6 辛いときこそ楽しもう
「二十八……二十九……三十! 終わり! 背筋伸ばして!」
ぜぇはぁ言いながら、猫のように背を丸め、痛めつけた背筋を伸ばす。
川嶋先輩が監督官として、一、二、三と口で数え、それに合わせて腹筋と背筋のトレーニング。自分のペースでできないのが辛さを倍増させていた。
数か月のブランクがあったせいか、さっきまでは調子のいいことを心の中で好き勝手言いまくっていた俺ですら、バキバキになった身体が救いを求めるように悲鳴を上げている。少しがっかりだし、不精をしていたここ数か月の自分を叱りつけたい気分だ。
他の三人がヘロヘロになって仰向けになり、肩で息をしているのもむべなるかな。
俺だって、できれば寝転がって休みたいくらいだ。ジャージの中の体操着が、汗で身体にべっとりと張り付いて気持ち悪い。軋む身体を起こして、ペットボトルの水をぐいっと喉に流し込む。
「ふむ。みんな、お疲れ。これが普通にできるようになれば、健康な肉体が手に入るわけだ。日々の安寧の先行投資。もっと精進しないといけないな」
峰岸先輩がタオルで汗を拭きながら、爽やかスマイルで言った。首元の汗が実に眩しい。
先輩は同じプログラムだったとは思えぬほど軽やかで、まだまだこの程度、と言わんばかりに元気だ。
「身体も温まってきたことだし、冷めきる前に、そうだな、三分後には発声行こうか」
温まるどころか、身体のあちこちで炎症を起こしているのがわかる。明日は絶対筋肉痛。
他の全員からは、笑顔は消えていた。「三分だけですか」、という言葉すら出てこない。
「峰岸先輩」
「どうした、幸村くん」
「もうちょっと、軽くした方がよかったのでは……」
生意気にも進言してみると、何を言っているのかわからない、といった顔をされた。
「普段は五セットだから、これでも軽い方だよ」
ピクリ、と屍が三体、身じろぎしたのが視界の端に映った。
「加えて、ジョギングもやる」
ピクッ、ピクッ、ピクッ、と再び動く気配。
「発声だって、大講堂全体に広がるように声を張り上げる。動きながらやる練習もある。ちゃんと腹筋を鍛えておかないと、お客さんには届かない。それに、筋持久力をつけないと、自分の身体を痛めてしまうんだ」
その前にみんな、すでに身体を痛めているんですが……とは言えない空気だった。
どう見ても現状ではオーバートレーニングだが、筋肉痛とは運動によって傷ついた筋繊維を回復させる過程であり、それによってより強固な筋肉へと強化されるわけで。ほどよいところからスタートすべきなのだが……峰岸先輩、ちょっと精神論が過ぎませんかね。
「これは自分のためでもあるんだ。なあ、そうだろう。信二」
「そうだな」
川嶋先輩が優しく肯く。諦めと悟りと慈愛に満ちた眼だった。
「私たちは役者だ。身体で表現するんだ。ムキムキになれ、と言っているわけではない。ただ、しなやかな肉体は持っておいた方がいい。そういうことだよ」
実に正論である。ということで俺も川嶋先輩を見倣って諦めることにした。
まあ、俺はすぐに慣れると思うし。もうやけくそだ。
「さて、そろそろ発声練習始めようか」
待って。まだ三分経ってない。どこのム〇カだ。
「みんなはプリントをしっかり見てくれ。最初はゆっくり行くから」
俺は床に置いた、先ほど配られたプリントを挟んだクリアファイルを拾い上げ、表面を目でなぞった。
「あえいうえおあおあいうえお」、「あめんぼあかいなあいうえお」、など、聞き覚えのあるフレーズが書かれている。「わ」行まで知ってる人はそうそういないだろう。少なくとも俺は初めて見た。
「あ、え、い、う、え、お、あ、お。それぞれ一音一音区切って、しっかりお腹から声を出すことを意識して。腹式呼吸についてはあとでレクチャーしよう。まずは見ていてくれ」
峰岸先輩が足を肩幅に開いて、お腹に手を当て、大きく息を吸い込む。
次の瞬間。校内全体に響き渡るのではないかと思えるくらいに、澄んだ音の波がどっと押し寄せてきた。
圧巻だった。人の身体から、これほどの大声が出るものなのだろうか。辺り一帯が音叉のように共鳴し振動しているかのようだった。
