2章 演劇部始動――自主公演に向けて
1 not吊り橋効果
放課後。今日は水曜日だ。大講堂の舞台を使えるということで、案外と多くの見学者が部室へとやって来た。昨日、大和先輩と二宮先輩が奔走した成果と言える。
すでに二人の新入部員が入っているとあって、たいそう驚かれたし、当然のように俺と神崎さんはやたらと注目されることとなった。大和先輩が見学者たちの相手をしているが、奇異の視線はまったく収まらない。まるで動物園のパンダにでもなったかのようだった。
俺たちの存在によって、他の体験入部者が安心して、そのまま入部してくれるのならいくらでも注目されるところなのだが……残念ながら、それほどの影響力はない。
神崎さんが生まれたての小鹿さながらに震え出したあたりで、大講堂の準備のために峰岸先輩に呼び出される。このままでは神崎さんが倒れかねないところだったので、本当に助かった。
大講堂は、俺たちが到着したときには遮光カーテンが閉め切られていた。真っ黒いカーテンに遮られて、外の陽の光が一切差し込んでいない。
客席の上の、豆電球のような薄暗い電気――客電というらしい――が、仄かに大講堂全体を照らしている。上映直前の映画館のような、温かいオレンジ色の明るさだ。
改めて大講堂を見渡すと、そのとてつもない大きさに驚嘆する。
そりゃあ、全校生徒丸々入れるくらいだから広いのは当たり前なんだけど……つまり相当に声を張らないといけない。先輩たちの声量も頷ける。この講堂での訓練の賜物なのだろう。つくづく恵まれていると実感する。そして、それに見合った練習量も必要になる。
「茉莉也ちゃんと颯斗くんはこっち来て」
峰岸先輩に連れられ、調光室なる場所へ向かう。
大講堂の最上段に、「関係者立ち入り禁止」と貼られた扉が。そこを抜けると、さらに階段があって、重厚な扉へと続いている。
調光室とは、端的に言うと、「照明を操作する装置が置かれた部屋」らしい。正式に入部が決定したので、照明の扱い方を教えてくれるそうだ。
峰岸先輩が調光室の鍵を回し、扉を開けて電気をつける。後を追うように中に入っていくと、巨大なサーバーのようなものが目に飛び込んできた。
調光室の床は配線でゴチャゴチャしていて、素人の俺からすると非常に恐ろしい。足をひっかけてコードを抜いたりしてしまっては大問題だ。
ステージ側の壁の上半分は、スライド開閉の窓ガラス。ここからは舞台どころか大講堂全体が見渡せる。その窓の手前に、二つの大きな機材が鎮座している。
「右が照明操作卓で、左がミキサー。この学校は、調光室と音響調整室が一緒になっていてね。まとめて『調光室』と呼んでいる。小規模な部活だし、裏方に人員を割くことができないから、使い方は両方覚えておいてくれ。劇の時は一人で両方いじる余裕がある程度の演出に抑える。そんな華美な演出をしても仕方ないし、役者の演技で勝負だね」
説明を聞き逃すわけにはいかないと、ポケットからメモを取り出す。
「そんなに慌てなくても大丈夫さ。あ、けど一つだけ絶対に守ってほしいことがある」
さらりとした口調ながら、「絶対に」、と念押しされ、ビクリと身体を震わせてしまう。
「この二つのツマミね。このツマミたちを、『フェーダー』と呼ぶ」
すぐさまメモ。聞くだけでは忘れてしまう。
照明操作卓の左と右に分かれて、二種類の上下に動かすツマミがある。それぞれ横には目盛りがついていて、数字が刻まれていた。今は一番下、ゼロの目盛りに全部のツマミが止まっている。
「それぞれ『サスペンションライト』『シーリングライト』って言うんだけど、ちょっと見ててくれ」
峰岸先輩が、サスペンションライトのフェーダーを上に動かす。
舞台の上から吊り下げられているライトが一つ点いた。すべてのフェーダーを上げきると、舞台中央横一列に淡い光が連なってともる。
その後、シーリングライトのフェーダーを上げると、客席の上部辺りに取り付けられたいくつかのスポットライトが点いた。
