法華経 方便品

 その時、世尊、釈迦牟尼仏は、三昧から安らかに「つまびらかに」、「はっきりと」起きて、舎利弗に告げた。


 諸仏の智慧は、とても奥深く量り知れない。

 その智慧の門は、理解が難しいし、入るのが難しい。

 一切の「声聞」と「辟支仏」、「独覚」は知る事が不能な所なのである。

 どういう事か? (と言うと、)

 仏は、かつて、幾百、幾千、幾万、幾億の無数の諸仏に親しみ近づいている。

 (仏は、)諸仏の量り知れない仏道、仏法をことごとくおこなっている。

 (仏は、)勇猛果敢に精進している。

 (仏は、)名称が、あまねく聞こえる(ほど、正しい言動をしている)。

 (仏は、)とても深い未曾有の仏法を成就していて、相手に応じて説かれているが、(仏ではない者には)仏法の意趣は理解が難しいのである。

 舎利弗よ、私(、釈迦牟尼仏)は、仏と成ってから今まで、種々の因縁、種々の譬喩で、言葉で仏の教えを広く演説してきた。

 (釈迦牟尼仏は、)無数の「方便」、「便宜的な方法」で、「衆生」、「生者」を仏道へ引き入れるために導いて、諸々の執着を離れさせた。

 どういう事か? (と言うと、)

 如来(、仏)は、方便、知見の「波羅蜜」、「到達」を皆すでに「具足している」、「十分に備えている」。

 舎利弗よ、如来の知見は広大で深遠である。

 量り知れない「無礙の」、「さまたげの無い」力、おそれる所が無い事、禅定、解脱、三昧(が如来には有る)。

 (如来は、)「無際」、「無限」へ深く入って、一切の未曾有の仏法を成就している。

 舎利弗よ、如来は、能く種々に分別できて、巧みに「諸法」、「全てのもの」を説く。

 (如来は、)「言辞」、「言葉遣い」が柔軟で、「衆生」、「生者」の心を喜ばせる事が可能である。

 舎利弗よ、「要を取って」、「要約して」、これらを言うと、

 量り知れない「無辺」、「無限」の未曾有の仏法を、仏は、ことごとく成就している。

 止めよう。舎利弗よ、これ以上、説くべきではない。

 その理由は何か? (と言うと、)

 仏が成就している所の、第一の、稀有の、(仏ではない者には)理解が難しい仏法とは、仏と仏だけが能く究め尽くす事ができる、「諸法」、「全てのもの」の実の相なのである。

 (「諸法」、「全てのもの」の実の相とは、)いわゆる、

「諸法」、「全てのもの」の、

ありのままの相、

ありのままの性質、

ありのままの実体、

ありのままの力、

ありのままの作用、

ありのままの原因、

ありのままの「縁」、「つながり」、

ありのままの結果、

ありのままの報い、

ありのままの「本末究竟等」、「最初から最後までの全てのものは究極的に唯一普遍である事」、

等である。


 その時、世尊、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を説きたいと欲して、詩で説いて言った。


 「世雄」、「仏」は、(厳密には)量り知る事が不可能である。

 諸々の天人、および、世の人々、一切の「衆生類」、「生者」に、(厳密には)仏を知る事が可能な者はいない。

 仏の、力、おそれる所が無い事、解脱、諸々の三昧、および、仏の諸々の残りの「法」、「物」を、(厳密には)推測して量る事が可能な者はいない。

 (仏は、)もとより、無数の仏に従って、諸々の仏道修行を十分に備えている。

 とても奥深い微妙な仏法は、見る事が難しいし、「了解」、「理解」する事が難しい。

 無量億劫に、この諸々の仏道修行を修行し終わって(、ようやく)、道場で成果を得る事ができる。

 私(、釈迦牟尼仏)は既に、ことごとく知見している。

 ありのままの大いなる結果と報い、種々の性質と相の意義。私(、釈迦牟尼仏)、および、十方の仏は能く、この事を知っている。

 (厳密には、)この仏法は示す事が不可能である。言葉という相が「寂滅している」、「絶えている」。(厳密には、仏法は言い表す事ができない。)

 (仏ではない)諸々の他の「衆生類」、「生者」は(厳密には仏法を)理解できない。

 (ただし、)諸々の菩薩達のうち、信じる力が堅固な者は除く。

 諸仏の弟子達のうち、かつて諸仏を供養して、一切の「漏」、「汚れ」、「煩悩」を既に無くし尽くして、「最後身に住んでいる」、「輪廻転生しない」。このような諸々の人らの、その力でも、(厳密には仏法は理解)できない所の物なのである。

 仮に、たとえ、世間に満ちている者が皆、(智慧第一の)舎利弗のようで、思いを尽くして、共に、推測しても、(厳密には)仏の智慧は推測が不可能なのである。

 たとえ、十方に満ちている者が皆、(智慧第一の)舎利弗のようで、さらに、(舎利弗の)他の諸々の弟子もまた十方の国に満ちて、思いを尽くして、共に、推測しても、また、(厳密には仏の智慧は)知る事が不可能なのである。

 「辟支仏」、「独覚」のうち、智慧が鋭利で、「漏」、「汚れ」、「煩悩」が無く、「最後身である」、「輪廻転生しない」(者が)、また、十方の世界に満ちて、その数が竹林のように成って、これらの者が、共に、一心に、幾億もの無量劫、仏の真実の智慧を知りたいと思っても、(厳密には)少しも知る事ができないのである。

 新たに「発意した」、「発心した」、「悟りを求める事を思い立って心した」菩薩のうち、無数の仏を供養して、諸々の意義、意趣の「了解」、「理解」に到達して、また、善く説法できる者が、いねあさ、竹、あしのように十方の国に充満して、一心に、妙なる智慧で、「恒河沙の」、「ガンジス川の砂のように無数の」劫、ことごとく皆、共に、思量しても、(厳密には)仏の智慧は知る事が不可能なのである。

 不退転な諸々の菩薩が、その(人)数が「恒(河)沙のように」、「ガンジス川の砂のように無数に」成って、一心に、共に、思い求めても、また、(厳密には仏の智慧は)知る事が不可能なのである。