音の一つ一つが明瞭で、潰れた音は欠片もない。どこまでも突き抜けていきそうな透き通った声たちが、屋上を華麗な舞台に作り変えていった。
風を切るかのように鋭くも美しい声が、空間を支配する。
「ふぅ……」
部長が息を吸って吐ききると同時に、俺も大きく息を吐いた。ようやく自分が息を止めて見入っていたことに気づいた。
「それじゃあ、新入生たちには一斉にやってもらおうか。一人ずつだと、まだ恥ずかしいのではないかな」
こちらの気持ちを推し量ってくれたようだが、この見本のあとにやるのは気が引けてしまう。贅沢だが、もう少し違う気を回してくれれば、と思ってしまう。
全員、怖々とした様子で上半身を起こし、見よう見まねで部長と同じ姿勢をとる。それと同時に周囲の様子をちらちらと窺い始める。
「プリントは少し上に持つといい。顔の斜め前に置くくらいの気持ちで。あまり下向きに持ってしまうと、身体が丸まって声も下向きになってしまうからね。しっかり前を向くように」
一人一人の姿勢を先輩方二人がチェックしながら、発声の仕方を丁寧に教えてくれる。
「喉よりも、お腹から声を出すことを意識するんだ。横着して喉だけで行こうとすると、すぐに枯らして痛めてしまうからね」
腹筋を意識する、というのはともかく、横隔膜を動かす意識、とか、丹田に集中して、とかの説明は正直なところ抽象的なイメージでよくわからなかった。
「では、私の後に続いてくれ」
峰岸先輩の言葉に、みんな気後れしている。それを察したか、初めて川嶋先輩が峰岸先輩を止めようとしているのが見えた。
それには気づかず峰岸先輩が発声を始めるものだから、俺は勇気を振り絞って、プリントを目で追いながらがむしゃらに大声を張り上げた。
舞台に出るなら、これくらいで尻込みしてどうする。部員の前で、仮入部の同期生の前で勇気が出ないのならば、知らない生徒の前で演技などできようはずもない。今が勝負のときだと、日和見しそうだった自分を叱咤する。
腹筋を意識して、同時に丹田を意識して。すると、横隔膜のことを忘れてしまう。すると、丹田がなおざりに。二つまではともかく、三つ同時に意識するのは難しい。っていうか、横隔膜ってどうやって動かすんだろう。よくわからない。とにかく夢中だった。
「いいぞ、幸村くん。続けよう。か、け、き、く、け、こ、か、こ!」
母音の順序は一緒のはずなのに、ア行じゃなくなっただけでパニックになる。
目で追いかけ、腹筋を意識して、声を出して。何が何だか、ぐるぐるとこんがらがっていく。
でも、絡まる思考とは裏腹に、心はすっきりと晴れ渡っていく。
大声を出すって、こんなに気持ちのいいものだったんだ。
バスケ部のときの「当たり前」が、改めて感傷となって込み上げてくる。
あのときと違うのは、手段ではなく、目的になっていること。
頑張って、声を出す。なんて気持ちいいんだ。
きっと舞台に上がるときには、また声を出すことは手段になっているのだろう。だって、演じることが目的なんだから。
そのときはまた別の楽しみが生まれるはず。
そう思って今はただ、この練習を楽しもう。
だって、今しか得られない感動だ。楽しまないと損じゃないか。
晴れ晴れとした表情で、下手くそなのにも構わず大声を張り上げる。
最初は声が小さかった他の一年生たちも、次第に声が大きくなっていく。
とりわけ神崎さんは、顔を赤らめながらもしっかりと前を向いて、力強い声を出している。筋トレで音を上げかけていた神崎さんと、同一人物とは思えぬほどに。正面から神崎さんの様子を見てみたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえて練習に再度集中する。
もう誰も恥ずかしがることなく、峰岸先輩のあとに続いて発声を繰り返す。
その様子を、峰岸先輩が発声しながらも横目で満足げに見ていた。
目が合ったのが、少し照れ臭かった。
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