法華経 譬喩品

 その時、舎利弗は、心が踊躍して歓喜して、起立して、合掌して、釈迦牟尼仏の尊顔を仰ぎ見て、釈迦牟尼仏に言った。


 今、世尊(、釈迦牟尼仏)より、この「法音」、「説法」を聞いて、心が踊躍を懐き未曾有を得ています。

 理由は何か? (と言うと、)

 私(、舎利弗)は、昔、釈迦牟尼仏より、このような法を聞いて、

諸菩薩が「受記して」、「仏に成る予言を受けて」、「作仏する」、「仏に成る」のを見て、

「しかし、私達は、このような事に、あずかれない」と(思って)、

自ら感じて心をひどく痛めていました。

 「如来(、仏)の量り知れない知見を失ってしまう」と(思って)。

 世尊(、釈迦牟尼仏)よ、私(、舎利弗)は、常に、山林で、樹の下で、独りで処して、坐禅したり坐禅の合間に歩行したりして、このように思っていました。

 私達も、同じく、「法性」に入っているが、どうして、如来(、釈迦牟尼仏)は、「小乗法」、「中途半端の法」で、仏土へ渡して救済したと見ているのか? と。


 (しかし、)これは、私達の咎でした。世尊(、釈迦牟尼仏)の落ち度ではありませんでした。

 どういう事か? (と言うと、)

 もし、私達が、「阿耨多羅三藐三菩提」、「無上普遍正覚」を成就する原因である所の説を待てば、必ず「大乗」、「真の完全な法」によって、仏土へ渡って解脱する事を得ます。

 しかし、私達は、「方便」、「便宜的な方法」による「随宜の」、「相手に応じた」、所説を理解できませんでした。

 (しかし、)初めて仏法を聞いて、幸運にも、(仏法を、)信じて受け入れて、「思惟して」、「思考して」、証を取ることができました。

 世尊(、釈迦牟尼仏)よ、私(、舎利弗)は、昔から、終日、夜通し、常に、自分を厳しく責めていました。

 しかし、今、釈迦牟尼仏より、未だ聞いたことが無かった所の未曾有の法を聞いて、諸々の疑いや後悔を断つことができて、身心が「泰然として」、「落ち着いて不動に成って」、快適に成って、安穏となることを得ました。

 今日、知ることができました。

 私達は、仏の口からの智慧の言葉により生じた、法の教化により生じた、真の仏の子であるし、仏法の分け前を得ている。と。


 その時、舎利弗は、くり返し、この意義を説きたいと欲して、詩で説いて言った。


 私(、舎利弗)は、この「法音」、「説法」を聞いて、(心が)未曾有に成ることを得て、心に大いなる歓喜を懐き、疑いというあみを全て既に除去できました。

 昔から、釈迦牟尼仏の教えをこうむって、「大乗」、「真の完全な法」を失っていませんでした。

 「仏音」、「釈迦牟尼仏の説法」は、とても希有で、「衆生」、「生者」の悩みを除去することが可能です。

 私(、舎利弗)は、「漏」、「煩悩」を無くし尽くすことを既にでき得ていますが、釈迦牟尼仏の説法を聞いて、また更に、憂い悩みを除去できました。

 私(、舎利弗)は、山谷に処したり、林の樹の下にいたりして、坐禅したり坐禅の合間に歩行したりして、常に、このような事を思考していました。

 ああっ! 深く自身を責める!

 どうして自身をだましているのか?

 私達も、また、仏の子で、同じく「無漏法」、「煩悩の無い境地の法」に入っている。

 (しかし、)未来に、無上の「道」、「真理」を演説することが不可能である。

 仏の金色の相、仏の三十二相、仏の十力、諸々の解脱は、同じく共に、唯一の法の中に有る。しかし、私達は、これらの事を得ていない。

 仏の妙なる八十種好、仏の徳である十八不共法、これらのような功徳を、しかし、私(、舎利弗)は、全て、既に、失ってしまっている。


 私(、舎利弗)は、独りで坐禅の合間に歩行している時に、釈迦牟尼仏が大衆と共にいるのを見て、

釈迦牟尼仏の名声が十方に満ちているのを聞いて、

釈迦牟尼仏が広く「衆生」、「生者」に「饒益している」、「利益をもたらしている」のを見聞きして、

このように思っていました。

 (私、舎利弗は、)このような利点(、徳)を失ってしまっている。

 私(、舎利弗)は、自身をだましている。と。


 私(、舎利弗)は、常に、日夜に、このように思っていて、世尊(、釈迦牟尼仏)に「(私、舎利弗は、仏の徳などを)失ってしまっているのか? 失っていないのか?」と質問したいと欲していました。

 私(、舎利弗)は常に、世尊(、釈迦牟尼仏)が諸々の菩薩を称讃しているのを見て、日夜、このような事を思っていました。

 (私、舎利弗が)今、釈迦牟尼仏の言葉を聞いておりますと、「随宜に」、「相手に応じて」法を説かれています。

 「無漏」、「煩悩の無い境地」は、思考によって推測するのは難しいです。

 (仏法は、)「衆生」、「生者」を「道場」、「修行」に至らせます。

 私(、舎利弗)は、もとは、邪悪な見解に執着してしまって、諸々のバラモンの師と成ってしまっていました。

 世尊(、釈迦牟尼仏)は、私(、舎利弗)の心を知って、(私、舎利弗を)邪悪から抜け出させて、「涅槃」、「寂静の無上の境地」を説きました。

 (そのため、)私(、舎利弗)は、邪悪な見解をことごとく除去して、くうの法で証を得ました。

 (私、舎利弗は、)その時、心の中で、自ら、このように思いました。

 「滅度」、「仏の悟りの境地」に至ることができ得た。と。


 しかし、(私、舎利弗は、)今、このように自覚しています。

 これ(、現在の境地)は、真実の「滅度」、「仏の悟りの境地」ではない。と。


 もし(私、舎利弗が)仏に成ることができ得た時は、三十二相を「具足して」、「十分に備えて」、天人、夜叉達、龍神などが恭しく敬ってくれるはずです。

 その時、思うべきです。

 永遠に余すこと無く悪を滅ぼし尽くせた。と。


 釈迦牟尼仏は、「大衆」、「集まっている者達」の中で、「私(達)は、まさに仏に成る」と説いてくれました。

 このような「法音」、「説法」を聞いて、疑いや後悔をことごとく既に除去できました。

 釈迦牟尼仏の所説(、法華経)を初めて聞いたときは、心中で大いに驚いて疑ってしまいました。

 魔が釈迦牟尼仏の姿に変身して、私の心を悩まし乱しているのではないか? と。(しかし、)


 釈迦牟尼仏は、種々の縁、譬喩、巧みな言説で、(私の、)その心を海のように安心させてくれました。

 私(、舎利弗)は、(法華経を)聞いて、疑いというあみを断てました。


 釈迦牟尼仏は、このように説きました。

 過去の世の、量り知れないほど無数の、「滅度した」、「肉体が死んだ」仏達も、「方便」、「便宜的な方法」に、やすんじてから、また、皆、この法(、法華経)を説いた。と。

 現在や未来の仏達も、その数が量り知れないほど無数であるが、また、諸々の「方便」、「便宜的な方法」によってから、このような法(、法華経)を演説する。と。


 今、世尊(、釈迦牟尼仏)も、生まれてから、出家して仏道を会得して「法輪を転じて」、「法を説いて」から、また、方便によってから、(法華経を)説きました。


 世尊(、釈迦牟尼仏)は、真実の「道」、「真理」(、法華経)を説きました。

 「波旬」、「魔」には、このような事(、法華経を説く事)は無いです。

 このため、私(、舎利弗)は、確定して、このように知ることができました。

 魔が釈迦牟尼仏の姿に変身して(法華経を説いて)いるのではない。と。


 私(、舎利弗)は、疑いというあみに堕ちてしまっていたために、このように思ってしまっていたのです。

 (法華経は、)魔の所説ではないか? と。


 釈迦牟尼仏の柔軟な説法、深遠に、とても微細に絶妙に演説された清浄な法を聞いて、私(、舎利弗)は、心に、大いなる歓喜が生じて、疑いと後悔を永遠に既になくし尽くすことができて、真実の智慧の中に安住できました。