 また、舎利弗に告げる。

 「無漏の」、「汚れない」、不思議な、とても奥深い微妙な仏法を私(、釈迦牟尼仏)は今すでに「具し得ている」、「備え得ている」。

 (厳密には)私(、釈迦牟尼仏)だけが、この(真実の)相を知っている。十方の仏もまた、そうなのである。

 舎利弗よ、まさに、知るべきである。

 諸仏の言葉(同士)は、異なる事が無い。

 仏が説いている所の法へ、まさに、大いなる信じる力を生じるべきである。

 世尊、仏は、(「方便」、「便宜的な方法」の)法を久しく説いた後で、必ず、まさに、真実を説く。

 諸々の声聞達、および、「縁覚乗」、「独覚乗」を求める者達に告げる。

 私(、釈迦牟尼仏)は、苦しみへの束縛から解脱させて、涅槃をとらえさせたが、(釈迦牟尼)仏は「方便」、「便宜的な方法」の力で、そうさせたのである。

 (釈迦牟尼仏は、)「三乗教」、「三乗に分けた教え」で(仏教を)「衆生」、「生者」に示して、「処々の」、「あれこれの」執着から、この生者を引き寄せて、生者を(執着から)出させた。


 その時、大衆の中に、諸々の声聞、「漏」、「汚れ」、「煩悩」を無くし尽くした阿羅漢、阿若 憍陳如、等、千二百人、および、声聞や「辟支仏」、「独覚」を求める事を思い立って心した者、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷がいて、各々このように思った。


 今、世尊、釈迦牟尼仏は、なぜ、慇懃に「方便」、「便宜的な方法」をほめたたえて、このように言うのか?

 「仏が得ている所の仏法は、とても奥深く、(仏ではない者には)理解が難しい。言葉で説いている所の仏法は、意趣が、(仏ではない者には)知る事が難しい。(厳密には、仏法は、)一切の声聞、『辟支仏』、『独覚』が及ぶ事ができない所の物なのである」と。

 (釈迦牟尼)仏は、「一解脱義」、「唯一の解脱させる教え」(である唯一の仏法)を説いた(はずである)。

 私達(、釈迦牟尼仏の弟子達)もまた、この仏法を得て、涅槃に到達した(はずである)。

 しかし、(私達、釈迦牟尼仏の弟子達には、)今、この「義」、「教え」、「仏法」が(本当に)意味する所「を知る事ができない」、「が分からない」。


 その時、舎利弗は、「四衆」の心にある疑いを知って、また、(舎利弗)自身も未だ「了解」、「理解」できなくて、仏に言った。


 世尊、釈迦牟尼仏は、どんな「因縁」、「理由」で、慇懃に、諸仏の第一の「方便」、「便宜的な方法」をほめたたえるのですか?

 とても奥深い微妙な(仏ではない者には)理解が難しい仏法を、私(、舎利弗)は、昔から今まで未だかつて、釈迦牟尼仏から、このように説かれたのを聞いた事が有りません。

 今、「四衆」は、ことごとく皆、疑いを持っています。

 ただ願わくば、世尊、釈迦牟尼仏よ、この事を「敷演してください」、「詳しく説明してください」。

 世尊、釈迦牟尼仏は、なぜ、慇懃に、とても奥深い微妙な(仏ではない者には)理解が難しい仏法をほめたたえるのですか?


 その時、舎利弗は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で言った。


 「慧日大聖尊」である釈迦牟尼仏は、久しくしてから、このように仏法を説いた。

 (釈迦牟尼仏は、)自ら「ありのままの力、おそれが無い事、三昧、禅定、解脱、等の不可思議の法を会得している」と説いた。

 (釈迦牟尼仏が)道場で会得した法について、質問できる者はいません。

「私(、釈迦牟尼仏)の心は、(仏ではない者には)推測する事が難しい」

 またも、質問できる者はいません。

 (釈迦牟尼仏は、)質問されなくても、自ら、修行している所の仏道を説いて、ほめたたえている。

 (釈迦牟尼仏は、)「諸仏が得ている所の智慧は、とても微妙である」(と言った。)

 「漏」、「汚れ」、「煩悩」を無くした諸々の阿羅漢、および、涅槃を求めている者は、今、皆、疑いというあみに堕ちてしまっている。

 釈迦牟尼仏は、なぜ、このように説いたのですか?

 「縁覚」、「独覚」を求めている者、比丘、比丘尼、諸々の、天人、龍、鬼神、および、乾闥婆、等は、相互に見合って、ためらいを懐き、「両足尊」である釈迦牟尼仏を見上げています。

 これらは、どういう事なのですか?

 願わくば、釈迦牟尼仏よ、(私達、釈迦牟尼仏の弟子達の)為に、解説してください。

 釈迦牟尼仏は「諸々の声聞達において舎利弗は(智慧が)第一である」と説いた。(しかし、)

 私は今、自ら、智慧において、疑い、まどい、「了解」、「理解」できません。

 「このような物が究極の仏法である」とすのですか?

 「このような物が修行している仏道である」とすのですか?

 釈迦牟尼仏の口(の言葉)から生まれた所の子(である釈迦牟尼仏の弟子)は合掌して、(釈迦牟尼仏を)見上げて、(釈迦牟尼仏の説明を)待っています。

 願わくば、微妙な音声を出して、時に、(釈迦牟尼仏の弟子達の)為に、「如実に」、「真実のままに」、説いてください。

 諸々の天人、龍神、等は、その数が「恒(河)沙のよう」、「ガンジス川の砂のように無数」です。

 仏に成る事を求めている諸々の菩薩は、(人)数が多くて、八万人います。

 また、幾万、幾億の諸国の転輪聖王が到来しています。

 (これらの者達は、)合掌して、敬う心をもって、釈迦牟尼仏が「具足している」、「十分に備えている」仏道を聞きたいと欲しています。


 その時、釈迦牟尼仏は、舎利弗に告げた。


 止めよう。

 止めよう。

 これ以上、説くべきではない。

 もし、この事について説明すれば、一切世間の諸々の天人、および、人々は皆、まさに、驚いて疑ってしまうだろう。


 舎利弗は、くり返し、釈迦牟尼仏に言った。


 世尊、釈迦牟尼仏よ、ただ願わくば、この事について説明してください。

 ただ願わくば、この事について説明してください。

 その理由は何か? (と言いますと、)

