2 朝倉先生の素性と、演劇部のこれから

「声は……今のところまったく聞こえないな」


 先輩方は、見学者たちに何やら説明をしているところだった。しかしその声は少しも聞こえず、機材が発するジリジリとした電子音だけが調光室の中を静かに支配している。


「発声練習まで待たないと、わからないかも」

「そうだな。ゆっくり待つか」


 何となしに、手近な照明操作卓前の椅子に座った。それに倣うかのように神崎さんがミキサー前の椅子に座る。


「そういや照明だけど、最初はどっちが操作する? 後でも先でもいいんだけど」


 この座り位置だと、俺が先に照明をいじることになりそうだ。そう思って、神崎さんに確認を取る。


「えっと……どっちでも、いいよ?」


 少しだけ考えてから、神崎さんは不安げにそう言った。終始疑問形で頼りなさげだった。なんとなく、「後がいいです」的な雰囲気が感じられる。


「じゃ、俺が先にやるね」

「お願いします」


 こちらで決めた方が気が楽だろうか、と先にやる権利をいただかせてもらう。尻込みする気持ちもわかるが、俺は先の方がお得な気がするタイプだ。これで停電云々の話がなければもっと歓迎できたんだけどね。手が滑らないように細心の注意。

 峰岸先輩はどれくらいの速度で動かしていただろう。思い出しながら、軽く、指の動きだけでシミュレーション。


「誰かいるのか?」

「うお!」


 調光室の扉の外から女性の声が聞こえた。

 ビクン、と身体が震える。危うくフェーダーに指がかかるところだった。

 ガチャリ、キィ、と調光室の重い扉が開く。現れたのは、若い女性の先生だった。


「あれ。なんだ、見学者か? 部員が誰もいないってのはどういうことだい」


 パチッ、と照明スイッチが押された音。ジワッと電気がつき、一瞬、眩しさに目を閉じてしまう。

 瞼を開くと、先生の顔立ちがはっきりと目に飛び込んでくる。鼻筋の通った美人な先生……なのだが、全身から気だるげなオーラが立ち込めていて、ちょっと残念さを覚える。


「あ、あの……新入部員の幸村です」

「神崎、です」


 立ち上がった俺たちの挨拶を聞いて、その先生は驚いたのか、目を丸くさせた。


「ああ、そういや昨日一昨日と、二枚も入部届を渡されたな。ありゃあ本物だったのか。てっきり、峰岸の冗談かと」


 どうやら教師ですら諦めているらしい。気づいていないのは峰岸先輩当人のみか。


「しっかし、もう決めちまったのかい。気は確かか?」

「なんて言い草ですか」


 心の声だけのつもりだったのに、思わず口から突いて出てしまった。

 先生は気を悪くするでもなく、


「仮入部は二週間あるんだ。もう少し見て回ってからでも、遅くはないと思うけどねえ。ま、入ってくれるんなら、感謝こそすれ、拒むことはしないが」

「あの、朝倉先生、ですか?」

「ん。ああ、そうだよ。この部の顧問だ。一応な」


 一応って。せめてもう少し取り繕ってくれ。単にサバサバした人なんだろうけど。変わった先生だなあ。


「もしや騙されて入部したのか。あいつら、どんな卑怯な手を使ったんだ」

「ええと、自分の意思なんですけど」

「私も、です」

「初対面で悪いが、お前らも変人認定だ。間違いないね」


 変人らしき人には言われたくない言葉だ。そして案の定、部員たちは変人揃いらしい。


「照明の使い方は学んだか」

「あんまりカチャカチャやりすぎるとブレーカーが飛ぶと」

「それがわかってるんなら大丈夫だ。くれぐれも頼むぞー」


 締まりのない、軽い口調で頼まれた。先生たちは慣れているのだろうが、初めて触れる身としては慎重にもなってしまうものだ。


「それじゃ、後は任せた。私は職員室に戻るから何かあったら呼べ」

「先生は見ていかないんですか?」

「やだよ。見学者がたくさんいるのに面倒くさい。どうせ入らんだろ。ただ様子見に来ただけだから。一応見に行ってこい、って周りに言われたから来ただけで」


 本当に見に来ただけじゃん。


「そいじゃ、よろしくー」


 言うや否や、電気を消して、ささっと調光室から去って行く朝倉先生。