 私(、舎利弗)は、必ず、まさに、仏に成って、天人に敬われるようになって、「無上の法輪を転じて」、「無上の法を説いて」、諸々の菩薩を教化します。


 その時、釈迦牟尼仏は、舎利弗に、このように告げた。


 私(、釈迦牟尼仏)は、今、天人、人、出家者、バラモンなど集まっている者達の中で、説いている。

 私(、釈迦牟尼仏)は、昔、かつて、二兆人の仏達の所で、無上の仏道で、あなた(、舎利弗)を常に教化した。

 あなた(、舎利弗)も、また、「長夜」、「輪廻転生」で、私(、釈迦牟尼仏)に従って、教えを受けて学んだ。

 私(、釈迦牟尼仏)は、「方便」、「便宜的な方法」で、あなた(、舎利弗)を仏道に引き入れて導いたので、(あなた、舎利弗は)私(、釈迦牟尼仏)の法の中に生じた。

 舎利弗よ、私(、釈迦牟尼仏)は、昔、あなた(、舎利弗)に仏道を志させ願わせた。

 あなた(、舎利弗)は、今(まで、)ことごとく(初心を)忘れてしまっていて、自ら、このように思ってしまっていた。

 (私、舎利弗は、)既に「滅度」、「仏の悟りの境地」を会得している。と。


 私(、釈迦牟尼仏)は、今、また、あなた(、舎利弗)にもとからの願い、修行してきたことを思い出して欲しいので、諸々の声聞達に、「妙法蓮華」、「教菩薩法」、「仏所護念」という名前の、この「大乗経」を説いた。

 舎利弗よ、あなた(、舎利弗)は、未来の世で、無量の無限の、(人には)思考不可能なほど長い劫を過ぎてから、幾千、幾万、幾億の仏達に捧げものを捧げてから、正しい法をささげ持ってから、菩薩の行いの道を「具足して」、「十分に備えて」から、まさに、仏に成ることができ得る。

 (仏に成った舎利弗の)称号は、華光仏と言う。

 (舎利弗の仏)国土の名称は、離垢である。(「離垢」は「汚れを離れている」を意味する。)

 その仏国土は、平で、正しく、清浄で、荘厳に飾られていて、安穏で、豊かで、楽しい。

 天人が、燃えるように盛んである。

 瑠璃るりを地と成している。

 八つの交わる道が有る。

 黄金を縄となして、道の境界にして、その道の横に、はられている。

 その道のかたわらには、各々、「七宝」、「七種類の宝」の「行樹」、「並木」が有って、常に華、果実が有る。

 華光仏(、舎利弗)も、また、「三乗」で、「衆生」、「生者」を教化する。

 舎利弗よ、この華光仏が出現する時は、悪の世界ではないが、もとからの願いなので、「三乗」の法を説く。

 その華光仏の劫の名前を大宝荘厳と言う。

 なぜ大宝荘厳と言う名前なのか? (と言うと、)

 その華光仏の仏国土の中では、菩薩を大いなる宝とするからである。

 (華光仏の仏国土の、)この諸々の菩薩は、量り知れないほど無数、無限、(人には)思考不可能なほど無数、数えたり例えたりすることが及ばないほど無数である。仏の智力がなければ、知ることが可能な者はいない。

 (華光仏の仏国土では、)歩行時に、宝の華が足を受け止めてくれる。

 (華光仏の仏国土の、)この諸々の菩薩は、初心者ではない。

 皆、幾百、幾千、幾万、幾億の量り知れないほど無数の仏達の所で、久しく、徳のもととなる善行を種のように植えてきている。

 「梵行」、「修行」を清浄に修行してきている。

 常に諸仏にほめられている。

 常に仏の智慧を修行している。

 大いなる神通力を「具足している」、「十分に備えている」。

 「一切の諸法」、「全てのもの」の門を善く知っている。

 性質は正直で、虚偽が無い。

 志、意思が、堅固である。

 このような菩薩が、その華光仏の仏国土に、充満している。

 舎利弗よ、華光仏の(仮の身の)寿命は、十二小劫で、王子と成っていて未だ仏ではない時の期間は除く。

 その華光仏の仏国土の国民の寿命は、八小劫である。

 華光仏は、十二小劫を過ぎてから、堅満菩薩に「授記して」、「仏に成る予言を授けて」、諸々の出家者に、このように告げる。

 堅満菩薩が、次に、まさに、仏に成る。

 (仏に成った堅満菩薩の)称号は、華足安行仏と言う。


 華足安行仏の仏国土も、また、華光仏の仏国土と同様である。


 舎利弗よ、この華光仏の「滅度」、「仮の身の死」の後、正法の期間は、三十二小劫である。

 像法の期間も、また、三十二小劫である。


 その時、世尊(、釈迦牟尼仏)は、くり返し、この意義を説きたいと欲して、詩で説いて言った。


 舎利弗よ、(舎利弗は、)来世で、「普智尊」、「仏」と成る。

 (仏と成った舎利弗の)称号、名称は、華光仏と言う。

 (華光仏は、)まさに、量り知れないほど無数の「衆生」、「生者」を仏土へ渡す。

 (舎利弗は、仏に成るまで、)無数の仏達に捧げものを捧げてきていて、菩薩の行い、仏の十力などの功徳を「具足している」、「十分に備えている」。

 無上の道を証している。

 量り知れないほど長い劫が過ぎ終わると、大宝(荘)厳という名前の劫になる。

 (華光仏の仏国土、)世界の名前は、離垢である。

 清浄で、きず、汚れが無い。

 瑠璃を地となしている。

 黄金の縄が、その道の境界となっている。

 「七宝」、「七種類の宝」の複雑な色の樹があって、常に華、果実が有る。

 この華光仏の仏国土の諸々の菩薩は、志、意思が常に堅固である。

 神通の「波羅蜜」、「到達」を皆、既に、ことごとく「具足している」、「十分に備えている」。

 無数の仏達の所で、善く、菩薩の道を学んできている。

 これらの「大士」、「大いなる修行者」、「菩薩」は、華光仏に教化されている。

 華光仏は、王子と成った時に、国を捨て、世俗の繁栄を捨て、最後身の菩薩として出家して、仏道を成就する。

 華光仏(の仮の身)が(仏国土、)世界に存在する寿命は、十二小劫である。

 その仏国土の国民の寿命は、八小劫である。

 華光仏の「滅度」、「仮の身の死」の後、正法は、(仏国土、)世界に存在する期間が三十二小劫で、広く諸々の「衆生」、「生者」を仏土へ渡す。

 正法が姿を隠し終わると、像法となって、期間は三十二小劫で、華光仏の「舎利」、「遺骨」が広く流布して、天人は、あまねく華光仏の遺骨に捧げものを捧げる。

 華光仏の行う事は皆、このようなのである。

 「両足聖尊」、「仏」である華光仏は、無上に優れていて、比類無いのである。

 華光仏とは、(未来の、)あなた(、舎利弗)なのである。

 (舎利弗は、)まさしく、まさに、自ら、喜ぶべきである。


 その時、「四部衆」、「出家者の男女と在家信者の男女」と、天人、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽など集まっている者達は、舎利弗が仏前において仏に成る予言を受けたのを見て、心に大いなる喜びが生じて、心が無量なほど踊躍して、各々、身につけていた上衣を脱いで、(上衣を)釈迦牟尼仏に捧げた。