 この会の、幾百、幾千、幾万、幾億、幾阿僧祇の無数の「衆生」、「生者」は、かつて諸仏を見た事が有って、「諸根」、「諸々の能力」が盛んで鋭利で、智慧が「明了」、「聡明」です。

 (この会の「生者」は、)釈迦牟尼仏の所説を聞けば、敬い信じる事ができます。


 その時、舎利弗は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で言った。


 法王、無上尊、釈迦牟尼仏よ、ただ願わくば、説いて、遠慮する事なかれ。

 この会の量り知れないほど無数の「衆生」、「生者」には、敬い信じる事ができる者がいます。


 釈迦牟尼仏は、また言った。


 止めよう。

 舎利弗よ、もし、この事について説明すれば、一切世間の天人、人、阿修羅は皆、まさに、驚いて疑ってしまうだろう。

 「増上慢の」、「悟っていないのに『悟った』と思い上がっている」比丘は、まさに、大きな穴に落ちてしまう。


 その時、世尊、釈迦牟尼仏は、くり返し、詩で説いた。


 止めよう。

 止めよう。

 説明するべきではない。

 私(、釈迦牟尼仏)の仏法は微妙で(仏ではない者には)思量が難しい。

 諸々の「増上慢の」、「悟っていないのに『悟った』と思い上がっている」者は、聞けば、必ず、敬わなく成ってしまって信じなく成ってしまう。


 その時、舎利弗は、くり返し、釈迦牟尼仏に言った。


 世尊、釈迦牟尼仏よ、ただ願わくば、この事について説明してください。

 ただ願わくば、この事について説明してください。

 今、この会の中に、私(、舎利弗)のようなたぐいの者が、幾百、幾千、幾万、幾億いて、すでに、かつて、仏に従って、教化を受けています。

 これらの人、等は、必ず、敬って信じて、「長夜に」、「迷いという、夜明けまでが長い夜に夜通しで」安らかに穏やかに成って、多くの利益が得られます。


 その時、舎利弗は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で言った。


 無上の「両足尊」、釈迦牟尼仏よ、願わくば、第一の法を説いてください。

 私は釈迦牟尼仏の(仏法の)「長子」、「長男」で(ある、と言えま)す。

 分別して説く釈迦牟尼仏の慈悲を垂らしてくださるだけで良いのです。

 この会の量り知れないほど無数の者達は、その法を敬って信じる事ができます。(なぜなら、)

 釈迦牟尼仏は既に、かつて、生から生へ、このような者らを教化している(実績が有ります)。

 皆、一心に、合掌して、釈迦牟尼仏の言葉を聴いて受け入れたいと欲しています。

 私、等、千二百人もいます。また、仏に成る事を求めている他の者達もいます。

 願わくば、これらの者達の為に、分別して説く釈迦牟尼仏の慈悲を垂らしてくださるだけで良いのです。

 これらの者達は、その法を聞いて、大いなる喜びを(心に)生じます。


 その時、世尊、釈迦牟尼仏は、舎利弗に告げた。


 あなた(、舎利弗)は既に慇懃に三度も教えを請うてくれた。

 どうして説かない事ができるだろうか? いいえ!

 あなた(、舎利弗)は今、明らかに聴きなさい。

 善く、これについて「思念」、「思考」しなさい。

 私(、釈迦牟尼仏)は、まさに、あなた(、舎利弗)の為に、分別して解説しよう。


 釈迦牟尼仏が、これらの言葉を説いた時に、会の中に、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人、等がいて、座から起って、釈迦牟尼仏に礼してから、退出してしまった。

 その理由は何か? (と言うと、)

 これらの輩は、罪が深く重くて、また、「増上慢で」、「悟っていないのに『悟った』と思い上がっていて」、(悟りを)未だ得ていないのに「(悟りを)得た」と言ってしまって、(悟りを)未だ証していないのに「(悟りを)証している」と言ってしまっていた。

 (これらの輩には、)このような過失が有った。

 このため、(釈迦牟尼仏の法華経を聞くために、)留まらなかった。


 世尊、釈迦牟尼仏は、沈黙して、制止しなかった。


 その時、釈迦牟尼仏は、舎利弗に告げた。


 私(、釈迦牟尼仏)の、今の、この者達は、「枝葉が無い」、「外れていない」。

 清純で、「貞実さ」、「誠実さ」が有る。

 舎利弗よ、あれらのような「増上慢な」、「悟っていないのに『悟った』と思い上がっている」人が、「退亦佳矣」、「退出するのは、また、い」。

 あなた(、舎利弗)は、今、善く聴きなさい。

 まさに、あなた(、舎利弗)の為に、説こう。


 舎利弗は言った。


 「はい」と言うだけです。

 世尊、釈迦牟尼仏よ、聞きたいと願います。


 釈迦牟尼仏は、舎利弗に告げた。


 諸仏、如来は時に、このような妙なる法を説くが、優曇鉢華が(三千年に一度だけ、)時に一度だけ現れるような物なのである。

 舎利弗よ、あなた達は、まさに、信じなさい。

 仏は所説で「虚妄」、「空虚でみだりな事」を言わない。

 舎利弗よ、諸仏が相手に応じて説く法の意趣は(仏ではない者には)理解が難しい。

 どういう事か? (と言うと、)

 私(、釈迦牟尼仏)は、無数の「方便」、「便宜的な方法」、種々の因縁、譬喩、言葉で、「諸法」、「全てのもの」を説く(からである)。

 この仏法は(厳密には)思量分別で理解できる所の物ではない。

 諸仏だけが、これを知る事ができる。

 どういう事か? (と言うと、)