サスペンションライトのフェーダーは六つしかないが、シーリングライトは十二個ある。
舞台のどこらへんに当たるのが、何番のライトなのか。フェーダーにはそれぞれ番号が貼られているものの、感覚を覚えておく必要がありそうだ。
「さて、気をつけてほしいのは、この二つのライトの扱い方だ。ゆっくりライトを点けたり消したりするのをフェード、素早く切り替えるのをカットって言うんだけど……カットは気をつけてくれ。あんまり素早くガチャガチャやると、ブレーカーが落ちるからね」
「え?」
ブレーカーが落ちる。停電。
本番中にそんなことになったら、舞台は完全に壊れてしまう。責任重大ではないか。
横目でちらりと神崎さんを窺うと、貧血を起こしたのかと思うほどに顔色が真っ青になっていた。
「まあ、普通は有り得ないことだから。ある程度のカットイン、カットアウトなら問題ないよ。ガッチャガッチャ壊すかのような勢いでやったらおかしくなるってだけだからね。とりあえず、念のため頭には入れておいてくれ」
「は、はあ、わかりました」
どんな備品でも、使い方を間違えれば凶器になるのは理解している。
バスケ部のときだってそうだ。モップやトンボをぶん回せば簡単に人を殺せるし、整備を怠って屋外用バスケットゴールが倒れて来たら死んでしまう可能性もある。
しかし、その爆弾スイッチを委ねられるのは、ぞっとしてしまう。
できれば音響でお願いしたい。そんな気分に駆られるくらいには。
「あの、こういうのって、顧問の先生が扱うような機械、なのではないでしょうか……?」
神崎さんがおずおずと訊ねると、峰岸先輩は一瞬諦めに近い表情をした。
「顧問ねえ。名前は何度か出してるけど、世界史の朝倉先生ね。今日は舞台練習だからさすがに来る……はずだ。たぶん。おそらく。きっと。正直、あてにしない方がいい」
「そ、そう、ですか」
ズーン、と肩を落とす神崎さん。無論、俺も似たような気持ちである。
新入生に任せていいくらいなのだから、ブレーカーが落ちる可能性というのは、実際には無いに等しいのだろう。
だが、わずかでも可能性があるのは、どうにも落ち着かない。一パーセントだろうが、当たるときには当たるわけで。脅かさないでくれ、とは思うが、部長としては忠告しないわけにもいかないんだろうなあ、というのもわかる。
結局は俺たちが危険性を留意しつつ、しっかり使い方を覚えればいいだけの話だ。
車の運転と似ているのだろうか、と免許も持っていないのに、なんとなくの雰囲気で自分を納得させる。
「今日は音響は使わないから、照明だけね。後で指示出すから、そのときはよろしく」
舞台照明をすべて消しながらそう言って、それから思いついたように、
「あ。これが調光室の鍵ね。持っておいて」
峰岸先輩は、鍵を近くにいた神崎さんに手渡し、そのまま窓ガラスを開けて大講堂の中に飛び降りた。二メートルくらいの高さだけど、なんと豪快な人なのだろうか。
「ここ、開けたままでいいのかな?」
鍵を受け取ったままボーっとしている神崎さんに問いかけてみる。
今日一日ずっと、神崎さん相手に少しだけ気後れしていた。単なる劣等感だというのはわかっている。それでも、やっぱりそう簡単に気持ちが切り替わることはない。
とはいえ、勝手な俺の感傷で、神崎さんを振り回すわけにもいかない。わかっている。
「たぶん、大丈夫だと思いま――大丈夫だと、思う。練習だし。本番は、閉めきってやるんだろうけど」
神崎さんは、一対一だからか、普段よりも落ち着いた様子だった。
昨日も思っていたけど、ジャージ姿の神崎さんは、「着せられている」、という雰囲気で、少し似合っていない。それが神崎さんらしいのかも、と和んでくる。悩んでいたのがバカらしく思えてくるほどに。
本当にバカみたいだ。こんなにかわいらしい子を相手に引け目を感じて。
そこで、急にハッとなった。神崎さんって、メッチャかわいいんじゃないか?