 「釈提桓因」、「帝釈天」と「梵天王」、「梵天」などと、無数の天人も、また、天の妙なる衣、天曼陀羅華、摩訶曼陀羅華などを(釈迦牟尼仏に)捧げた。


 捧げて空中に浮かべた天の衣は、空中に留まって、自ら回転した。


 諸々の天人達は、幾百、幾千、幾万種類もの「伎楽」、「音楽」を空中で同時に演奏して、多数の天の華を天から雨のように降らして、このように言った。


 釈迦牟尼仏は、昔、波羅奈で、初めて、「法輪を転じた」、「法を説いた」。

 (釈迦牟尼仏は、)今、また、無上の最大の「法輪を転じた」、「法を説いた」。


 その時、諸々の天人達は、くり返し、この意義を説きたいと欲して、詩で説いて言った。


 (釈迦牟尼仏は、)昔、波羅奈で、(「苦集滅道」という)「四諦」の「法輪を転じて」、「法を説いて」、分別して「諸法」、「全てのもの」の「五衆」、「五蘊」の生、滅を説きました。

 (そして、釈迦牟尼仏は、)今、また、最も妙なる無上の大いなる「法輪を転じました」、「法を説きました」。

 この法は、とても奥深いです。

 信じることが可能な者は少ないでしょう。

 私達(、諸々の天人達)は、昔から、しばしば、世尊(、釈迦牟尼仏)の説を聞いてきました。

 (しかし、)このような深く妙なる「上法」、「優れた法」は未だかつて聞いたことがありませんでした。

 世尊(、釈迦牟尼仏)が、この法を説いてくれたので、私達(、諸々の天人達)は皆、喜んでいます。

 大いなる智慧がある舎利弗が、今、尊い「受記」、「仏に成る予言を受けること」を得ました。

 私達(、諸々の天人達や、法華経を聞く耳がある者達)も、また、(舎利弗と)同様に、必ず、まさに、一切世間で最も尊い者である無上である、仏に成れます。

 仏道を思考で推測するのは難しいです。

 (仏道は、)「方便」、「便宜的な方法」の、「随宜の」、「相手に応じた」説です。

 今の生や過去の生で私達(、諸々の天人達)が所有している幸福をもたらす善業と、仏にまみえた功徳をことごとく仏道に回向し(て自他が悟ることができるように助け)ます。


 その時、舎利弗は、釈迦牟尼仏に言いました。


 世尊(、釈迦牟尼仏)よ、私(、舎利弗)は、今は、更なる疑いや後悔は無いです。

 釈迦牟尼仏の前で、親しく、「受記」、「仏に成る予言を受けること」を得ました。

 この諸々の千二百人の心が自在な者達(、阿羅漢達)は、昔、「学地」、「学ぶことがいまだある境地」にいました。

 釈迦牟尼仏は、(昔、阿羅漢達を)常に教化して言いました。

 私、釈迦牟尼仏の法によって、「生老病死」を離れることが可能であるし、「涅槃」、「寂静の無上の境地」を「究竟する」、「究める」ことが可能である。


 これらの「(有)学」や「無学」の段階の人達も、また、各自、(誤った)「我見」、「私見」と(誤った)「有無」、「存在と無」の見解などを離れることで「涅槃」、「寂静の無上の境地」を会得したと(誤って)思っています。

 しかし、今、世尊(、釈迦牟尼仏)の前で、未だ聞いたことがなかった所を聞いて、皆、疑惑に堕ちてしまっています。

 (しかし、実は、疑惑は、真理を知る、きっかけとして、)善いことです。

 世尊(、釈迦牟尼仏)よ、願わくば、「四衆」、「出家者の男女と在家信者の男女」のために、その「因縁」、「理由」を説いて、疑いや後悔から離れさせてあげてください。


 その時、釈迦牟尼仏は、舎利弗に告げた。


 私(、釈迦牟尼仏)は、先ほど、言わなかったか? いいえ! 言った!

 諸仏が種々の因縁、譬喩、「言辞」、「言葉遣い」、「方便」、「便宜的な方法」で法を説くのは皆、「阿耨多羅三藐三菩提」、「無上普遍正覚」のためではないか? はい! 「無上普遍正覚」のためである!

 この諸仏の所説は皆、菩薩を教化するためのものなのである。(声聞と独覚も実は菩薩の一員なのである。)

 しかも、舎利弗よ、今、まさに、また、例え話で、さらに、この意義を明らかにしよう。

 諸々の智慧が有る者は、例え話で、理解することができ得る。

 舎利弗よ、仮に、ある国の、ある地方の、ある集落に、大金持ちがいるとする。

 (大金持ちは、)その年を取って行っていて、衰えて行っている。

 財産、富は量り知れないほど無数である。

 「田宅」、「家と土地」と諸々の「僮僕」、「少年の下僕」を多数、有している。

 その家は、広大で、門が一つだけ有る。

 百人、二百人、または、五百人の多数の諸々の人達が、その家の中にいる。

 その高く立派な家は、古くて老朽化して、牆壁が崩落して、「柱根」、「柱の基礎」が腐敗して、(要となる)はりむねが傾いて危険である。

 外縁部に、同時に、たちまち火が起こって、家を焼いている。

 十人、二十人、あるいは、三十人に至る、金持ちの諸々の子達は、この家の中にいる。

 金持ちは、四方から起こった、この大火事を見て、大いに驚き怖れて、このように思った。

 私(、金持ち)は、この焼かれている家の門から安穏として脱出することができ得る。

 しかし、諸々の子達は、火事の家の中で、戯れることを楽しんで執着して、(火事を)覚知できていないし、驚き怖れていない。

 火が来て、身に迫って、自己が切に苦しんで痛くても、心は、うれえないで、いとわないで、(火事の家を)脱出しようと思うことを求めない。


 舎利弗よ、この金持ちは、このように思った。


 私(、金持ち)の身、手には力が有って、(子達の)衣のすそを引っぱって、または、いくつかの案によって、まさに、(火事の)家から、この子達を脱出させるべきである。


 (金持ちは、)また、さらに、思った。


 この家は、門が一つだけで、狭くて細い。

 諸々の子達は、幼稚で、「識」、「理解」が未だ無くて、戯れを恋い慕って執着して、もしかしたら、火に焼かれる羽目に陥ってしまうかもしれない。

 私(、金持ち)は、まさに、子達のために、おそろしい事、この家が既に焼かれている事を説いて、(火事の家から)速やかに脱出するべき時である事を説いて、火に焼かれて害を受けないようにさせよう。


 (金持ちは、)このように思い終わると、思った通りに、全てを、諸々の子達に告げた。

 あなた達(、子達)よ、速やかに脱出しなさい。


 父(である金持ち)は、(子達を)思いやって、善い巧みな言葉で、勧誘して、さとした。

 しかし、諸々の子達は、戯れを楽しんで執着して、(父の言葉に)従わないで、信じて受け入れないで、驚かないで、おそれないで、(火事の家を)脱出しようと思わなかった。

 また、(子達は、)火とは何か? 家とは何か? どうして失うとなすのか? と知らず、ただ、右へ左へ、さまよって奔走して、戯れて、父を見てまなかった。


 その時、金持ちは、このように思った。


 この家は既に大きな火に焼かれている。

 私(、金持ち)と諸々の子達は、もし(火事の家を)脱出しない時は、必ず、焼かれてしまう。

 私(、金持ち)は、今、まさに、「方便」、「便宜的な方法」を設けて、諸々の子達に、この害から免れることを得させよう。


 父(である金持ち)は、諸々の子達が優先して心で各々好む所の物である種々の珍しい玩具おもちゃ、珍しい物、心情で必ず楽しんで愛着する所の物を知ることにした。


 そして、(金持ちは、子達に)告げて、このように言った。


 あなた達が好む所の物で、希有で、得るのが難しくて、あなた達が、もし取らなければ、後で、必ず、憂えて後悔するような、種々の羊車、鹿車、牛車が、今、門の外にあって、それらで遊び戯れるべきである。

