池野拓

 朋恵と会う約束をした日は、朝から雨が降っており、夜の六時になっても雨は降り続いていた。待ち合わせ場所の五反田駅のみどりの窓口で待つこと数分で、朋恵が現れた。ブルーのストライプのシャツワンピースに厚底サンダルという服装だった。長身の朋恵によく似合っていた。

「お久しぶりです」

 朋恵は軽く笑ったが、心持ち暗く感じられた。

〈いちはし〉は混んでいたが、ちょうど店から出た二人組と入れ替わりに店に入れた。二人はカウンター席に並んで座った。二人とも生ビールを注文した。

「何かあった?」

 ビールが届き、一口飲むと、克文は単刀直入に訊いた。

「ええ、まあ。……別れました。彼と」

「そっか。それは大変だったね」

 予想通りだった。克文は朋恵にメニューを渡すと、料理を訊いた。それぞれが好きな料理を注文した。

「今日は、誘ってくれてありがとうございました。この一週間が長かったです。今日飲みに行く約束があったことで乗り切ることができました」

「それは、僕も同じだよ。ともあれ、朋恵ちゃんの役に立ったなら良かったよ」

 克文は一瞬、葵のことを話そうかと思ったが、今は朋恵の話を聞く場面だと思った。

「ここ半年くらい、彼氏中心の生活だったから週末は予定ないんですよね」

「東京に住んでたら、いろいろと遊ぶ場所はあるでしょ。たとえば、展覧会とか」

「ですね。ただ、一人で出かけたりする習慣がないんですよね。でも、私も三十なので、一人で出かけられるようにしないと」

「そうだね。飲み屋にも一人で行ってみなよ。出会いもあるだろうし」

「飲み屋はまだハードル高いですね」

「まあ、店によるよね。『女子 一人飲み』とかで検索してみればきっと入りやすい店が見つかるよ。この店なんかも行けそうだけどね」

 今は店内に女性の一人飲み客はいなかったが、カップルが多く、男女比は六対四くらいだった。克文は自分たちもカップルに見られるだろうか、とふと思った。十五歳の年齢差は十分にあり得るだろう。

 

 料理が次々と届いた。やきとんのセット、冷やしトマト、モツ煮込み、焼き餃子である。モツ煮込みには、バケットがついており、シチューのような味である。

「やっぱりここのモツ煮込みは最高ですね」

「一人で飲みに来る気持ちもわかるでしょ?」

「はい、まあ、考えようによっては自由になったと言えるので、しばらく一人を楽しむのも悪くないかな」

 朋恵は彼氏との顛末を話し出した。彼氏の浮気が原因ということだった。朋恵が浮気相手からのLINEのメッセージを偶然見たが、それは非常に馴れ馴れしいメッセージであり、それについて問い詰めたところあっさり白状したということだった。

「私は近い将来なおくんと結婚する気だったんですよ。でも、もう信頼できなくなって、そうするしかないでしょ。相手からは『続けたい』って言われたんですけど、前にも浮気されそうになったことがあって、もう限界でした」

「なるほど」

「やっぱり男の人って、浮気する生き物なんですか?」

 朋恵は従兄を見据えて言った。その目の色には、切迫したものがあった。昔のことだが、浮気は克文にも覚えがあった。しかし、それは浮気と言えるだろうか? 克文の場合、相手への気持ちが薄れたことが原因だった。逆に相手のことが好きなら、浮気しようとはまったく思わない。浮気などカネと時間の無駄でしかない。そう思えた。

「男に限ったことではないんじゃないかな。恋人や配偶者以外の異性に魅力を感じることはあり得ることでしょ」

「……それは、そうですが、いくら魅力を感じても行動に移すのはダメじゃないですか」

「確かにそれはダメだよね。もし結婚してれば」

「逆に言えば、結婚していなければ、あり得るということですね」

「結婚していれば、法的責任を負うことになり得るから、普通はしない。つまり、理性で抑えるということかな」

「理性ね……」

 朋恵はそう言うと、軽く鼻先で笑った。

「飽くまで個人的な意見だけど、相手のことが好きなら浮気しようとは思わないよ。何と言うか、自分にはその人がいるって思えるからね」

「本当ですか?」

「うん」

 克文は葵のことを思っていた。しかし、葵の元を去った夫のことも頭によぎった。長期的にはどうなのか? それは克文にもわからなかった。彼女のことを深く知っているわけではない。ただその女性としての魅力を賛美しているにすぎない。いずれは色褪せるものなのに。それでもなお、彼女のことを好きでいられるなら、そのときは、「愛している」と言っても良いのではないだろうか?

