9 目標と、その先と

「はぁ……」


 家に着いた俺は、すっかり陽が落ちて暗くなり月明かりに微かに照らされた部屋の中、鞄を床に放り出し、電気も点けずに制服のままベッドに転がり続けていた。


 両親はまだ帰っていない。普段なら母がいる時間だが、家には誰もいなかった。

 家じゅうが暗いままだが、それが今の俺にはありがたかった。廊下や階段を浮かび上がらせてくれた月明かりが妙に優しく感じられて、今はこのまま身をゆだねていたい。


「姉と同じ光景を見たい、か……」


 あれから神崎さんとは駅まで一緒に歩いて下校した。まだ少しだけ距離感があった。電車の方向は逆だった。

 神前織江についての話を中心にして帰った。それが一番話しやすかったから。姉を語る神崎さんは、どこかコンプレックスを抱きながらも多大なる尊敬の念を発していた。


 そんな神崎さんに、俺は圧倒され続けた。目が眩んで、まともに神崎さんを見られなかったように思う。


 俺だって色々な葛藤があって、色々な思いを抱えて部活動に入ったはず。

 それなのに、何だか自分がやけにちっぽけに感じられてしまう。

 自分を変えたいだのなんだのと言って、単に目立ちたいだけじゃないのだろうか。承認欲求が先に出過ぎていないだろうか。

 それがひどく矮小で、卑しい考えのように思えてならない。

 高尚な志が正しいとは限らない。それはわかっているのだが……。


「はぁ……」


 何度目かもわからないため息をついて、枕にぐっと顔を沈める。

 神崎さんの真っ直ぐな瞳を思い出す。

 穢れのない、純粋な憧れ。俺はその気持ちを忘れてやいなかっただろうか。

 同じ歳なのに、遠い存在に感じてしまう。

 だからこそ、神崎さんに対しても俺は今、間違いなく尊敬の念を抱いている。


 もし俺に兄がいて、誰もが知る有名人だったとしたら。

 きっと比較され、不貞腐れ、ねじくれた性格が出来上がっていたことだろう。兄を嫌ってしまうことだろう。

 それが神崎さんはどうだろう。同じ景色を見たい、ときた。

 心が澄み切っている。強く、しなやか。そんな神崎さんは、尊敬できる人物だ。


 そして俺は、醜いことに、嫉妬も覚えている。

 俺だってこうなりたいと、尊敬とともに、嫉妬の感情も。

 この時点で俺は遠く及ばない。人間としての出来が違う。


 転がっていると、鞄の中からこもった着信音が聞こえた。そういや鞄の中だったか、と仕方なくのっそり起き上がって、鞄からスマホを引きずり出す。


 ベッドに腰かけ直してメッセージを開くと、日下部からのチャットだった。


『体験入部はどうだった?』


 そういえば、今日が体験入部だって伝えてたんだっけ。あいつは当然入部しただろう。


『峰岸先輩、日下部が言ってた通り凄かったよ』

『でしょ。こっちも全国常連だからレベル高いけど、峰岸先輩の方が凄かったかな。あ、これは内緒ね』

『言う相手がいないって笑』

『ちょっと羨ましいなあ。恵まれてるぞ。精進したまえ』

『何目線だよ笑』

『私の方が演劇の先輩だ!』


 日下部との会話に、少しだけもやもやが和らいできた。話せる相手がいるっていうのはいいものだ。


『ついていけるように頑張るよ』

『私もレギュラーになって全国行けるように頑張る』


 全国か。改めて日下部が目指している場所の高さに驚かされる。

 俺なんて、声を出すので精一杯だったのに。きっと俺たちがこなしている練習くらい、日下部も当然のようにこなしているのだろうな。


『私ね、中学最後の学芸会で、幸村に褒められたの、嬉しかったんだ』

『何だよ、藪から棒に。恥ずかしいだろ』

『決意表明。高校でもそう言ってもらえるように、誰かを楽しませられる役者になってみせる! ってね。きっとその先に全国があるから』


 ズン、と胸を刺されたような感覚だった。

 日下部にとって、最初に来る目標は「誰かを楽しませられる役者」なのだ。全国大会とは、目標を達成したその先。付随価値。


 目指している高さも、深みも、俺とはまるで違う。


 指が震えて、返事を打つことができない。

 逡巡していると、向こうからメッセージが再び届いた。


『幸村の受け売りだけどね。幸村も頑張って』

『ああ。お互い頑張ろう』


 どうにか返事を送って、後ろ向きにバタンと寝転がる。


 ああ、そうだった。「誰かを楽しませたい」って、俺が最初に言ったんだ。さっきは神崎さんにもその想いを伝えたはずじゃないか。


 俺にだって、胸を張れる目標があったんだ。勝手に落ち込んで、バカみたいだ。

 でも、大事なことを忘れて落ち込むってことは。後ろめたい感情が先立っていたということは。やっぱり俺は、目立ちたがり屋の自分本位で。


「はぁ……」


 どんどん思考の底なし沼にはまっている気がする。スブスブと、足元にまとわりつくような感覚。脚が重くて身体が動かない。


 寝よう。こういうときは、寝るに限る。


 そう思ってしばらくゴロゴロしていると、気づいたときには夕食の時間で、母親に叩き起こされた。

 気分はまったく晴れていなかった。


 翌日になっても、やっぱり気分は変わらなかった。

 寝れば大抵のことは忘れられる、というのは嘘ではないか。誰だそんなバカなことを言いだしたやつは。

 そうやって八つ当たりをしたい、最悪の寝起きだった。

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