 あなた達、この火事の家を、まさしく、速やかに、脱出してくるべきである。

 あなた達が欲する所に従って、皆、まさに、あなた達に与えよう。


 その時、諸々の子達は、父の所説の珍しい玩具について聞くと、(自身の、)その願いに適うので、各々の心は勇猛で鋭敏に成って、相互に押しのけ合って、競って走り合って、競争して火事の家を脱出した。


 この時、金持ちは、諸々の子達が安穏として(火事の家を)脱出することができ得て皆「四衢」、「十字路」の道の中の露地に坐って障害が無いのを見て、(金持ちの、)その心は泰然として歓喜して踊躍した。


 その時、諸々の子達は、各々、父に言った。


 父よ、先ほど許してくれた、玩具の羊車、鹿車、牛車を願わくば、今、与えてください。


 舎利弗よ、その時、金持ちは、諸々の子達の各々に、等しく、同一の大いなる車を与えた。

 その車は、高く、広い。

 多数の宝で荘厳に組み合わされている。

 「欄楯」、「柵」が、めぐらされている。

 四面には鈴が懸けられている。

 また、その(車の)上には、「幢旛」と「天蓋」が張られている。

 また、この車は、珍しい多数の宝の組み合わせで、荘厳に飾られている。

 宝の縄がからんでいる。

 諸々の華の「瓔珞」、「ひも状の飾り」が垂らされている。

 「綩」、「赤い布」と「綖」、「黒い布で包まれた正方形の板」が重ねて敷かれている。

 赤い枕が安置されている。

 皮膚の色が綺麗な、体の形が美しい好い、大きな筋力が有る、歩行が正しい、風のように速い、白い牛が車を引く。

 また、多数の従僕が、この車のそばで仕えて護衛する。


 (白い牛の車を与えた)理由は何か? (と言うと、)


 この金持ちは、財産、富が量り知れないほど無数で、種々の宝庫、蔵が、ことごとく皆、(宝で)みちあふれていたので、このように思った。


 私の財宝は、無限である。

 まさに、劣った車を諸々の子達に与えるべきではない。

 今、これらの幼子は皆、私の子である。愛には、かたよりが無い。

 私には、このように「七宝」、「七種類の宝」の大いなる車があって、その(車の)数は量り知れないほど無数で、まさに、平等な(愛の)心で、各々(の幼子)に、この車を与えよう。

 差別は、よくない。

 理由は、何か? (と言うと、)

 私の、この車を一国(の国民の皆)に、あまねく与えても、なお、不足しない。

 どうして、諸々の(幼)子達に与えないことがあるだろうか? いいえ! 諸々の(幼)子達に与える!


 この時、諸々の子達は、各々、大いなる車に乗って、(心が)未曾有になることを得たが、もとの望んでいた所の物ではなかった。


 舎利弗よ、あなたは、どう思うか?

 この金持ちは、諸々の子達に、等しく、珍しい宝の大いなる車を与えた。

 「虚妄」、「空虚で妄りなこと」であるのか? 「空虚で妄りなこと」ではないのか?


 舎利弗は、言った。

 いいえ。(「空虚で妄りなこと」ではないです。)

 世尊(、釈迦牟尼仏)よ、この金持ちが、諸々の子達に火事という災難を免れることを得させて身の命を保全させただけでも、「虚妄」、「空虚で妄りなこと」ではないのです。

 なぜか?

 もし身の命を保全すれば、「(身の命という)好い玩具を既に得た」となすからです。

 まして、また、「方便」、「便宜的な方法」で、火事の家から、この子達を抜け出させて(苦しみから)救済しています。

 世尊(、釈迦牟尼仏)よ、もし、金持ちが、最も小さなものである(羊)車、一台すら(幼子に)与えなくても、なお、「虚妄」、「空虚で妄りなこと」ではないのです。

 なぜか?

 金持ちは、先に、このように思いました。

 私(、父である金持ち)は、「方便」、「便宜的な方法」で、子に脱出させることを得させよう。と。


 このため、「虚妄」、「空虚で妄りなこと」ではないのです。

 まして、金持ちは、財産、富が量り知れないほど無数であると自ら知っていて、諸々の子達に利益をもたらそうと欲して、大いなる車を等しく与えました。


 釈迦牟尼仏は、舎利弗に告げました。


 善いかな。

 善いかな。

 あなた(、舎利弗)の言葉は。

 舎利弗よ、如来(、仏)も、また、同様なのである。

 仏は、一切の「世間」、「世界」の父となっている。

 諸々のおそれ、衰え、悩み、うれい、(心や智慧の)無明、暗さを永遠に余すこと無くなくし尽くしている。

 無量の、知見、力、畏れる所が無いことをことごとく成就している。

 大いなる神通力、および、知力を有している。

 「方便」、「便宜的な方法」、智慧の「波羅蜜」、「到達」、大いなる思いやりを「具足している」、「十分に備えている」。

 常に怠ること無く「善事」、「善行」を探求している。

 一切のものに利益をもたらしている。

 古くて老朽化している、火事の家である三界に(人として)生まれて、「衆生」、「生者」を「生老病死」、憂い悲しみ苦悩、愚かさ、(心や智慧の)暗さ、「三毒」の火から仏土へ渡すために、教化して、「阿耨多羅三藐三菩提」、「無上普遍正覚」を得させる。


 諸々の「衆生」、「生者」を見ると、「衆生」、「生者」は、「生老病死」、憂い悲しみ苦悩に焼かれ煮られている。

 また、財産や利益への(五感への)「五欲」のせいで、種々の苦しみを受けている。

 また、貪欲に執着して追い求めるせいで、現在では多数の苦しみを受けて、(死)後には地獄、畜生、餓鬼の苦しみを受けている。

 または、天上に生まれて、および、人の間に存在して、貧困で困窮して苦しんだり、愛するものとの離別に苦しんだり、怨み憎んでいる人と会って苦しんだり、これらのように種々に諸々に苦しんだりしている。

 (しかし、)「衆生」、「生者」は、その苦しみの中に沈没して、この三界という火事の家に、歓喜して、遊び戯れて、覚知しないで、驚かないで怖れないで、また、いとわないで、解脱を求めないで、右へ左へ、さまよって奔走して、大いなる苦しみに出会っても、うれいとしない。


 舎利弗よ、仏は、これを見終わると、このように思った。


 私(、仏)は、「衆生」、「生者」の父となっている。

 まさに、その苦難から抜け出させて、無量、無限の仏の智慧による安楽を与えて、その安楽に遊戯させよう。


 舎利弗よ、如来(、仏)は、また、このように思った。


 もし私(、仏)が、ただ神通力、および、知力によって、「方便」、「便宜的な方法」を捨てて、諸々の「衆生」、「生者」のために、如来(、仏)の知見、力、畏れる所が無いことを讃えたら、「衆生」、「生者」が仏土へ渡ることを得るのは不可能であろう。

 理由は何か? (と言うと、)

 この諸々の「衆生」、「生者」は、「生老病死」、憂い悲しみ苦悩を未だ免れていないので、三界という火事の家に焼かれているからである。

 どうして仏の智慧を理解可能であろうか? いいえ! 仏の智慧を理解不能である!