「従兄さんは、好きな人がいるんですか?」

「……いるけど、うまく行ってない」

「というと?」

 克文は葵のことを話した。

「え~、だったら、振られたわけじゃあないし、プッシュですよ」

「そうなのかな」

 克文はやきとんを串から外す作業をしながら、応えた。

「案ずるより産むが易し、ですよ。彼女さんも従兄さんのことをまた好きになるかもしれないですし。早く連絡したほうがいいですよ」

 葵とまったく会えないよりは、会えるほうを選ぶだろう。しかし、「友達」として付き合うとは、相手の異性関係に立ち入らないことを意味する。葵が他の男と性交しても平気でいられるかといえば、まったく自信がなかった。

「ありがとう。朋恵ちゃんに恋愛のアドバイスをされるとは思わなかったな。必要ならば、僕が何かアドバイスしようと思ってたのに」

 朋恵はやきとんを食べながら笑った。

「そんな、十分ですよ。こうして飲んだり、食べたりするのが一番のリフレッシュになりますし」

「それは良かった。じゃあ、もうああいう投稿はしないよね?」

「ああ、それで連絡くれたんですか。そうですね。止めます。三十にもなって、かまってちゃんは痛すぎますしね」

「でも、勇気あるよね。SNSに私生活を投稿するのは。僕はできないな。それは世代の違いかな」

「いや、私も普段はしないですよ。やっぱり落ち込んでたんですね。恋愛の話する友達もいなくて、SNSくらいしか自分の感情を吐き出す場がなくて」

「そうなの。それは意外だな」

「女同士の付き合いというのが苦手で」

「へぇ~、そうなんだ。どんなところが?」

「子供の頃から女子特有の陰口とか集団行動とか、好きじゃなかったんです。いじめられたこともありましたし、どこか信用できなくて。会う人もいますけどね。でも、恋愛の相談とかはしないですね。特に浮気されたことは話したくないです」

 克文はそれ以上追求しなかった。二人ともビールを飲み干していた。従妹は追加のドリンクを二人分オーダーした。


 克文は非常に満足して電車で帰路に着いた。

(やはり美人と飲む酒はうまいな。だけど、従妹と飲むときは、深酒はできないな)

 そんなことを考えているとき、拓からLINEに連絡が来た。

「何してる? 今日は〈ノーウェア〉で飲める?」

 時間はまだ夜の十時前だった。

「いいね。飲もう」と克文は返した。


〈ノーウェア〉には拓しか客はいなかった。克文は拓の隣に座ると、ハイボールをオーダーした。

「今日は飲んでた?」と拓はマスターとのペナントレースの話を中断して克文に訊いた。

 克文は五反田で従妹と飲んでいたことを話した。

「『いとこ』って女? それとも男?」

「女、妹のほうね」

「従妹はしかし、まずくないか?」

「半年前に二五年ぶりくらいに会ったんだ。美人になってて驚いたよ」

「マジか。従妹に乗り換えるのか?」

「何の話だよ。そういうのじゃないから」

 克文は会うまでの経緯を話した。

「それは、なかなか偉いね。でも、美人だから誘ったんじゃないの?」

 克文は否定できなかった。

「確かに従妹は魅力的だけど、恋愛関係にはならないから」

「それはわからないよ」

「……もうこの話はよそう。拓は今日は何してたんだよ」

「昼間は子守。夜は、ここに来るまでは仕事してた」

「土曜日なのに大変だね」

「もうサラリーマンじゃないからね。土日休めるわけじゃない」

「土日休みと安定した収入とのトレードオフだね」

「……そうも言える。とにかく俺は一生サラリーマンは嫌だったから今の状況のほうが性に合ってるよ」

「僕も同じかな。勤めていた頃はとにかく通勤が辛かった。電車で片道一時間以上かかったからね。あんなの何十年も耐えられないよ」

「俺らももういい歳なわけで、これまでもがいてきた結果が出てくる歳なんだろうね。最初は雇用先を探すのに必死になって、次は会社に認められるように必死に働いて、そういう段階を経て、今は最終的に自分に合った道を実現するときかな」

「うん」

 克文にも覚えがあった。克文は十年前にフリーランスになっていた。そのときは、もう通勤しなくて良いことに、PCだけで仕事できることに、有頂天になっていた。しかし、約半年でリーマンショックが起こり、その影響で、登録先の会社からの仕事がなくなった。それから、一年近くウェブサイト経由の、非常に安価な翻訳ジョブで糊口を凌ぐ生活が続いた。あのとき、就職活動をして、どこかに勤めていたら今の生活はなかったかもしれない。

「これ見てよ」

 拓はそう言うと、スマートフォンの画面を克文に見せた。それは葵のtwitterの画面だった。飼い猫のアイコン、「AOI」の表示名。それは克文が毎日のようにチェックしているアカウントだった。