 諸仏世尊は、唯一の一大事の「因縁」、「理由」のため、世に出現する。

 舎利弗よ、どういった事を「諸仏世尊は、唯一の一大事の『因縁』、『理由』のため、世に出現する」(の「唯一の一大事の理由」)と名づけているのか? (と言うと、)

 諸仏世尊は、「衆生」、「生者」に仏の知見を開かせて、清浄に成らせたいので、世に出現する。

 (諸仏は、)「衆生」、「生者」に仏の知見を示したいので、世に出現する。

 (諸仏は、)「衆生」、「生者」に仏の知見を悟らせたいので、世に出現する。

 (諸仏は、)「衆生」、「生者」に仏の知見への道へ入らせたいので、世に出現する。

 舎利弗よ、このため、諸仏は、唯一の一大事の「因縁」、「理由」のため、世に出現する。


 釈迦牟尼仏は、舎利弗に告げた。


 諸仏、如来は、菩薩を教化するだけである。(諸仏は菩薩だけを教化する。声聞と独覚は実は既に菩薩の一員なのである。声聞と独覚は菩薩として仏に成る事を目指す必要が有る。)

 (諸仏の)諸々の「所作」、「おこない」は常に「一事」、「一大事」の為なのである。

 (諸仏は、)仏の知見を「衆生」、「生者」に示して、悟らせたいだけなのである。

 舎利弗よ、如来は、唯一の「仏乗」、「仏に成る道」によって、「衆生」、「生者」の為に、仏法を説く。

 「仏乗」、「仏に成る道」の他の「乗」、「道」は「二乗」も「三乗」も(実は)無いのである。(声聞乗、独覚乗は実は仏乗の一部なのである。声聞と独覚は実は既に菩薩の一員なのである。声聞と独覚は菩薩として仏に成る事を目指す必要が有る。)

 舎利弗よ、一切の十方の諸仏の仏法もまた、同様なのである。

 舎利弗よ、過去の諸仏も、量り知れないほど無数の「方便」、「便宜的な方法」、種々の因縁、譬喩、言葉で、「衆生」、「生者」の為に、「諸法」、「全てのもの」を説く。

 この(過去の諸仏の)仏法も皆、「(一)仏乗」の為なのである。

 この(過去の諸仏の)諸々の「衆生」、「生者」も、諸仏に従って、仏法を聞いて、究めて、皆、「一切種智」を得た。

 舎利弗よ、未来の諸仏もまた、まさに、世に出現して、量り知れないほど無数の「方便」、「便宜的な方法」、種々の因縁、譬喩、言葉で、「衆生」、「生者」の為に、「諸法」、「全てのもの」を説く。

 この(未来の諸仏の)仏法も皆、「(一)仏乗」の為なのである。

 この(未来の諸仏の)諸々の「衆生」、「生者」も、仏に従って、仏法を聞いて、究めて、皆、「一切種智」を得る。

 舎利弗よ、現在の、十方の、幾百、幾千、幾万、幾億の無量の仏土の中の、諸仏世尊は、「衆生」、「生者」に多くの利益をもたらして安楽にさせている。

 この(現在の)諸仏もまた、量り知れないほど無数の「方便」、「便宜的な方法」、種々の因縁、譬喩、言葉で、「衆生」、「生者」の為に、「諸法」、「全てのもの」を説く。

 この(現在の諸仏の)仏法も皆、「(一)仏乗」の為なのである。

 この(現在の諸仏の)諸々の「衆生」、「生者」も、仏に従って、仏法を聞いて、究めて、皆、「一切種智」を得る。

 舎利弗よ、この(過去、現在、未来の)諸仏は、菩薩を教化するだけである。(諸仏は菩薩だけを教化する。声聞と独覚は実は既に菩薩の一員なのである。声聞と独覚は菩薩として仏に成る事を目指す必要が有る。)

 仏の知見を「衆生」、「生者」に示したいと欲するからである。

 仏の知見を「衆生」、「生者」に悟らせたいと欲するからである。

 「衆生」、「生者」を仏の知見への道へ入らせたいと欲するからである。

 舎利弗よ、私(、釈迦牟尼仏)もまた、今、同様なのである。

 諸々の「衆生」、「生者」に種々の欲、心の奥深くの執着している所のものが有るのを知って、その本性に応じて、種々の因縁、譬喩、言葉、方便する力で、(生者の)為に、仏法を説いている。

 舎利弗よ、これは皆、「(一)仏乗」と、一切種智を得させる為なのである。

 舎利弗よ、十方の世界の中には「二乗」すら無い。

 まして、「三乗」が有るだろうか? いいえ! 「三乗」は無い!

 舎利弗よ、諸仏は、「五濁」の悪世に出現する。

 (「五濁」とは、)いわゆる、「劫濁」、「煩悩濁」、「衆生濁」、「見濁」、「命濁」である。

 このように、舎利弗よ、「劫濁」の乱れている時代では、「衆生」、「生者」は、「垢」、「汚れ」、「煩悩」が重く、物惜しみしてしまい貪欲で、嫉妬深く、諸々の「不善根」、「悪業」を成就してしまう。

 このため、諸仏は、方便する力で、「(一)仏乗」を(三つに)分別して、「三乗」と説く。

 舎利弗よ、もし、私(、釈迦牟尼仏)の弟子のうち、「(私は)阿羅漢である」とか「(私は)『辟支仏』、『独覚』である」と自ら言っている者が、「諸仏、如来は菩薩を教化するだけである」事を聞かないか、知らないならば、この者は、仏の弟子ではないし、阿羅漢ではないし、「辟支仏」、「独覚」ではない。

 また、舎利弗よ、この諸々の比丘、比丘尼が、「(私は)既に阿羅漢と成った。『最後身である』、『輪廻転生しない』。涅槃を究めた」と自ら言って、また、「阿耨多羅三藐三菩提」、「無上普遍正覚」を志して求めなければ、この輩は皆、「増上慢な」、「悟っていないのに『悟った』と思い上がっている」人である、と、まさに、知るべきである。(阿羅漢、声聞、独覚は菩薩として仏に成る事を目指す必要が有る。)