 舎利弗よ、例え話の金持ちが、身、手に力を有していても、これを用いずに、ただ慇懃な「方便」、「便宜的な方法」につとめて、諸々の子達を火事の災難から救済して、その後、各々に珍しい宝の大いなる車を与えたように。

 如来(、仏)も、また、同様なのである。

 (仏は、)力、畏れる所が無いことを有していても、これを用いずに、ただ智慧、「方便」、「便宜的な方法」によって、三界という火事の家から「衆生」、「生者」を抜け出させて救済するために、「声聞乗、『辟支仏乗』、『独覚乗』、仏乗」という「三乗」(という三つの段階)を(別個のように)説くのである。


 そして、(仏は、)このように言う。


 あなた達、三界という火事の家を楽しんで留まることなかれ。

 「麤弊な」、「粗末な」(、幻である「この世」の)「色声香味触」を貪ることなかれ。

 もし貪欲に執着して愛着を生じてしまえば、焼かれるはめになってしまう。

 あなた達、三界を速やかに脱出して、まさに、「声聞乗、『辟支仏乗』、『独覚乗』、仏乗」という「三乗」(という三つの段階)を会得しなさい。


 私(、釈迦牟尼仏)は、今、あなた達のために、この事(、法華経)を保持させて任せた。

 (釈迦牟尼仏は、)終に、空虚には(、だましたり)しなかったことになる。

 あなた達、ただ、まさに、精進につとめて修行しなさい。


 如来(、仏)は、この(「三乗」という)「方便」、「便宜的な方法」で、「衆生」、「生者」を勧誘して精進させる。


 また、釈迦牟尼仏は、このように言った。


 あなた達は、まさに、知るべきである。

 この「三乗」という法は、全て、聖者によって称歎されるのであるし、自由自在で「繋がれない」、「束縛されない」し、すがりつく所が必要無い物である。

 「乗」、「乗り物」、「『火宅』、『火事の家』の例え話の車」とは、「三乗」なのである。

 「無漏の」、「煩悩の無い」、五根、五力、七覚支、八正道、禅定、解脱、三昧などによって、自ら楽しんで、無量の安穏、快楽を得ることができる。


 舎利弗よ、もし、ある「衆生」、「生者」が内に知性が有って、仏により、法を聞いて、信じて受け入れて、慇懃に精進して、三界を速やかに脱出したいと欲して、自ら「涅槃」、「寂静の無上の境地」を求めたら、

この人を「声聞乗」(、「声聞の段階の人」)と名づける。

 例え話の諸々の子達が、羊車を求めて、「火宅」、「火事の家」を脱出するような物なのである。


 もし、ある「衆生」、「生者」が、仏により、法を聞いて、信じて受け入れて、慇懃に精進して、「自然慧」、「自然に得られる智慧」を求めて、独りの善い寂静を楽しんで、「諸法」、「全てのもの」の「因縁」、「原因と繋がり」を深く知ったら、

この人を「辟支仏乗」(、「独覚の段階の人」)と名づける。

 例え話の諸々の子達が、鹿車を求めて、「火宅」、「火事の家」を脱出するような物なのである。


 もし、ある「衆生」、「生者」が、仏により、法を聞いて、信じて受け入れて、精進につとめて修行して、「一切智」、「一切の智慧」、「仏智」、「仏の智慧」、「自然慧」、「自然に得られる智慧」、「無師智」、「師がいなくても得られる知」、如来(、仏)の知見、力、畏れる所が無いことを求めて、量り知れないほど多数の「衆生」、「生者」を思いやって安楽にさせて、天人に利益をもたらして、一切のものを仏土へ渡して解脱させたら、

この人を「大乗」(、「菩薩の段階の人」)と名づける。

 菩薩は、この「大乗」を求めるので、「摩訶薩」、「大いなる(生)者」と名づける。

 例え話の諸々の子達が、牛車を求めて、「火宅」、「火事の家」を脱出するような物なのである。


 舎利弗よ、例え話の金持ちは、諸々の子達が、安穏として「火宅」、「火事の家」を脱出することができ得て、畏れる必要が無い所に到達したのを見て、財産、富が量り知れないほど無数であることを自ら思って、大いなる車を諸々の子達に等しく与えた。

 如来(、仏)も、また、同様なのである。

 (如来、仏は、)一切の「衆生」、「生者」の父となっている。

 幾千人、幾億人の量り知れないほど多数の「衆生」、「生者」が、仏教という門によって、三界という苦しい、おそろしい危険な道を脱出して、「涅槃」、「煩悩が寂滅した境地」の安楽を得るのを見て、

その時、このように思った。


 私(、仏)には、無量、無限の智慧、力、畏れる所が無いこと等の諸仏の「法」、「物」が有る。

 この諸々の「衆生」、「生者」は皆、私(、仏)の子なのである。

 「大乗」を等しく与えよう。

 (正しい)人が独りで(孤立して)「滅度」、「死」を得ることが無いようにしよう。

 (正しい人が)皆、如来(、仏)の「滅度」、「悟りの境地」で、この肉体を「滅度する」、「死ぬ」ようにさせよう。

 この諸々の「衆生」、「生者」、三界からの脱出者に、諸仏の禅定、解脱などの娯楽の道具をことごとく与えよう。

 (諸仏の禅定などは、)全て、唯一の相、唯一の種類で、聖者に称歎される所の物で、清浄な妙なる「第一の」、「無上の」安楽を生じることが可能である。


 舎利弗よ、例え話の金持ちが、最初は三種類の車で諸々の子達を誘惑して引き寄せて、その後、宝物で荘厳に飾られた、安穏な「第一の」、「無上の」、大いなる車だけを与えたように。

 しかも、例え話の金持ちには、「虚妄の」、「空虚に妄りに、だました」、「咎」、「罪」が無いように。

 如来(、仏)も、また、同様なのである。

 (仏は、)「虚妄」、「空虚に妄りに、だますこと」が無い。

 最初は「三乗」と説いて「衆生」、「生者」を仏道に引き入れて導いて、その後、「大乗」だけで、三界という「火事の家」から仏土へ渡して脱出させるのである。

 なぜか?

 如来(、仏)には、無量の智慧、力、畏れる所が無いこと、「諸法」、「全てのもの」の蔵が有って、一切の「衆生」、「生者」に「大乗」の法を与えることが可能で、受け取って無くし尽くすことが不可能なのである。

