5 体験入部――演劇部のハードル
「筋トレもするから、ヘアゴムとかないなら言ってくれ。用意してあるから」
「あ、私、持ってきてます」
と、長くサラサラな黒髪の猪瀬さんが、色鮮やかなゴムを取り出した。それを見て、満足そうに峰岸先輩が頷く。
部室の扉の窓に「現在、屋上で活動中」と書かれた紙を貼り付け、鍵をかける。
結局、部活動の時間になっても追加の新入生はついぞ現れなかった。
部室棟一階にある更衣室でジャージに着替え、運動用に自販機で水を買ってきたあと、プリントの入ったクリアファイルを渡され、先輩たちの後ろについて階段を昇っていく。
先頭の川嶋先輩が屋上の鍵を開けてノブをひねると、ギギィィ、と錆びたような音がして扉が開いた。
屋上はフェンスに囲まれてベンチ一つない。安全は確保されているが実に殺風景だ。使用された痕跡もほとんどない。そもそも使用される前提で造られてはいないようにも思う。
「お、風が止んでるな。こりゃラッキーだ」
川嶋先輩が、右手で手庇を作りながら、声を弾ませて辺りを見回した。
「風があると面倒だからね。飛ばされては敵わない」
峰岸部長が、プリントを指先でパチンと弾く。
その音に誘われるように、俺は手元のプリントに目を落とした。発声練習のやり方・順番等が記されたものだ。
「それじゃあ、基本的なところから行こうかな」
まずは発音の仕方から。
母音の口の開き方などを、先輩たちが一人一人に細かく注意しながら教えてくれる。
例えば、「あ」の場合は口を大きく開く。「い」の場合は口角を横に目一杯広げる、などなど。母音すべてで口の形が違う。
「まずは大袈裟にやってみよう。演技をしようとすると、自分で思っているよりも縮こまってしまっていることが多いからね。少し大袈裟なくらいが、外から見るとちょうどいいことが多いんだ。むしろ大袈裟に口を開かないと、音が潰れて聞き取りにくくなってしまう。とりわけ舞台ではね。その大袈裟さも、客席からなら案外と気にならない。この辺りは実際にステージに立ってみないとわからないかな。ということで、明日もよろしくね」
峰岸先輩がサラリと明日の部活動の宣伝をして、発声方法の練習を続ける。
「小さく、普段喋るように発音してみて。そうすれば意味がわかるよ。みんなは普段、どうやって口を動かしているのだろうね」
言われた通りに、普段と同じくらいの声で「あ、い、う、え、お」、と発音してみる。
……あれ? いつもこんな風に口を開いてたっけ……?
わからない。ゲシュタルト崩壊というか、自分の身体の動きがバラバラになっていく感覚。いかに日々の生活で、意識せずに口を動かしているか、ということだろう。当たり前だ。人間の行動は、ほとんどが無意識のうちに行われている。今から「あ」と発音しよう、などと頭で考えて口を動かす人間はいない。
何度か「あ、い、う、え、お」、と繰り返すと、「い」と「う」はともかく、「あ」、「え」、「お」の口の形の違いは割と小さい。これでは聞き間違いが起きても仕方がない。
このままの口の形で舞台上で喋ると、観客の耳にしっかり届けなければいけない立場としてはアウトだろう。大袈裟に、の意味が段々と分かってきた。
「ね。面白いだろう。自分では案外とわからないものなのさ。自分の身体の動きというものはね」
峰岸先輩が髪を右耳にかけ、上品に、優雅に笑う。いちいち仕草がカッコイイ。
「さて、一通り覚えてくれたかな。それじゃあ、早速発声に移ろう――と、言いたいところだが、発声とは腹筋を使って、背筋を使って、身体全体を使って行うものだ。喉だけで声を出しては、痛めてしまうのが目に見えている。だから、先に身体を温めておく必要がある」
そっと左隣にいる神崎さんを見遣る。さっきよりも顔が青白かった。
「それじゃあ、腹筋二十回、背筋三十回。合わせて三セット。行こうか」
ニコリと、峰岸部長がさも当然のように言った。
高倉さんと猪瀬さんが、ざわっ、と反応を示す。それを見て一つ得心がいった。
運動部出身としては、キツイけど、無茶な範囲ではない。
だが、演劇部を「文化部」だと考えたとき、物凄いギャップであることにも相違ない。
部員数が少ない理由は、きっとここにもある。ほのぼのした部活だと思えば、才能、技術が申し分なさそうな先輩たち。当然のように厳しい練習。
この筋トレを難なくこなせる人なら、それは運動が好きな人だろう。
つまり演劇部によっぽど入りたい人じゃなければ、間違いなく最初から運動部を選択しているのだ。
ハードルが高く、致命的なギャップ。
高倉さんと猪瀬さんは、笑顔を取り繕いながら「えー」、とか、「もうちょっと減らしてください!」、なんて努めて朗らかに振舞っているが、肩が落ちているのは明らかだった。
おそらく二人は脱落かな、とぼんやり他人事のように考える。
対して神崎さんは入部の意思を変えずにいるのだから、決意は相当なものである。
筋トレを始める前からぶっ倒れそうな顔色なのは気がかりなんだけど。
「さあさあ。文句を言う前にまずやってみよう。大丈夫。筋肉をいじめているうちに気持ちよくなってくるから!」
エクササイズのトレーナーのようなことを、実にいい表情でおっしゃる峰岸部長。
それを見てかぶりを振る川嶋副部長。諦観がありありと満ちている表情だ。これだけで二人の関係性が見て取れる。
「あの、川嶋先輩」
「おう」
こっそり、他の人には聞こえないひそひそ話を試みる。
「人の集まりって、例年はどうですか」
「集まるは、集まる。今年もそうだろう。が、何人残るかな」
「ですね」
「神崎みたいに入部を決めている子がたくさん入って欲しいって、そう言ったろう?」
「ええ」
「俺の気持ち、わかったろ」
つまり、絶対に辞めないという強い意思を持った人材が欲しいと。
俺が心配するまでもなく、川嶋先輩は入部希望者が少ないであろうことには気づいている。そして、達観しているのだ。
「こういうやつなんだよ。琴美は。妥協を許さないとかじゃあないんだ。あれが自然なんだ。あいつの当たり前なんだよ。俺は諦めた。部員が少ないのも仕方のないことだ。琴美が部長になった瞬間、もう決まってしまったことなんだ。いや、部長じゃなくても関係ないか。周り全部を巻き込むような、はた迷惑な奴だから。だから現部員数も少ない」
「は、はあ……」
俺はそれだけしか言えなかった。何を言っていいのかわからなかった。一つわかるのは、川嶋先輩は相当な苦労人だということだ。心なしかやつれて見える。
でも。それでもついていくという峰岸先輩への信頼も感じる。これが二人なりの絆なんだろうと、そうも思ってしまう。その関係性は、少し羨ましくもあった。
「まあ、その、何だ。とってつけたように聞こえるかもしれんが、面白いこともあるから、今日は一応最後まで付き合ってくれや」
「はい。これくらいなら問題ないです」
「お。活きががいいね。問題は……」
一年生女子三人の顔を、川嶋先輩がつぶさに観察する。
屋上に寝転がって嫌々筋トレの準備をしている三人。全員が、表情筋が強張っている。
「あの三人には、酷かな」
同感だったので、否定することはできなかった。
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