 その理由は何か? (と言うと、)

 もし、比丘が実に阿羅漢に成っているならば、回避する場所が無いように、この法を信じないはずが無い。

 (ただし、)仏の「滅度」、「肉体の死」の後、現前に、仏がいない場合を除く。

 その理由は何か? (と言うと、)

 仏の「滅度」、「肉体の死」の後、このような(法華)経、等を受け入れて保持したり、読んだり、その意義を理解したりする者は得難いのである。

 もし他の仏に会えば、この法の中で、決定的に「了解」、「理解」でき得る。

 舎利弗よ、あなた達は、まさに、一心に、信じて理解して、仏の言葉を受け入れて保持しなさい。

 諸仏、如来は「虚妄」、「空虚でみだりな事」は言わない。

 他の乗など存在しない。

 唯一、「仏乗」、「仏に成る道」しかない。(声聞も独覚も菩薩として仏に成るしかないのである。)


 その時、世尊、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を説きたいと欲して、詩で説いた。


 比丘、比丘尼に、「増上慢」、「悟っていないのに『悟った』という思い上がり」を懐いている者がいる。

 優婆塞に、「我慢」、「自分を特別視する思い上がり」を懐いている者がいる。

 優婆夷に、不信心者がいる。

 このような「四衆」等は、その人数が五千人いて、その過失を自ら見ないで、戒において「欠漏」、「手落ち」が有って、その瑕疵かしを護り惜しんでしまっている。

 このような矮小な智慧の者達は既に退出した。

 (この者達は、)会衆の中の「糟糠」、「かす」、「無価値な者」である。

 (この者達は、)仏の威徳のおかげで、去っていった。

 この人達は、幸福をもたらす「徳」、「善行」が少なくて、この法を受け入れる事に耐えられない。

 (しかし、)あなた達は、「枝葉が無い」、「外れていない」し、諸々の「貞実さ」、「誠実さ」だけが有る。

 舎利弗よ、善く聴きなさい。

 諸仏は、所得している仏法を、量り知れない方便する力で、「衆生」、「生者」の為に、説く。

 「衆生」、「生者」の、心の「所念」、「思考」、種々の仏道修行している所の物、諸々の欲と性質、先の前世の善業と悪業を、仏は、ことごとく知り終わると、諸々の因縁、譬喩、言葉、方便する力で、一切の生者を喜ばせる。

 あるいは、(仏は、)

修多羅または契経、

伽陀または諷頌、および、

伊帝曰多伽または本事、

闍陀伽または本生、

阿浮陀達磨または「未曾有」、また、

尼陀那または「因縁」、

阿波陀那または「譬喩」、

祇夜または重頌、

優婆提舎または「論議」、

という九部経または九分教を説く。

 「鈍根の」、「智慧などがにぶい」者は、「小法」、「矮小なもの」を願ってしまい、生死に貪欲に執着してしまい、量り知れないほど無数の諸仏の下で妙なる仏道を深く修行しないで、多くの苦しみに悩まされ乱されてしまう。(仏は、)この者の為に、涅槃を説く。

 私(、釈迦牟尼仏)は、この(涅槃という)「方便」、「便宜的な方法」をもうけて、(生者を)仏の智慧に入らせる。

 「あなた達は、まさに、『仏道を成就する』、『仏に成る』」と(私、釈迦牟尼仏は)未だかつて説かなかった。

 未だかつて説かなかった理由は、説くべき時が未だ至らなかったからなのである。

 今が、まさに、(あなた達が仏に成る事を予言する、)その時なのである。

 (あなた達が仏に成る事を予言する事を)決定して、大乗経を説いた。

 私(、釈迦牟尼仏)は、この九部法を、「衆生」、「生者」に応じて、説いた。

 (九部法は、)「大乗」へ入る為の本と成るからである。

 このため、この(法華)経を説いている。

 仏の弟子のうち、心が清浄で柔軟で、または、「利根」、「智慧などが利発」で、量り知れないほど無数の諸仏の所で妙なる仏道を深く修行している者、このような諸々の仏の弟子の為に、(仏は、)この大乗経を説く。

 私(、釈迦牟尼仏)は、「このような人は来世に『仏道を成就する』、『仏に成る』」と「(授)記する」、「仏に成る事を予言する」。

 「深心」、「信心深い心」で、「念仏し」、「仏について思考し」、修行を保持し、清浄に戒を守るからである。

 このような者達は、「仏に成る事ができ得る」と聞くと、大いなる喜びが「遍身」、「体中」にちる。

 仏は、彼らの心と行いを知っているので、大乗経を説く。

 (真の)声聞、もしくは、(真の)菩薩は、私(、釈迦牟尼仏)が説いている所の仏法を、一つの詩だけでも、聞けば、皆、仏に成る事は疑う余地が無い。

 十方の仏土の中には、(「仏乗」という)一乗の仏法だけが有って、唯一無二、また、無三である。(ただし、)仏の「方便」、「便宜的な方法」の説を除く。

 (「声聞乗」、「独覚乗」という「仏乗」の一部分につけた)仮の名前で、「衆生」、「生者」を仏道へ引き入れるために導いただけなのである。(なぜなら、)仏の智慧を説くためである。