 舎利弗よ、このため、まさに、知るべきである。

 諸仏は、「方便」、「便宜的な方法」の力のため、唯一の「仏乗」を三つ(の段階)に分別して(別個であるかのように)説くのである。


 釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を説きたいと欲して、詩で説いて言った。


 例えば、金持ちに一つの大きな家が有るような物なのである。

 その家は、古くて、壊れて脆弱になっている。

 「堂舎」、「大小の家の部分」が、危険性が高い。

 「柱根」、「柱の基礎」は、壊れたり、老朽化したりしている。

 (要となる)はりむねは、傾斜している。

 階段は、壊れている。

 牆壁は、倒れたり、裂けたりしている。

 泥の塗装は、はがれ落ちている。

 草で編んだ建物の覆いは、壊れて落ちている。

 椽、梠は、くいちがったり、抜けたりしている。

 周囲の障壁は、屈曲している。

 雑多な汚れが、充満している。

 五百人の人がいて、その中に留まっている。


 トンビ

フクロウ

タカ

ワシ

カラス

カササギ

ハト

鴿ドバト

イモリ

ヘビ

マムシ

サソリ

蜈蚣ムカデ

蚰蜒ゲジゲジ

守宮ヤモリ

百足ムカデ

イタチ

タヌキ

ハツカネズミ

ネズミ

といった諸々の悪い害獣、害虫が、縦横無尽に走りまわっている。

 排泄物で臭い所は、汚物が、流出して、あふれている。

 蜣蜋クソムシといった諸々の害虫が、その上に集まっている。

 キツネオオカミ野干ジャッカルが、死体の骨、肉を咀嚼して、踏みにじって、かじって、狼藉している。

 これによって、犬の群れが、競って来て、取り合って、飢えて弱って、恐れ合って、至る所で食べ物を求めて、闘争して、取って、押さえつけて、牙をむき出して、吠えている。

 その家の恐怖、異変は、このようなのである。

 至る所に、全て、「魑魅魍魎ちみもうりょう」、「化物」、(悪い)夜叉、悪い鬼がいて、人の肉を食べる。

 有毒生物類、諸々の悪い害獣が、卵をかえしたり乳で育てたりして、子を生産して、各自、隠して護っている。

 (悪い)夜叉達が、競って来て、争って、人を取って食って、既に食べ飽きると、悪心をとても熾烈にして、とても、おそるべき、闘争の音声を出す。

 (悪い、)鬼の鳩槃荼クンバンダは、硬い土に、うずくまっている。(善い鬼神クンバンダもいる。)

 ある時は、一尺、二尺、地を離れて、行き来して、めぐり、「縦逸して」、「放逸して」、たわむれている。(一尺は約三十センチメートル。)

 犬の両足をつかんだり、(犬を)なぐって黙らせたり、足で(犬の)首を踏みしめて、犬を怖がらせて楽しんでいる。

 また、諸々の(悪い)鬼がいる。

 その身長は大きい。

 裸で、黒く、痩せている。

 常に、その家の中に留まっている。

 気持ち悪い大声を発して、叫んで、食べ物(である人)を呼び求めている。

 また、喉が針のような(悪い)鬼がいる。

 また、頭が牛のような(悪い)鬼がいる。

 人の肉かイヌを食べる。

 頭の髪が、ヨモギのように茫々に乱れている。

 残忍、有害、凶悪、危険である。

 飢え渇きに逼迫されている。

 叫び、わめき、走りまわっている。

 (悪い)夜叉、餓鬼、諸々の悪い害鳥、害獣は、飢えて、急いで四方に向かって、窓からうかがってのぞき見ている。

 このような諸々の災難は、量り知れないほど、おそろしい。


 この老朽化した古い家は、一人の主に属している。

 その人が、近くに、出かけた。

 家を後にして未だ久しくない間に、たちまち四方から火が起こって、一時で同時に、その火は熾烈になった。

 むねはり、椽、柱が、爆発音をだして、震えて、裂けて、折れて、墜落した。

 牆壁は、崩壊して倒れた。

 諸々の(悪い)鬼神などは、声をあげて大絶叫した。

 タカワシといった諸々の鳥、(悪い)鳩槃荼クンバンダなどは、あまねく、驚いて、おそれて、自ら家を出ることが不能である。

 悪い害獣、有毒生物は、穴々に隠れた。

 毘舎闍ピシャーチャという(悪い)鬼も、また、その家の中にいて、幸福をもたらす功徳が少ないせいで、火に逼迫されて、共に残忍に殺害して、血を飲み、肉を食べている。

 野干ジャッカルなど、並びに、以前、死んだ諸々の大きい悪い害獣が競って来て、食べている。

 臭い煙がヨモギのように四方に充満して立ち込めている。

 蜈蚣ムカデ蚰蜒ゲジゲジ、毒蛇などが、火に焼かれて、争って穴から走って出ている。

 (悪い、)鬼の鳩槃荼クンバンダは、「随意に」、「思うがままに」、取って食べている。

 また、諸々の餓鬼は、頭上で火が燃えて、飢え渇き、熱に悩まされて、あまねく驚いて、もだえて、走っている。

 この家は、このように、とても、おそるべき物なのである。

 毒の害、火災といった多数の災難で、一つの災難だけではないのである。


 この時、家主は、門の外にいて、ある人の言葉を立って聞いた。


 あなた(、家主、金持ち)よ、諸々の子達は、「先から」、「以前から」、遊び戯れているせいで、この家に来て入っていて、幼くて無知で、喜んで楽しんで執着してしまっている。


 金持ちは、聞き終わると、驚いて、火事の家に入って、まさに、まさしく、救済して、焼かれないように害を受けないようにさせようと、諸々の子達に、次のように、告げて、さとして、説いた。


 多数の災難。

 悪い鬼。

 有毒生物。

 火災の蔓延。

 多数の苦しみの、状況と、あいついで絶えないこと。

 毒蛇。

 イモリ

 マムシ

 および、諸々の(悪い)夜叉。

 (悪い、)鬼の鳩槃荼クンバンダ

 野干ジャッカル

 キツネ

 イヌ

 タカ

 ワシ

 トンビ

 フクロウ

 百足ムカデたぐい

 飢え渇きの悩みが急激であること。

 とても、おそるべきであること。

 この家が苦難の場所であること。

 まして、大火事が起こっていること。


 諸々の子達は、無知で、父の教えを聞いてもなお、戯れを楽しんで執着してめなかった。


 この時、金持ちは、このように思った。


 諸々の子達は、このように、私(、金持ち)の愁い悩みをましてしまっている。

 今、この家には、楽しむべき物は一つも無いのに。

 しかし、諸々の子達は、戯れに溺れて、私(、金持ち)の教えを受け入れないので、まさに、火の害をうけてしまうであろう。


 (金持ちは、)諸々の「方便」、「便宜的な方法」を設けようと思い、諸々の子達に告げた。


 私(、金持ち)には、種々の珍しい玩具、妙なる宝の好い車、羊車、鹿車、大いなる牛の車が有って、今、門の外にある。

 あなた達(、子達)よ、(火事の家から)出て来なさい。

 私(、金持ち)は、あなた達(、子達)のために、この車をつくった。

 「随意に」、「思うがままに」、楽しみなさい。

 車でもって、遊び戯れなさい。


 諸々の子達は、(金持ちによって)これらの諸々の車が説かれるのを聞いて、即座に、競争して、走って、(火事の家を)出て、諸々の苦難を離れたき地に到達した。


 金持ちは、子達が火事の家を出ることができ得て「四衢」、「十字路」にいるのを見て、「獅子座」、「仏の座」に坐って、自ら喜んで、言った。


 私(、金持ち)は、今、喜んでいる。

 この諸々の子達は、生育が、とても難しく、愚かで未熟で無知で、多数の諸々の有毒生物、おそるべき「魑魅ちみ」、「化物」、大火、猛烈な火が四方から同時に起こっている、危険な家に入ってしまっていた。

 そして、この諸々の子達は、戯れを貪って楽しんでしまっていた。

 私(、金持ち)は、この諸々の子達を既に救って、災難から脱出させることができ得た。

 このため、皆、私(、金持ち)は、今、喜んでいるのである。


 その時、諸々の子達は、父が安らかに坐しているのを知って、皆、父の所へ行って、父に言った。


 願わくば、私達に、前に許してくれた、三種類の宝の車を与えてください。

 (父は、)「諸々の子達よ、(火事の家から)出てきなさい。まさに、三種類の車は、あなた達の欲する所にかなう」(と言ってくれました。)