 見届けてから、トスン、と腰を下ろして、ちょっとだけため息をつく。


「いいのかな、顧問があんな感じで」

「部員数に頓着しない先生、かな」


 部員数に応じて部費が配分されるのだから、もっと集客に興味があってもいいと思うんだけど。


「問題は、本格的に活動が始まったとき、ちゃんと来てくれるかなんだよな」

「それは大丈夫だと思う」


 思う、という自信なさげな言い方の割に、その口調には自信が溢れていた。


「何か知ってるの?」

「演技指導には来てくれるって、お姉ちゃんが言ってた」

「お姉さんが?」


 長い前髪を揺らし、コクンと神崎さんが頷く。


「朝倉先生、前は違う学校にいた。お姉ちゃんの出身校に」

「へえ。じゃあ、お姉さんから色々聞いてるんだな」


 コクン、ともう一度神崎さんが頷いた。


「お姉ちゃんは、朝倉先生のおかげで演劇がとても好きになったって、そう言ってた。だから、俳優としてのお姉ちゃんがいるのは朝倉先生のおかげ」


 今を時めく若手女優の、高校時代の恩師、か。

 妹にも語るくらいだから、相当に感謝しているのだろう。そんな人物に教えてもらえるというのは素晴らしき僥倖だ。


「先輩たちは知ってるのかな」

「どう、だろう」


 神崎さんが、少しだけ首を傾げる。サラリと前髪が揺れて、綺麗な瞳がちらりと覗く。


「聞いてないからわからない。朝倉先生に会ったのも、今日が初めて」


 さすがに聞くのは躊躇われるだろうな、と少し神崎さんの心を推し量る。もし峰岸先輩たちが知らなかったら、騒ぎにもなりかねないのだから。


「でも、もしもお姉ちゃんの指導をしていた、って話が広まってたら、朝倉先生目当てで天ヶ崎を受ける人がたくさんいてもおかしくない」

「あー」


 そういえば日下部も、峰岸先輩のことには言及していても、朝倉先生については何も言っていなかったっけ。

 俺は少し身を乗り出して、窓の向こうの舞台上を眺めた。


「この注目度の低さは、そうじゃないってことか」

「うん。たぶん」

「ま、でも、本気で練習に打ち込める環境なわけだな」


 背もたれに寄り掛かって伸びをして言うと、神崎さんが不思議そうに俺の顔を見ていた。


「どうした?」

「えと……怒らない?」

「そう言われると怒り辛いなあ」

「怒るの前提……」

「いやいや、怒らないよ。『あなたのこと、嫌いなんだけど』、とかじゃなければ」

「そんなこと、思ってないし、言わない」


 膨れたように、神崎さんが口をへの字に曲げた。こういう仕草が、あざとさがまったくなしに一々似合う子だ。


「ごめんごめん。冗談だって。怒るなよ」

「怒ってない」

「で、俺がどうしたって?」

「あ、うん」


 話を戻すと、すぐに乗っかってくれる神崎さん。素直すぎて少し心配になる。


「幸村くん、昨日より、ちょっと覇気がないというか、熱意が――これは違う。ごめん。熱意は感じる。ただ、うん。覇気がないっていうのがしっくりくる」

「……日によって、元気って違うっしょ」

「そうなんだけど、何か迷ってるみたいな」


 鋭いなあ。まだ出会って二日なのによく見ている。


「……考えることがあってね。大丈夫。部活は本気でやるよ」


 それでも納得できないようで、神崎さんは心配そうな面持ちだ。


「もうちょっとまとまったら、ちゃんと言う。昨日、話を聞かせてくれた恩もあるし」

「私も、お話聞かせてもらった」


 ふふっと微笑んでから、思いついたように、


「昨日の話が、何か関係あるの?」

「まあね。でも、いい意味でだよ」


 ポカン、と首を傾げた神崎さんがかわいらしくて、やっぱり和んでしまう。


「茉莉也ちゃん、颯斗くん、照明お願い!」


 バッ、と舞台の方へと顔を向ける。

 窓を閉め切っていて、数十メートルは離れた場所なのに、耳まで一直線に届く綺麗な声だった。

 俺が窓を開けると、見学者たちのかしましいざわめきが耳に届いた。

 数十メートル先の、窓越しにいる俺たちが反応した。さすがは峰岸部長。そういったざわつきだろう。その十人ほどの喧騒より、峰岸先輩の声の方がしっかり届いてくるのだから、やはり傑物である。


