8 神崎茉莉也

 体験入部が終わると、高倉さんと猪瀬さんはそのまま帰宅した。


 ジャージから制服に着替えた後、今後の部活動のスケジュールを確認し、鍵の保管場所などいくつかのレクチャーを受ける。

 基本的に鍵は顧問の朝倉先生が保管しているらしいが、帰ってきた二宮弘子先輩によると、肝心の朝倉先生が見当たらなかったため、後日改めて会いに行く運びとなった。


 神崎さんは、見た目通りの真面目さんで、昨日まったく同じ話を聞いているだろうに、じっと耳を傾けていた。こういう姿勢は見習っていきたいところである。


 その後、先輩方はもう少し残って今後の部活動勧誘について会議を開くとのことで、俺と神崎さんは先に帰る運びとなった。連れ立って部室棟を出て、昇降口へ向かう。

 まだお互い名前くらいしか知らない。会話らしい会話もなく、無言で歩き続ける。


 話しかけても大丈夫だろうか。でも、先ほどの戸惑いの表情。その真意を掴みかねていて二の足を踏んでしまう。

 話すとしたら、「まさか昨日から入部してたなんてなあ」とかそのあたりだろう。それが無難だ。無難で何が悪い。すべるよりはずっといい。

 が、如何せん、声を掛けづらい。どうしたもんかと悩んでいるうち、あっという間に下駄箱へと辿り着いてしまった。


 夕陽が差し込んで、オレンジ色に染まる昇降口。どことなく哀愁があり、俺の胸の内を映し出しているかのようだ。って、何を言っているんでしょう。薄ら寒い。


 今日はこのまま帰るかな、と肩を落としながら自分の下駄箱に向かおうとすると、


「あの、幸村くん」


 神崎さんが意を決したように、上擦り気味の声で背中から声を掛けてくる。


「あ、あの……どうして、演劇部に入部を……?」


 そう言ってから、顔の前で両手をバタバタさせる。


「い、いえ。嫌だって言ってるわけじゃ、ないんです。うぅ……口下手でごめんなさい」


 どうにか言葉を紡ごうとする神崎さんは、俺と違って強い人だな、と羨ましくなった。

 ここ一番の度胸は俺よりも確実にあって、彼女の方が部の軸になるには相応しいのだろうとも思う。

 正直なところ、神崎さんから話しかけてくれてホッと胸を撫で下ろしている自分がいる。それが尚のこと情けなく思えてならない。


「大丈夫、落ち着いて」

「は、はい」


 強がりを隠しながら少し笑って言うと、神崎さんは胸元を押さえて深呼吸する。

 今更俺が格好つけるなど傍から見るとダサいことこの上ないのだろうが、なんだか慌てている神崎さんを見ると、庇護欲と言うか、そうしなければいけないのだと思ってしまった。ダサくて結構。ちょっとだけ格好つけさせてほしい。


 神崎さんは、しばし息を吸って吐くを繰り返してから、俺に向き直った。

 長い前髪の隙間から、ちらりと瞳がのぞく。一瞬だったけど、吸い込まれそうな綺麗な瞳だ、と素直に思った。


「最初から、演劇部に入ることを決めていたんですよね。どうしてですか」


 どうして神崎さんは、最初から演劇部と決めていたのか。俺と同じ疑問。それも当然だ。

 お互いに想いがあって、それは俺たちが互いを知るきっかけになる。また今度でもいいか、と思っていたけれど、神崎さんの方から訊ねてくれて本当にありがたい。


 でも、その前に。


「タメ語でいいよ。同じ部活なんだから。なんか、むずがゆい」

「はい。じゃなくて……あの、ごめんなさい、癖で」

「そんな何度も謝んなくても」


 本当に癖なんだろうな、とちょっと心配になる。昔からこうやって謝ってばかりだったんだろうか。


「自分のペースでいいから」

「う、うん。ありがとうござ……ありがとう」

「そうだな。謝られるより、お礼を言われる方がずっといい」


 神崎さんは困ったように俯きがちになる。押し付けるつもりはないから、これ以上は何も求めない。


「演劇部への憧れ、かな」


 代わりに、先ほどの問いに返事をした。


「憧れ?」


 神崎さんは、興味深そうに少しだけ前のめりになった。

 今の一言はそんなに惹かれるものだろうか、と不思議に思いながらも、入部を考えたきっかけを滔々と語り始める。少し熱がこもり始めてきた。


「ずっと何かが物足りないと思ってた。やりたいことが特にある訳でもない。なんとなくバスケ部に入って、なんとなく面白おかしく過ごして。でも満たされてないっていうかさ。考えてみたら、趣味って呼べるものが、一つもなかった。何かに夢中になったことが無かったんだよ。そんな風に流されて生きてきたけど……中学の学芸会で演劇部の舞台を見て、ああ、こうやってステージで輝きたいんだ、って。自分を変えたいんだって。初めて自分の意思で、『こうなりたい!』、って強く思ったんだ」