 今が、まさに、この時です。

 与えてください。


 金持ちは、大いに富んでいる。

 宝庫には、多数の金、銀、瑠璃るり硨磲しゃこ碼碯めのうを所蔵している。

 多数の宝物で、諸々の大いなる車を造った。

 (車は、多数の宝で)荘厳に組み合わされている。

 (多数の宝物で)荘厳に飾られている。

 「欄楯」、「柵」が、めぐらされている。

 四面には鈴が懸けられている。

 黄金の縄がからんでいる。

 真珠の網が、その車の上に張られている。

 黄金の華の諸々の「纓」、「ひも状の飾り」が所々に垂らされている。

 多数の、模様や色が施された絹織物が、組み合わされて飾られて、めぐらされている。

 柔軟な、絵が描かれたひもで作られた敷物がある。

 上質な妙なる繊細な、幾千、幾億の価値の、あざやかな白い、清潔な、毛織物の敷物が、その上を覆っている。

 筋骨隆々で、力が強い、体の形が美しい好い、大いなる白い牛がいて、宝の車を引く。

 多数の従者が、この車のそばで仕えて護衛する。


 (父は、)この妙なる車を諸々の子に等しく与えた。


 諸々の子達は、この時、歓喜して、心が踊躍して、この宝の車に乗って、四方をめぐって、戯れて、自由自在に障害無く喜んだ。


 (私、釈迦牟尼仏は、)舎利弗に告げる。


 私(、仏)も、また、同様なのである。


 (仏は、)多数の聖者の中で最も尊い。

 (仏は、)「世間」、「世界」の父である。

 一切の「衆生」、「生者」は皆、私(、仏)の子である。

 (「衆生」、「生者」は、)俗世の快楽に深く執着している。

 (多数の「衆生」、「生者」は、)智慧、(正しい)心が無い。

 三界は、安らぎが無くて、火事の家のようですらある。

 多数の苦しみが、充満している。

 とても、おそるべき物なのである。

 常に、「生老病死」、うれいが有る。

 これらの、火のような物が、熾烈で、休息することが無い。

 如来(、仏)は、火事の家である三界を既に離れて、静かに、林や野に、安らかに、処している。

 今、この三界は皆、私(、仏)の所有物なのである。

 その三界の中の「衆生」、「生者」は、ことごとく、私(、仏)の子なのである。

 今、ここ(、三界)は、諸々の災難が多く、私(、仏)一人だけが救って護ることが可能なのである。

 (しかし、ありのままの真実を生者に)教えても、信じて受け入れない。

 (なぜなら、生者は、)諸々の欲に染まって貪欲に深く執着しているからである。

 このため、「方便」、「便宜的な方法」で、生者のために、「三乗」を説いて、諸々の「衆生」、「生者」に三界が苦しみであることを知らせて、三界という「世間」、「世界」を脱出する道を開示して演説するのである。

 この諸々の子達は、もし心が定まれば、三明および六神通を「具足して」、「十分に備えて」、「縁覚」、「独覚」、不退転の菩薩となり得る。

 あなた、舎利弗よ、私(、仏)は、「衆生」、「生者」のために、この例え話によって、唯一の仏乗を説く。

 あなた達は、もし、この話を信じて受け入れることが可能であれば、一切、皆、まさに、仏道を成就することができ得る。

 この仏乗は、微細で絶妙で、清浄で、諸々の世界で第一で、無上で、仏に喜ばれる物で、一切の「衆生」、「生者」に称讃されて供養されて礼拝される物である。

 幾千、幾億の量り知れないほど無数の諸々の力、解脱、禅定、智慧、および、仏の他の「法」、「物」は、この仏乗で、得られる。

 諸々の子達に、日夜、劫のように長い間、常に、諸々の、菩薩乗、および、声聞乗、この宝の仏乗と遊戯させることを得させて、ぐに、「道場」、「修行」に至らせる。

 このため、十方で、求めても、仏乗以外の乗は更に無いのである。ただし、仏の「方便」、「便宜的な方法」は除く。

 (私、釈迦牟尼仏は、)舎利弗に告げる。

 あなた、あなた達は、皆、私(、仏)の子である。

 私(、仏)は、父である。

 あなた達は、劫を重ねて、多数の苦しみに焼かれていたが、

私(、釈迦牟尼仏)は、皆、救済して、抜け出させて、三界を脱出させた。

 私(、釈迦牟尼仏)は、「先に」、「以前」、「あなた達は『滅度した』、『仏の悟りの境地を得た』」と説いたが、

しかし、生死(をくり返す原因)をなくし尽くすことができただけで、実は、「滅(度)していないのである」、「仏の悟りの境地を得ていないのである」。

 今、まさに、なすべきなのは、仏の智慧(を得ること)だけなのである。

 もし、この集まっている者達の中に、菩薩(の段階の生者)がいるのであれば、諸仏の真実の法を一心に聴くことが可能である。

 諸仏は、「方便」、「便宜的な方法」で教化するといえども、教化された「衆生」、「生者」は皆、菩薩(の段階の者)なのである。


 もし人が智慧が未熟で、欲に深く執着して愛着していれば、この人達のために、(仏は、)「苦諦」を説く。

 「衆生」、「生者」の心は、喜んで、未曾有になることを得る。

 仏の説である「苦諦」は、真実と異なることが無い(、真実である)。


 もし、ある「衆生」、「生者」が、苦しみのもとを知らないで、苦しみの原因に深く執着して、(貪欲、執着を)一時も捨てることが不可能であれば、この生者達のために、「方便」、「便宜的な方法」で、諸々の苦しみの原因(である執着、貪欲)を説いて言う。貪欲(、執着)を(苦しみの)もととなす。


 もし、貪欲(、執着)を滅ぼせば、すがりつくものが無くなって、諸々の苦しみを滅ぼし尽くすことができる。これを「第三諦」(、「滅諦」)と名づける。


 「滅諦」のために、「八正道」、「道諦」を修行すれば、諸々の苦しみの束縛から離れることができる。これを(「道諦」、)「解脱」と名づける。


 この人は、何で、解脱を得ているのか?

 「虚妄」、「空虚で妄りなこと」を離れているだけなのに、「解脱」と名づけてしまって、「解脱」としてしまっている。

 しかし、実は、(真実の)一切の解脱を未だ得ていないのである。

 仏は、「この人は、実は、『滅度』、『仏の悟りの境地』を未だ得ていないのである」と説く。

 (なぜなら、)この人は、無上の仏道を未だ会得していないからである。

 私(、仏)は、(生者をこの生だけで)「滅度」、「仏の悟りの境地」に至らせようと思っていない。

 私(、仏)は、法の王である。

 (私、仏は、)法において、自由自在である。

 (私、仏は、)「衆生」、「生者」を安穏にさせたいのである。

 そのため、(私、仏は、)この世に出現するのである。

 あなた、舎利弗よ、私(、仏)の、この法の印は、世界に利益をもたらしたいと欲するために、説かれているのである。

 所在地、めぐっている先で、(法華経を)妄りに説いて伝えるなかれ。

 もし、ある聞いた者が、喜んで、頂戴して受持したら、まさに、知るべきである、この人は、「阿鞞跋致」、「仏に成ることが予定されている不退転の菩薩」である。と。

 もし、この(法華)経の法を信じて受け入れた者がいれば、この人は過去の諸仏を既に、かつて見たことがあって、恭しく敬って、供養したことになるのである。

 また、この(法華経の)法を聞いて、あなた(、舎利弗)の所説を信じることができた人がいれば、私(、釈迦牟尼仏)と、あなた(、舎利弗)、および、出家者、僧、並びに、諸々の菩薩を見たことに成るのである。

 この法華経は、智慧深い者のために、説かれている。

 理解が浅はかな者は、この法華経を聞いて、迷惑して、理解できない。

 一切の声聞、および、「辟支仏」、「独覚」は、この法華経の中には、力が及ばないのである。

 あなた、(智慧が最も優れている)舎利弗ですらなお、この法華経には、信じることによってのみ、入ることができ得たほどなのである。

 まして、他の声聞も、信じることによってのみ、法華経に入ることができ得る!