 諸仏は、世に出現するのは、この唯一の事実の為なのである。(「声聞乗」、「独覚乗」という)他の二つは真実ではない(と言える)。

 最終的には、「小乗」では「衆生」、「生者」を救済して仏土へ渡さない。

 仏も自ら「大乗」に住んでいる。

 (仏は、)その会得している仏法のように、定、慧、力を荘厳にして、「衆生」、「生者」を仏土へ渡す。

 (仏は、)自ら、無上の仏道、「大乗」の平等の仏法を証している。

 もし、一人でも「小乗」だけで教化してしまえば、私(、釈迦牟尼仏)は物惜しみして貪欲である事に成ってしまうが、そのような事はしてはいけないのである。

 もし、人が信じて仏に帰依すれば、如来は「欺誑しない」、「空虚には、だまさない」。

 また、(仏は、)貪欲や嫉妬する心が無く、「諸法」、「全てのもの」の中の悪を断っている。このため、仏は、十方で、独りだけ唯一、おそれる所が無い。

 私(、釈迦牟尼仏)は、相で身を荘厳にして、光明で世間を照らして、量り知れないほど無数の者達に尊敬されて、(生者の)為に、(真)実の相の印を説く。

 舎利弗よ、まさに、知るべきである。

 私(、釈迦牟尼仏)はもとより「一切の『衆生』、『生者』を私(、釈迦牟尼仏)と同じような仏にしたい」という誓願を立てている

 私(、釈迦牟尼仏)の昔の誓願は今すでに満ち足りている。

 (私、釈迦牟尼仏は、)一切の「衆生」、「生者」を教化して、皆、「仏道」、「仏への道」へ入らせた。

 もし、私(、釈迦牟尼仏)が「衆生」、「生者」に会って、仏道を(三乗に分けないで、)ことごとく皆に教えたら、智慧が無い者は錯乱して、迷い惑って、仏教を受け入れなかっただろう。

 (次のように、)私(、釈迦牟尼仏)は知っているのである。

 このような(無知な)「衆生」、「生者」は、未だかつて、「善本」、「善行」を修行していないのである。

 (無知な生者は、)「五欲」、「五感の欲望」に堅く執着してしまっている。

 (無知な生者は、)「痴愛」、「盲目的な執着」のせいで悩みを生じてしまっている。

 (無知な生者は、)諸々の欲という因縁のせいで、「三悪道」、「地獄、餓鬼、畜生」に堕ちてしまう。

 (無知な生者は、)「六趣」、「六道」の中を輪廻転生して、全ての場所で、諸々の苦しみという毒を受けてしまっている。

 「受胎している」、「はらんでいる」かすかな形は、「世から世へ」、「生から生へ」、常に増上、成長する。

 「徳」、「善行」が少なくて幸福が少ない人は、多くの苦しみで逼迫されている。

 (善行が少ない人は、)「有」、「存在」または「無」等への邪悪な見解の「稠林」、「盛んに起こる煩悩」へ入ってしまって、この諸々の邪悪な見解を「依止してしまって」、「頼ってしまって」、「六十二見」を「具足してしまって」、「備えてしまって」、「虚妄な法」、「空虚なみだりなもの」に深く執着してしまって、堅く受け入れてしまって、捨てる事ができない。

 (善行が少ない人は、)「我慢してしまって」、「自分を特別視して思い上がってしまって」、自分だけで、おごり高ぶってしまう。

 (善行が少ない人は、)こびへつらってしまって自分を曲げてしまって、心が不実である。

 (善行が少ない人は、)幾千、幾万、幾億劫、仏という名前を聞かない。

 また、(善行が少ない人は、)正しい法を聞かない。

 このような人は仏土へ渡すのが難しい。

 このため、舎利弗よ、私(、釈迦牟尼仏)は、(善行が少ない人の)為に、「方便」、「便宜的な方法」をもうけて、諸々の、苦しみを無くし尽くす道を説くが、涅槃によって、苦しみを無くす道を示す。

 私(、釈迦牟尼仏)は、涅槃を説くといえども、この涅槃もまた真の「滅」ではない。

 (なぜなら、)「諸法」、「全てのもの」はもとより常に自然に「寂滅」の相だからである。

 仏の弟子は、仏道を修行し終わると、来世で仏に成る事ができ得る。

 私(、釈迦牟尼仏)には、方便する力が有って、三乗に分けた仏法を開示する。

 (しかし、実は、)一切の諸世尊は皆、一乗の仏道を説いているのである。

 今、あなた達、諸々の大衆は皆、まさに、疑いや惑いを除いたはずである。

 諸仏の言葉(同士)は異ならない。

 唯一無二の仏乗だけなのである。

 過去の無数劫の、量り知れないほど無数の「滅度した」、「肉体が死んだ」仏は、その(人)数が、幾百、幾千、幾万、幾億で量り知る事が不可能である。

 このような諸世尊は、種々の因縁、譬喩、無数の方便する力で、「諸法」、「全てのもの」を説く。

 この諸世尊らは皆、一(仏)乗の仏法を説いて、量り知れないほど無数の「衆生」、「生者」を、教化して、「仏道」、「仏への道」へ入らせた。

 また、諸大聖主(である諸仏)は、一切世間の天人、人、「群生類」、「生者」の心の奥深くの欲を知っている。

 さらに、(諸仏は、)異なる「方便」、「便宜的な方法」で、第一の意義を助けて顕現させた。

 もし、「衆生類」、「生者」が諸々の過去の仏に会う事が有って、仏法を聞いて、布施し、はずかしめを忍耐し、精進し、禅、智慧、等、幸福をもたらす「徳」、「善行」を種々に修行していたら、このような諸々の人、等は皆すでに仏道を成就している。

 諸仏の「滅度」、「肉体の死」の後、もし、人の心が善で柔軟であれば、このような諸々の「衆生」、「生者」は皆すでに仏道を成就している。

 諸仏の「滅度」、「肉体の死」の後、「舎利」、「仏の遺骨」を供養する者が、幾万、幾億の塔を建てて、「金と、銀と、『頗梨』、『水晶』と、『硨磲』、『シャコ貝の貝殻』と、瑪瑙と、『玫瑰』、『現在では謎の、赤い宝石』と、真珠」(という「七宝」)で、清浄に広く荘厳に飾って、諸々の塔を荘厳にしたら、

あるいは、石や、「栴檀」、「白檀という香木」や、沈(水)香という香木や、「木櫁」、「シキミという木」や、他の木材や、瓦、泥土、等で廟を建てた事が有ったら、

もしくは、曠野の中に、土を積んで仏の廟と成したら、

または、幼子が戯れで砂を集めて仏塔にしたら、

このような諸々の人達は皆すでに仏道を成就している。

 もし、人が、仏のために、「形像」、「像」を建立して、彫刻して多数の相を形成したら、皆すでに仏道を成就している。

 あるいは、「七宝」で形成し、「鍮鉐」、「真鍮」、「黄銅」や、赤白銅や、「白鑞」、「すずか、なまりすずの合金の白目」や、なまりや、すずや、鉄や、木や、泥や、にかわや、うるしや、布で荘厳に飾って、仏像を作ったら、このような諸々の人達は皆すでに仏道を成就している。