「どうして、これを?」

「あれ、覚えてないの? 先週、飲んだとき教えてくれたじゃん」

「そうか。覚えてないな。で、これがどうしたの?」

「俺のアカウント、フォローされてる」

 拓は「フォロワー」の中の「黒井」という表示名のアカウントを指した。

「マジか」

 克文は拓が何をしているのか、わからなかった。

「すごいだろ」

 拓は勝ち誇ったように笑った。

「何のために、そんなことをしてるんだ?」

「何のためって、それは君のためだよ」

 拓は先週、葵との復縁のために力になると、克文に言ったことを話した。

「まあ、君は覚えてないかもしれないけど、俺はあれから考えて、計画を立てて、それを実行に移しているんだよ」

 拓の計画とはこういうものだった。葵と出会い、友達のタロット占い師に彼女を占ってもらい、そこで恋愛についてアドバイスをするときに克文のことを仄めかすというものである。

「なるほど、それはなかなかいいアイデアだね。しかし、どうやって彼女と接点を持つつもり?」

「そのためのtwitterだよ。この前、彼女の好きなアーティスト教えてくれたよね。俺もそのアーティストのファンになりすましてるんだ。そのつながりで、彼女に連絡して、自然な形で接点を持つんだ」

「……よく考えたね」

 克文はつくづく感心した。確かにそれはうまく行けば、葵を動かすことができるかもしれない。しかし、そこにはリスクも潜んでいた。拓はその道のプロではない。拓が葵を好きになるという可能性もある。あるいは葵が拓を、という可能性も。好きな共通のアーティストというのは、恋愛の始まりにぴったりではないか。

「自分が既婚だということを伝えるの?」

「伝えないよ。……そのほうが上手く行く可能性が高くなるだろ。心配は要らないよ。俺には妻子がいるから。君が心配しているようなことはしないよ」

 克文は友達を疑ってバツが悪かった。しかし、なお釈然としないのは、拓がそこまで自分のためにする動機は何かということだった。

「でも、忙しいのに、わざわざそこまでしてくれるなんて、何か悪いね」

「いいんだよ。すべては君と先週ここで偶然会ったことが始まりなんだ。そこで、君の悩みを聞いた。聞いた以上は、できる限り力にならないと。あり得ないことが起こったわけだから、それ相応のことはしないと、って思うんだよね」

 拓はそう言うと、「乾杯ー」と言ってグラスを合わせた。克文は昔、拓と二人で飲んだことを思い出した。大学二年の夏だった。大学生で二十歳だったあの頃、楽観的なビジョンとともに人生で最大限に自己を肥大させていた。今思えばそれは多分に日本経済がまだ明るかったこともあるだろう。あの頃、大卒というだけで将来は安泰と思われていた。大学の学業は真面目にやれば忙しいだろうが、二人ともすでに化学を頑張る気は失せていた。哲学や経済学を含むさまざまな学問に触れられる一年時はまだ良かった。それこそ高校生のときに抱いていた大学のイメージに合致した。しかし、二年になり、化学の細分化された科目と実験のみになると、嫌々と言わないまでも楽しいものではないのは明らかだった。化学自体に特に興味が湧かないことに加えて、後から気づいたことだが、克文は作業全般が苦手だった。そのため、計量やら撹拌やらさまざまな作業から構成される実験は克文にとって苦痛でしかなかった。

 一九九二年の八月の暑い日の土曜の夜だった。拓のケンタッキーでのバイトの終わりを待って、二人で松本で最も賑わっている公園通りへと繰り出した。居酒屋チェーン店で飲食している間、拓はずっと無言だった。同じバイト先の拓が思いを寄せていた子に彼氏がいることがわかったため、落ち込んでいたのだった。

「落ち込んでいても始まらないし、ナンパでもしようぜ」

 克文がそう言うと、拓は目を白黒させた。

「……ナンパなんてできるのかよ」

 克文は一度もしたことがなかった。それでも、今はその行動が相応しいと思えた。

「結局、度胸の問題だろ? 今ならやれる気がしないか?」

 拓は顔を下に向けて、考えるしぐさをした。それから、ふいに笑い出すと、「いいアイデアだね。やろう!」と元気を取り戻して言った。

 二人は公園通りで物色していたが、最初に声をかけるまで、三十分くらいかかった。最初にOL風の二人組に声を掛けたとき、相手から反応はあったが、拒否された。奇跡が起こったのは、三回目に声を掛けたときだった。相手は同じ信大生の一年生の二人組だった。

 一人は体型が太めだったが、もう一人は十分にかわいいと言えた。タレントの「永作博美」に似ていると思った。四人で近くにある〈ハーフタイム〉というカジュアルバーに行った。信大生同士なので、話題にはことかかなかった。

 ついさっきまで、二人を支配していた淀んだ時間は、土曜の夜に相応しい輝かしいものに変わった。それはなんとも愉快な体験だった。犬も歩けば棒に当たる、とはよく言ったものだ、と克文は思った。