 他の声聞も、仏の話を信じたために、この法華経に従うことができたのである。自己の智慧によって法華経の分け前を得たわけではないのである。


 また、舎利弗よ、思い上がって、怠けて、「計我する」、「我見する」、「誤った私見に執着する」者に、この法華経を説くなかれ。

 浅はかな、(五感への)五欲に深く執着している凡人は、聞いても、理解不能なので、この者のために、(法華経を)説くなかれ。


 もし人が、この法華経を信じないで、悪口を言ったら、一切世間の、仏となるための種を断とうとしたことになってしまうのである。

 また、人が法華経を不快に感じて顔をしかめて疑惑を懐けば、一切世間の、仏となるための種を断とうとしたことになってしまうのである。


 あなた(、舎利弗)よ、まさに、(私、仏の)説を聴くべきである。


 このような人達の罪の報い、

仏の存命中に、または、仏の肉体の死後に、

この(法華経の)ような経典の悪口を言ったり、

法華経を読んだり法華経を受持したりしている者を見て、見下したり、憎んだり、嫉妬したり、恨んだりしたら、

このような人達の罪の報いは、

あなた(、舎利弗)よ、今、聴くべきである、

このような人達は、命が終わったら、一劫もの長い間、無間地獄に入ることになってしまう。

 一劫を過ぎても、更に、この無間地獄のような場所に生まれて、転々として、無数の劫に至ることになってしまう。

 地獄から出られても、イヌ野干ジャッカルのような動物的な者になってしまう。

 その姿形は、禿げて、痩せて、赤黒く、皮膚病で人に触られて悩まされる。

 また、人になれても、劣悪な下賤な場所に生まれて、常に、貧困で、飢え渇き、骨肉は干からびて、生きているときは激しい苦痛を受け、死んだときは(死体に)瓦や石を投げられる。

 仏となる種を断とうとしたため、このような罪の報いを受けるのである。

 もし馲駝ラクダ驢馬ロバに生まれても、身に常に重いものを負うはめになって、諸々に杖で叩かれて、ただ飲食物のことだけを思って、他のものを知ることができない。

 この法華経の悪口を言ったために、このような罪を得てしまったのである。

 野干ジャッカルとなって(人の)集落に来て入ったら、身体に皮膚病をわずらっているし片目が無いため、諸々の児童に叩かれて、諸々の苦痛を受けて、時には、死んでしまう。

 (ジャッカルとして)死に終わると、更に大蛇の身を受けてしまう。

 その姿形は、長く、大きく、五百由旬である。

 耳が聞こえず、愚かで、足が無く、もがいて転ぶように腹をすって行くために諸々の小さな生物に食べられて、昼夜に苦しみを受けて休息できるときが無い。

 この法華経の悪口を言ったために、このような罪を得てしまったのである。


 もし、人になれても、諸々の「根」、「能力」が、暗く鈍い。

 (背などが、)短い。

 (地位などが、)いやしい。

 手足が動かない。

 目が見えないし、耳が聞こえない。

 背が曲がっている。

 何か言っても、他人は信じてくれないし、受け入れてくれない。

 口の息が常に臭い。

 悪い鬼、悪い「魅」、「化物」に粘着されてしまう。

 貧困で困窮する。

 (地位などが)下賤なために、他人に、こき使われてしまう。

 多病で、頭痛持ちで、痩せている。

 頼れるものが無い。

 他人に近づいても、他人は意に介しない。

 もし所得が有っても、すぐに失ってしまう。

 もし医術を修得して、正しい手順、方法で病を治そうとしても、更に他の病を増やしてしまうか、死に至らしめてしまう。

 もし自身に病が有っても、治して救ってくれる人はいないし、良い薬を服用しても病の重さを劇的に増やしてしまう。

 他人に反逆されたり、盗まれたり、脅されたりしてしまう。

 これらの罪の報いが、横並びになって、災いをもたらす。

 このような罪人は、長い間、諸々の聖者の王である仏、説法、教化に出会えない。

 このような罪人は、常に、苦難がある場所に生まれて、狂って、聞く耳をもたず、心が乱れて、ガンジス河の砂の数のように長い間、仏法を聞くことができない。

 生まれても、いつでも、耳が聞こえず、口がきけず、諸々の「根」、「能力」が備わっていない。

 (死後は、)園、見晴らし台で遊ぶように、常に、地獄にいる。

 (死後は、)自分の家のように、地獄以外の「悪道」にいる。

 ラクダロバイノシシイヌが、その人達が行き着く場所である。

 この法華経の悪口を言ったために、このような罪を得てしまっているのである。


 人になれても、耳が聞こえず、目が見えず、口がきけない。

 貧困で困窮する。

 諸々の衰えで自身を荘厳に飾るはめになる。

 水腫むくみ、乾燥、頭痛、皮膚病、腫れといった病を衣服とするはめになる。

 身が常に臭く、あか、汚れで汚れている。

 「我見」、「誤った私見」に深く執着する。

 怒りを増してしまう。

 性欲が熾烈なほど盛んで、相手の動物を選ばないほどである。

 この法華経の悪口を言ったために、このような罪を得てしまっているのである。


 (私、釈迦牟尼仏は、)舎利弗に告げる。

 この法華経の悪口を言う者の罪を、もし説いたら、劫を尽くしても、言い尽くすことができないほどなのである。

 このため、私(、釈迦牟尼仏)は、あなた(、舎利弗)に告げる。

 無知な人達の中で、この法華経を説くなかれ。


 もし利発で智慧が明らかで博覧強記で仏道を求める者がいれば、このような人のために、(法華経を)説きなさい。

 もし人が幾百、幾千、幾億の仏達に、かつてまみえて諸々の善のもととなる善行を種のように植えて、信心深くて堅固ならば、このような人のために、(法華経を)説きなさい。

 もし人が精進して常に修行して、思いやり深くて、身の命を惜しまなければ、このような人のために、(法華経を)説きなさい。

 もし人が恭しく敬って、雑念が無くて、諸々の全ての愚かさを離れて、山の谷川に独りで処していれば、このような人のために、(法華経を)説きなさい。

 また、舎利弗よ、もし人が邪悪な師を捨てて、善知識を持つ人々に親しみ近づいているのを見たら、このような人のために、(法華経を)説きなさい。

 もし仏の弟子が、清浄な光明に輝く宝玉のように清浄に戒を保持して、大乗経を求めているのを見たら、このような人のために、(法華経を)説きなさい。

 もし人が怒らず、性質が正直で柔軟で、常に一切のものを思いやって、諸仏を恭しく敬っていれば、このような人のために、(法華経を)説きなさい。

 もし仏の弟子が、集まっている者達の中で、清浄な心、種々の因縁、譬喩、「言辞」、「言葉遣い」で、障害を物ともせず、法を説いていれば、このような人のために、(法華経を)説きなさい。

 もし出家者が、一切智のために、四方で法を求めて、大乗経を合掌して頂戴して受持して、大乗経の受持を楽しんで、大乗経以外の経を一つの詩すら受け入れなければ、このような人のために、(法華経を)説きなさい。

 人が真心で「仏舎利」、「仏の遺骨」を求めて、このようにして大乗経を求めて、大乗経を既に頂戴して受持したら、大乗経以外の経を求めず、また、未だかつて外道の書籍を求めなければ、このような人のために、(法華経を)説きなさい。


 (私、釈迦牟尼仏は、)舎利弗に告げる。


 私(、仏)が、仏道を求める者の相を説いたら、劫を尽くしても、言い尽くすことができない。

 これらのような人達は、法華経を信じて理解可能である。

 あなた(、舎利弗)は、まさに、これらのような人達のために、妙法華経を説きなさい。

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