 自ら、もしくは、人を使って、仏像の「百福荘厳相」の絵を描いたら、皆すでに仏道を成就している。

 または、幼子が戯れで、草木や、筆や、指の爪甲で、仏像の絵を描いたら、このような諸々の人達は、徐々に功徳を積んで、大いなる慈悲の心を十分に備えて、皆、既に仏道を成就して、諸々の菩薩を教化して、量り知れないほど無数の「衆生」、「生者」を仏土へ渡して解脱させる。

 もし、人が、塔廟、宝による(仏)像、(仏の)画像を、華、香、「幢旛」、「天蓋」で、敬う心で、供養したら、

もし、人を使って音楽を奏でたり、太鼓を撃ったり、角貝を吹いたり、「簫笛」、琴、「箜篌」という弦楽器、琵琶、鐃と銅鈸というシンバルを鳴らしたりして、これらの多くの妙なる音で供養したら、あるいは、喜ぶ心で、一言でも小声でも、仏の徳を歌ったら、皆すでに仏道を成就している。

 もし、人が、心が乱れていても、一本の華でも、(仏の)画像を供養したら、徐々に無数の仏を見る。

 あるいは、人が、礼拝したり、一本の手を挙げるだけでも良いので、ただ合掌したり、少し頭を下げたりして、(仏)像を供養したら、量り知れないほど無数の仏を徐々に見て、自ら無上の仏道を成就して、無数の「衆生」、「生者」を広く仏土へ渡して、薪が尽き火が消滅するように「無余涅槃」へ入る。

 もし、人が、心が乱れていても、塔廟の中へ入って、「南無、仏」と一度でも言ったら、皆すでに仏道を成就している。

 諸々の過去の仏が現に存在していた時か「滅度」、「肉体の死」の後、もし、この法を聞く事が有ったら、皆すでに仏道を成就している。

 未来の諸世尊は、その(人)数が量り知れない。

 この(未来の)諸如来達もまた、方便して仏法を説く。

 一切の諸如来は、量り知れないほど無数の「方便」、「便宜的な方法」で、諸々の「衆生」、「生者」を、仏土へ渡して解脱させて、仏の「無漏智」へ入らせる。

 もし、仏法を聞く者がいれば、仏に成らない人は一人もいない。(仏法を聞く耳が有れば、仏に成れる。)

 諸仏のもとよりの誓願とは、あまねく「衆生」、「生者」にもまた同じく私の修行している仏道を得させたいと欲する事なのである。

 未来の来世の諸仏は、幾百、幾千、幾億の無数の諸々の仏法への門を説くといえども、その実、一(仏)乗だけなのである。

 諸仏、両足尊は「『法』、『物』は常に『無(自)性』、『くう』である」と知っている。仏の種は縁によって起こる。

 このため、(仏は、)「一(仏)乗」を説く。

 この法は法の位に住んでいる。

 世間の相は「常住」、「不変」である。

 導師は、道場で、知り終わると、方便して、(仏法を)説く。

 天人、人によって供養されている、その(人)数が「恒(河)沙のようである」、「ガンジス川の砂のように無数である」、現在の十方の仏もまた、世間に出現して、「衆生」、「生者」を安らかに穏やかにさせるため、このような仏法を説く。

 (仏は、真の)第一の「寂滅」を知っている。(そのため、)方便する力で、種々の道を示すといえども、その実、「(一)仏乗」だけなのである。

 (仏は、)「衆生」、「生者」の、諸々の行い、心の奥深くの「所念」、「思考」、過去に身につけた業、欲、性質、精進する力、智慧などの諸々の能力の利発さ、または、鈍さを知っていて、種々の因縁、譬喩、言葉で、相手に応じて、方便して、(仏法を)説く。

 今の私(、釈迦牟尼仏)もまた、同じなのである。

 (私、釈迦牟尼仏も、)「衆生」、「生者」を安らかに穏やかにさせるため、種々の仏法への門によって、仏道を示す。

 私(、釈迦牟尼仏)は、智(慧)力で、「衆生」、「生者」の、性質、欲を知って、方便して、「諸法」、「全てのもの」を説いて、皆に喜びを得させる。

 舎利弗よ、まさに、知るべきである。

 私(、釈迦牟尼仏)が「仏眼」で見ると、「六道」の「衆生」、「生者」は、貧窮し、「福慧」、「幸福をもたらす徳と智慧」が無く、生死の険しい道へ入ってしまい、苦しみを相続して不断で、犛牛ヤクが尾を愛するように「五欲」、「五感の欲望」に深く執着してしまい、貪欲な執着で自身を隠蔽してしまい、心が盲目で見る目が無く、大勢の仏や苦しみを断つ仏法を求めず、諸々の邪悪な見解に深く入ってしまい、苦しみで苦しみを捨てようと欲してしまう。

 私(、釈迦牟尼仏)は、この衆生のために、大いなる慈悲の心を起こして、最初は、道場に坐して樹を観たり、「経行したり」、「坐禅の合間に歩いたり」して、二十一日間、このような事を思惟した。

「私(、釈迦牟尼仏)の得ている智慧は微妙で最も第一である。『衆生』、『生者』は、智慧などの諸々の能力がにぶくて、快楽に執着して、無知で心が盲目である。このような人等のたぐいを、どうしたら、仏土へ渡す事が可能なのか?」

 その時、諸々の梵天王、諸々の帝釈天、(護世)四天王、大自在天、他の諸々の天人達、百千万の眷属は、恭しく敬って、合掌して礼して、私(、釈迦牟尼仏)の「転法輪」、「説法」を請い願った。