「そういうことね。なるほど、わかる気がするよ」と克文。

 同じことが自分の朋恵に対する行動ついても言えるのではないか、と克文は思った。朋恵の投稿を見た以上は、放っておけない。しかし、彼女と会うこと自体に快楽があるのは事実であり、そうである以上は、会わないのが妥当なのではないか。いとこ同士の恋愛・結婚ができないわけではないが、それはバツが悪い。とは言え、それは飽くまでも身内に対してであり、世間的にはカップルがいとこ同士かどうかなど気にしないはずだ。それでも、やはり、いとこ同士の結婚は――。

「別に従妹でもいいじゃないの」

 拓は克文の考えを読んでいるかのように言った。

「でも、葵と切れたとは思ってないし」

「友達でいたいと言ってきた女に義理立てる必要はないよ」

「そうか」

 克文は理屈としては同意できた。

「結婚すると、恋愛なんてできないし、俺から見たら羨ましいよ」

「羨ましいなんて。この年齢で独身は、インセルだよ」

「克文は結婚したいと思ったことあるの?」

「……ないかも」

「だと思ったよ」

「愛を知らないからなんだよ。きっと」

「愛と来たか。それは交際を通して育むものだよ。むしろ、愛を恐れているんじゃないの?」

「まあ、恐れはあるよ。実際、葵との交際で恋愛の両面を味わってる。交際期間はまだ浅いし、愛というには軽すぎるけど、仮に愛していたとして、彼女と別れたら、それは今以上にはるかに苦痛に満ちたものになるはずで――」

「わかるよ。結局は、勇気の問題だよ。愛することには、潜在的な悲劇を受け入れることも含まれるんだ」

「僕は自然発生的なものだと思っているよ。いつしか相手の存在が大きくなって、もう離れられなくなるような。つまり、意志的に愛するということではない、と」

「そうだな。同意するよ。ただ、その上で、やはり社会人である以上は、社会的な次元というものがあるわけで、カップルにおいてそれはつまり結婚になるんだけど、そのときはやはり意志的な選択があるよね」

「そうだね。まあ、自分はその段階まで行ったことがないんだな」

「世の中には最初から結婚したい男女もいるわけで、あまり愛にこだわるのもどうかと思うよ」

「僕は逆に、そこまで結婚にこだわるか、と言いたいよ」

 拓は「変わらないな」と言って苦笑した。

「昔も同じような議論をしたことがあったね。そのときと変わってないね」

「そうだっけ?」

「そのときも結婚をディスってたよな。結婚しないまま、子育てできる社会にすべきだ、とか言ってた」

「今でもそう思ってるよ」

「あっぱれ! 君の言うことは理にかなっていると思うよ。ただ、日本社会には一般的な人生モデルというのがあるよね。それは、大学を出て、会社に勤めて、結婚して、子育てする、というものだ。大半の人は、そのプランAに準拠している。しかし、それがすべてではないし、そのプランから外れたから負け組というものではないよね」

「プランAは僕には合わなかったんだ。たまたま大学には入れたけど、会社勤めの耐性はなかった。たぶん結婚の耐性も」

「まあ、会社勤めとか結婚とか本当はそんなに重要なことではないよ。フリーランスは増えているし、結婚する人は減っている。それより、君の言うように愛にフォーカスすることがいっそう重要だよ。実は俺、妻とほぼセックスレスになってるんだ。子供ができるとレスになるのはよくあるパターンさ。まあ、俺も仕事が忙しくなってるのもあるけど、この国では中年のセックスライフは概して貧しいものなんだ。でも、君はセックスできて、それが羨ましいよ」

「この前、何年ぶりかにしたけど、やはり若い頃とは違うからね。射精まで苦労したよ。やっぱり若い頃のセックスが一番だよ。もうその頃のセックスの喜びは得られないんじゃないかな」

「同意だよ。まあ、俺はもうセックスなんてする必要もないんだけど、でも性欲は衰えないから困ったものさ」

「チンポが立たなくても性欲は衰えないものなのかな」

「どうだろうな。それは怖いな」

「そうだな。怖いよな。でもまあ、挿入がすべてではないし。ビアンのセックスは挿入なしだよ」

「ハハハ、挿入なしでいいなら、何歳でもできるな」

 克文はレズビアンの恋愛を描いた映画を思い出していた。そこには数分に及ぶ長さと女性器までも映す明け透けな描写で話題になったシーンがあった。男性の克文にとって、それはポルノのように性的に興奮させるものではなく、そのひたむきさは愛を垣間見せるものであり、それは美しいと言えた。克文は女性器を思い浮かべ、その形容し難い形状や愛がそこを経由する神秘さに思いを馳せた。

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