「サスの一と五を入れて!」


 サス……サスペンションライト、のことか。フェーダーの下に貼られた番号をもとに、俺は一と五を同時にゆっくりと入れていった。

 フェーダーは、思ったよりも固くて手ごたえがあった。指に少し力がこもるぶん、何かの拍子に一気に上げてしまいかねない。手はわずかに震えている。ビビり過ぎかと思うほど、ゆっくりと照明を点ける。徐々に、舞台の両端が照らされていった。


「もっと早く点けても大丈夫だぞ!」

「わかりました!」


 川嶋先輩からアドバイスが。案の定、遅かったようだ。でも、早いよりはいいだろう。次から気をつければいい。

 いつの間にか、神崎さんが背後に立って手元を覗き込んでいた。興味半分、恐怖半分といった表情だ。


「次は神崎さんがやる?」


 神崎さんは、言葉を発さずにコクリと頷いた。小動物のような動きが実にかわいらしい。


「シーリングの五と六!」


 部長が見学者たちに何やら説明をした後に、再度指示を飛ばす。

 神崎さんはプルプルとした手つきで、両手を使ってフェーダーを上げた。

 その震え具合とは裏腹な、結構なスピードで。

 こういうとき、女子の方が度胸があるように思う。それとも俺がビビり過ぎなだけか、それとも神崎さんがとりわけ度胸があるのか。あんな真っ青になって怯えていたのに。


「はぁい、オッケー、ありがとう!」


 峰岸先輩がサムズアップして掲げる。


「二人とも、下りてきていいよ、一緒に見学してて!」


 俺たちは頷き合って、窓を閉め、調光室の鍵をかけて大講堂に下りていく。

 そこから先の内容は、昨日と同じく筋トレと発声。何人かの見学者は、一緒に交じって練習をしている。


 昨日と比べると、屋内でやっているため、音の響き方が全然違う。声が壁に跳ね返って、よりダイレクトに反響する。

 しかも、この講堂内全体に響きわたるような声で叫ばなければならないのだ。大きな声で叫べばこだまするが、しかし講堂がだだっ広いぶん、生半可だと音がどこにもぶつからずに霧散していく。これは外と変わらないかもしれない。


 一つ、とんでもない問題があった。大誤算の一大事。

 照明の下は、非常に暑い。まるで真夏の炎天下だ。おまけに閉め切っているから熱はこもる。調光室も暑かったが、その比じゃない。舞台上で筋トレ・発声を行ったが、結構な苦しさだった。


 そばにいた川嶋先輩に聞いてみると、


「夏は四十度を優に超えるぞ。通気性も悪いし、暑さだけなら運動部よりきつい」


 そんなお言葉が返ってきた。ニヤニヤしているから、おそらくわざと黙っていたのだろう。俺に黙っているのは別にいいんだけど、部員を欲しがっているわけだし、他の仮入部員たちには伝えておかないと入ってくれないんじゃ――いや、たいして変わらないか。それはそれで、参加者が最初から減るだけの話だ。


 神崎さんの様子をチラッと盗み見る。

 透き通るような白い肌。彼女も、他の体験入部生と同じで、運動とは縁遠そうな白さ。

 彼女は一昨日、舞台での練習も見ているらしいから、ライトの下での苦しさは聞いているだろう。

 愚痴を溢すことはあるが、辞めることは絶対に無い。それは大きな救いだ。


 苦しげな顔で練習に参加する同級生たちを見ると、入ってくれそうなのは誰一人として見当たらない。実に辛そうな顔をしている。


 同期は神崎さん一人だけなのだろうか。それは少し寂しい気がする。


 とはいえ、神崎さんは雰囲気が癒し系で、かなりかわいらしい。

 そんな子と二人というのは、まあ、嬉しくもあるのだけれどね。

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