 私(、釈迦牟尼仏)は、自ら、このように思惟した。

「もし、ただ仏乗をほめたたえても、『衆生』、『生者』は、苦しみに沈没していて、この仏法を信じる事ができないだろう。(生者は、)仏法を破って信じないせいで、『三悪道』、『地獄、餓鬼、畜生』へ堕ちてしまうだろう。私(、釈迦牟尼仏)は、むしろ仏法を説かないで、早く涅槃へ入ろう」

 (しかし、)すぐに、(このように思い直した。)

「過去の仏の行い、方便する力を思えば、私(、釈迦牟尼仏)は、今、得ている仏道も、まさに、三乗に分けて説くべきである」

 このように思惟した時、十方の仏が、皆、現れて、「梵音」、「仏の妙なる声」で私(、釈迦牟尼仏)を慰めて言い聞かせた。

「善きかな、『釈迦文』、『釈迦牟尼』、第一の導師よ、この無上の仏法を得て、諸々の一切の仏に従って、方便する力を用いようとするのは。私達(、十方の諸仏)もまた皆、最も妙なる第一の仏法を得て、諸々の『衆生類』、『生者』の為に、(仏乗を三つに)分別して三乗と説いている。智慧が矮小な人は、矮小な『法』、『もの』を願って、自身が仏に成れる事を信じない。このため、『方便』、『便宜的な方法』で、分別して諸々の『果』、『結果』を説いている。(しかし、)三乗と説いているといえども、ただ菩薩を教えるためなのである」

 舎利弗よ、まさに、知るべきである。

 私(、釈迦牟尼仏)は、聖獅子、仏の奥深い清浄な微妙な音を聞いて喜んで、「南無、仏」と言った。

 また、このように、思った。

「私(、釈迦牟尼仏)は、『(五)濁悪世』、『悪い時代』に出現している。諸仏が説いているように、私(、釈迦牟尼仏)もまた諸仏に従って行おう」

 (私、釈迦牟尼仏は、)この事について思惟し終わると、「波羅奈」へ趣いたのである。

 (厳密には、)「諸法」、「全てのもの」の寂滅の相は言葉で言い表す事は不可能である。

 (そのため、「波羅奈」で、私、釈迦牟尼仏は、)方便する力で、「五比丘」の為に、仏法を説いた。

 これを「転法輪」と名づけている。

 それから、「涅槃」、「阿羅漢」、「法」、「僧」という区別する名前が有るのである。

 遥か昔の劫から今まで、涅槃の法をほめたたえて示して「生死の苦しみを永遠に無くし尽くす(事ができる)」と私(、釈迦牟尼仏)は常に説いている。

 舎利弗よ、まさに、知るべきである。

 私(、釈迦牟尼仏)には、仏の弟子、等の仏道を志して求める者が、幾千、幾万、幾億の量り知れないほど無数にいて、皆、恭しく敬う心で仏の所へ到来しているが、かつて諸仏に従って「方便」、「便宜的な方法」で説かれた仏法を聞いた事が有るのが、見えている。

 私(、釈迦牟尼仏)は、このように思った。

「如来が世に出現する理由は、仏の智慧を説くためなのである。今が、まさに、その時なのである」

 舎利弗よ、まさに、知るべきである。

 智慧などの能力がにぶくて矮小な人、相に執着し思い上がっている者には、この仏法を信じる事は不可能なのである。

 今、私(、釈迦牟尼仏)は、喜んで、畏れる事無く、諸々の菩薩の中で、正直に、「方便」、「便宜的な方法」を捨てて、無上の仏道を説いている。

 菩薩は、この法を聞いて、疑いという網を、皆すでに除いている。

 千二百人の阿羅漢が皆、まさに、仏に成る。

 「三世の」、「過去、現在、未来の」諸仏の説法の儀式のように、私(、釈迦牟尼仏)もまた、今、このように、(三乗に)分別しないで仏法を説いている。

 諸仏の世の出現には、会うのが、とても難しい。

 たとえ、諸仏が世に出現しても、この法を説くのは、また、難しい。

 量り知れないほど無数の劫で、この法を聞くのは、また、難しい。

 この法を聴く事ができた者に、会うのは、また、難しい。

 例えば、優曇華は、一切の者達が皆、愛して開花に出会えるのを願うが、天人でも開花に出会えるのは稀有で、その時々に一度しか出現しないような物なのである。

 仏法を聞いて喜んで、一言でも発して、ほめたたえれば、一切の「三世の」、「過去、現在、未来の」仏を既に供養した事に成るのである。

 このような人は、優曇華を超えるほど、とても稀有な存在なのである。

 あなた達は疑うなかれ。

 私(、釈迦牟尼仏)は「諸法」、「全てのもの」の王なのである。

 あまねく諸々の大衆に告げる。

 「一(仏)乗」である仏道だけで諸々の菩薩を教化しているのである。

 (実は、)声聞の弟子はいないのである。(声聞と独覚は実は既に菩薩の一員なのである。声聞と独覚は菩薩として仏に成る事を目指す必要が有る。)

 あなた達、舎利弗、声聞、菩薩よ、まさに、知るべきである。

 この妙なる法は諸仏の重要な秘密なのである。

 「五濁悪世」で、諸々の欲に、願って執着してしまう。

 このような「衆生」、「生者」は、終に、仏道を求める事が無いのである。

 「当来世の」、「未来の」悪人は、仏が「一(仏)乗」を説いたのを聞いて、迷い惑ってしまって、信じて受け入れないで、仏法を破ってしまって、「(三)悪道」、「地獄、餓鬼、畜生」へ堕ちてしまう。

 恥じ入っていて、清浄で、仏道を志して求める者がいるが、まさに、このような者達の為に、広く「一仏乗」をほめたたえるのである。

 舎利弗よ、まさに、知るべきである。

 諸仏の仏法は、このように、幾万、幾億の「方便」、「便宜的な方法」によって、相手に応じて説かれているのである。

 それを習って学んでいない者は、それを明らかに「了解」、「理解」できないのである。

 あなた達は既に、諸仏、世の師が相手に応じて方便している事を知っている。

 諸々の疑いや惑いを無くして、心に大いなる喜びを生じさせて、自ら、まさに、仏に成れる、と知りなさい。

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