 俺はあの日のことを思い出した。

 周りにはバカにされていたけど、演劇部の人たちは格好よかった。

 ステージの上に、俺が求める何かがある気がしたんだ。


「学校の連中はさ、みんなバカにしてたんだ。演劇部のこと。恥ずかしい、って。でも、演劇部はそんな生意気な連中相手でも、楽しませようと必死になっていた。そんなあいつらが、俺には輝いて見えたんだ」


 黙って俺の話を聞いていた神崎さんは、次第に柔らかく、温かく、ニコリと口元をほころばせた。それだけで、少し認めてもらえたような、そんな気になってくる。


「俺も聞いていいかな。神崎さんが入部した理由」


 初日から入部を決めているのだ。神崎さんにだって、何か想いがあるはずだ。


「……いつか言わなきゃ、だもんね」


 そう独り言ちると、手のひらを出して、「ちょっと待ってて」と俺をステイさせる。


 それから辺りをキョロキョロと見回して、隣の靴箱に移っては人がいないのを確認している……らしい。ステイを命じられているので、足音でしか判別できない。神崎さんの足音は摺り足気味で、不審な様子なのがありありと想像できた。

 サササッと足早に戻ってきた神崎さんは、ふぅっ、と息を吐いた。


神前こうさき織江おりえ、って女優、知ってる?」

「まあな。朝の連ドラで注目されてから、見ないクールはない、ってくらい引っ張りだこだし。バラエティーにもよく出てるよな」


 神前織江。朝の連ドラでヒロインの友人役を務めてから一気にスターの仲間入りを果たした、二十三歳の新鋭女優である。

 三年前にブレイクしてから、毎週必ずどこかのドラマには出ているし、主役も脇役も器用にこなす。

 見目麗しく、背も高く、スタイルがいい。誰が見ても美人だと思える容姿だ。

 それでいて番宣でバラエティーに出ることも多くて、けど単に番宣で終わらず、明るく元気で、全力で番組を楽しんでいる姿が好評だ。


 そんな神前織江への憧れ、という話だろうか。

 そういえば、あくまでテレビの中の印象だけど、どことなく神前織江と神崎さんは似た雰囲気を持っているような気もする。こうなりたい! と思っても不思議はなさそうな。苗字に「神」を宿すのは運命的……って、あっちは芸名の可能性もあるのか。


「その神前織江がどうしたの?」

「私の、実のお姉ちゃんなの」

「ほぅ」


 ……ん?


 神崎さんの言葉を、何回か頭の中で反芻する。

 お姉ちゃんとは、お姉ちゃんであり、お姉ちゃんである。よってお姉ちゃんであり、お姉ちゃんであるわけで、つまり、あのお姉ちゃんのことだ。

 親が同じで、家族で、先に生まれた女性を指す、あのお姉ちゃん。


「ほぅ……お? え、マジで? え、凄げえ! 家族が有名人とか初めて見た。うわ。なんか感動する」

「あ、ええと、ありがとう?」


 俺が変なテンションで舞い上がってしまったせいか、神崎さんも何に対してなのかよくわからない反応をした。


「出来ればその、部の人たち以外には、言わないで欲しい……んだけど」

「ああ。なるほど。わかった。約束する」


 こんなん、知ったらみんな俺みたいな反応するに決まってる。学校中に知れ渡って、大騒ぎになることは間違いない。

 しかも、有名女優の妹が演劇部に入ったとなると、宣伝にはなるが、神崎さんの安寧は確実に破壊されるわけで――。


「あれ、それじゃあ、どうして演劇部に? 表に出たら、バレる可能性もあるんじゃ」


 最悪の場合は承知している、という風に神崎さんは大きく頷いた。


「正直ね、今年の春まで演劇は考えてなかったんだ。私、お姉ちゃんみたいに、堂々と演技する自信、ないから。でもね、お姉ちゃんが三月に帰省したとき、お芝居の話を聞いて、そのときに『裏方って手段もあるんだなあ』、って思って」

「裏方、かあ。でも、人数少ないと表に駆り出されるんじゃないかなあ」


 これから次第だが、裏方に専念、とか言っている余裕はないかもしれない。

 なにせ現在六人だ。劇をするにはギリギリな気がする。

 もちろん、上級生四人だけでできる劇もあるだろうけど……先輩たちはそのへんも考えて、俺たちに発声練習を教え込んだのではないか。そう思える。


「もっとたくさん、役者志望が入ってくれるといいなあ……」


 と、神崎さんは切実そうに呟いた。


「お姉さんの後を追いたいとか、そういうのじゃないんだ?」

「もちろん、それもある。お姉ちゃんは学生演劇出身だから」


 昇降口を、一陣の風が吹き抜けた。

 神崎さんの前髪がふわりと上がって、一瞬だけ表情があらわになる。

 ふわりと笑って、神崎さんが声を弾ませる。


「お姉ちゃんの見ている景色を、少しでも見たかったんだ」


 俺の方を向いているのに。

 でも、遠くを見ているような、儚げな、そして、強い熱を帯びた瞳。

 それは、学芸会の後の日下部によく似ていた。


 憧れに満ちた神崎さんの表情は、眩しく、輝いて見えた。

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