まあ肝が据わっている。この部活は女性陣が強い。俺が空気になってしまわないか心配だ。
「御厨さんは、自信をつけたいの?」
訊ねると、御厨さんは苦笑いをした。
「そうですね。昔から何にでも興味を持つ性質でしたが……人前に出ることだけは苦手だったんです。あがり症でして。自分の殻にこもって、細々と趣味に没頭していました」
人見知りではなさそうだが、多くの視線にさらされるのが苦手なのだろう。そういう人は割と多いんじゃなかろうか。
「それも悪いことではないし、それが自分なのだと納得しています。けれど、人前に出る機会というのも、生きているうちに幾度となくやってくると思うのです。自分をもっと好きになるために、もう少しだけ、殻を破りたいのです」
御厨さんはそう力説して、神崎さんの顔をじっと覗き込んだ。
「余計なお世話でしょうが、茉莉也ちゃんからは私に似たものを感じましたので……共に乗り越えられれば、と思いまして」
熱を込めて言ってから、御厨さんは慌てたように神崎さんの手をパッと離した。
「あ、もちろん、私も無理強いはしません。一緒なら心強いな、という勝手な押し付けですから。あまり気にしないでください」
「あのさ、やっぱり、神崎さんは――」
なるだけ優しく御厨さんに声を掛けようとすると、先回りして神崎さんが手で遮った。
ふるふると首を振って、優しく笑いかけてくる。瞳は煌々と輝いていて、何かを決意した表情だ。その笑顔にドキッとしてしまう。
「や、役者! やります! やらせてください!」
つっかえながらも、明瞭に言い切った。
束の間の静寂。俺は自然と、拍手をしていた。続くように峰岸先輩、御厨さんも、嬉しそうにパチパチと手を叩いた。
「素晴らしい。演技も楽しいものだよ。一度は経験してほしいと思っていた」
そう言って、ポンポンと優しく神崎さんの両肩を叩く。
「一度やってみて、合わなければそのときに裏方を考えればいい」
「は、はい」
「ありがとう、茉莉也ちゃん。一緒に頑張りましょう」
ブンブンと手を取って上下に振り回す御厨さんに、あわあわと神崎さんが慌てる。
ステップでも踏みそうな御厨さんが離れてから、小さく神崎さんに声を掛ける。
「本当に大丈夫?」
「うん。ありがとう」
それから、神崎さんは晴れ晴れとした顔で一歩前に出る。
「みなさん。改めて、言わせてください」
全員が、一斉に神崎さんに注目する。
朗らかだった表情は一変して俯き加減になる。ただ、身体はしっかりと前を向いていた。
「紫苑ちゃんにも、言います。私は、神前織江の妹です」
神崎さんの告白に、御厨さんが目を丸くする。俺も初めて聞いたときはこんな感じだったのかもしれない。
「お姉ちゃんがハマっていた演劇を、肌で感じてみたかった。裏方もいいけど、一緒の光景を見るなら、役者じゃないと、ダメだって。そう思っていました。今まで、勇気が出なかったんです」
ぎゅっと制服のスカートを握り締めながら、神崎さんは顔を上げる。その表情に、もはや迷いはなかった。
「だから今、一歩を踏み出します。役者、やります」
「うむ。全力で楽しもうじゃないか」
平穏な高校生活を送りたいなら、表に出ず、裏方に徹する方がいい。
それでも神崎さんは、舞台に上がることを決意した。姉と同じ景色を見るために。
気乗りしていなかったはずの彼女を、何が変えたのか。そのきっかけはわからない。
ともあれ、どうやら俺は、具体的な目標を持ってひたむきに頑張る姿に憧れるらしい。
だから、彼女をサポートし、手伝うことができればと、そう思わずにはいられなかった。
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