煩悩たちが急速に溢れ出し、渦のようになって頭の中でひしめき合う。ブンブンと頭を振ると、神崎さんが怪訝そうに見てきた。ヤバい。俺、ただの不審者だ。
「大丈夫?」
「おう、だ、大丈夫だ! そういえば、この部屋って結構明るいよね」
と、無理やり話の軌道修正をする。
「外から目立つよな、これ」
「照明も、舞台以外は落とすんだろうから、ここの電気も、きっと消すんだと思う」
「試しに消してみるか。それくらいなら怒られないだろうし。怒られたら俺が謝る」
窓を閉めて、調光室の電気を落とす。舞台の照明は落としているので、明かりは大講堂の薄明りだけだ。
「暗いな」
「暗い、ね」
照明操作卓を見ると、右上に「客電」と書かれた貼り紙がついたスイッチが。
俺は大講堂とを隔てる窓を開けて、でき得る限りの大声で叫んだ。
「すみません! 試しに大講堂の明かり、全部消してもいいですか!」
「おう、いいぞ!」
舞台上の川嶋先輩から許可をもらい、客電の明かりを消す。
手元の機材以外はほとんど何も見えなくなった。これでは台本が見えるのかすら怪しい。
一応、後ろには窓ガラスがあるのだが、当然そこの遮光カーテンをめくってしまえば、後光が差してしまい電気を落とした意味が無くなる。
となると、これが精一杯の明るさだ。小さなライトでも持っておかないとまずいのかもしれない。
「電気点けます!」
再び叫んで、大講堂の明かりだけを照らした。その後、窓を閉め切ってみる。
「うわっ……こりゃあ暑いな」
「春先でこれなら、きっと夏は地獄」
呪詛のごとき暗く恨めしそうな声で、神崎さんが呟いた。
密室の暗室で女の子と二人きり! という夢のシチュエーションだが、嬉しさの前に辛さが込み上げてくる。蒸し暑さでやられてしまいそうだ。
これで音響もフル稼働させたら、機材の熱さで更に温度は上がるのではなかろうか。炎天下の運動部も真っ青だ。この暑さで機材は大丈夫なのだろうか、と心配にもなる。
「お、体験の連中が来たな」
二年生の恵先輩に連れられた同期生たちが、バスガイドに連れられた観光客のようにゾロゾロと大講堂に流れ込んできた。
ぱっと見でも十人くらいはいる。数人入ってくれれば、部としては大助かりだろう。
「神崎さん、この中から何人が入ると思う?」
「一人でも入れば御の字、かな」
随分とシビアな答えだった。
「幸村くんは、どう思う?」
「神崎さんに賛同する」
正直、合格点には全く届かない、すなわちゼロの可能性も覚悟はしている。
だって、峰岸先輩のスパルタトレーニングが目に見えているもの。
加えて、失礼な話だが、先ほど部室で見た限り、ついて行けそうな人は見つからなかった。みな文化部然とした、運動とは縁の遠そうな人たちばかりだったのだ。
「あんまり期待はしないでおこうかな」
「私も、期待値は下げておく」
神崎さんは少しだけ毒舌だった。
それから、神崎さんが俺の方を見て、淡く微笑んだ。
「幸村くんが入ってくれて、良かったと思ってる」
その言葉にドキリと心臓が跳ねた。
単に、「同級生がいてくれて助かった」、くらいの意味のはず。
なのに、不意にドキドキさせるような言い方と仕草だった。
無防備で、心を平然とくすぐってくる。
勘違いしないように、と自分を戒め、照れを隠すように大講堂の中へと視線を動かすしかなかった。
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