バー〈ノーウェア〉

 五月晴れの土曜日の夜に、LINEに葵から「今日会う?」と連絡があった。その日は、「予定があるから」という理由で断られていたのだが、克文は喜び勇んで「会おう!」と返した。

 今回で葵と会うのは、五回目だった。克文はいまだに恋愛の喜びに浸っていた。ただし、主導権は完全に相手に握られたと思っていた。葵の態度に変化が感じられたのは、三回目のデートの後だった。そのとき、葵が初めて克文の家――1Kの築五十年になるアパート――に来たのだった。葵は家については何も言わなかったが、克文の暮らしぶりにマイナスの印象を受けたことは大いにあり得た。次に会ったとき飲んだ後、克文は葵の家に行くことを拒否された。そういうわけで、もうしばらくセックスしていなかった。しかし、キスはしていたし、それでも十分に幸せだった。

 そんな中で克文が気にしていたのは、朋恵のSNSの投稿だった。朋恵が昨日投稿した写真は、自撮り写真を加工して、涙の跡を描いたもので、明らかに悲しみを匂わせるものだった。克文は気になっていたが、まだ何のアクションも起こしてなかった。目下克文にとっての最大の懸案事項は葵との恋愛であり、どうにか関係を続けながら、いっそう親密なものにしたかった。


 待ち合わせ場所は克文の最寄りの駅前だった。葵はジーンズにポロシャツというカジュアルな服装だった。

「私、今日横浜で地元の友達とバーベキューだったの」と葵。

「じゃあ、スタバでも行く?」

 スタバではお互いにグランデサイズのドリンクを持ってソファ席に陣取った。客は他に数名程度だった。葵は今日撮ったデジカメの写真をタブレットで見せてくれた。男女六人でBBQというリア充を絵に描いたような写真だった。実際彼女がリア充中のリア充であることは間違いなかった。グループには他にも女性がいたが、葵のほうが美人だった。世の中には葵を超える美人はいるだろうが、今や克文の興味を惹かなかった。

 葵は友達の紹介をしてくれた。克文は、他の人に興味はなかったが、それでも葵の話を聞くのは嬉しかった。友達について話すということは、自分に一定の価値があると認めていることになるのだから。葵は県下トップの高校を出ていたから友達もまた社会の上流階級だった。克文はBBQ同様、そうした人種とも縁がなかった。克文は大学こそ出ていたものの、大卒に相応の収入を得たことはなかった。それは怠惰というよりも、無能であるためだと思っていた。就活では一度も面接に受からず、途中で止めた。親のコネで入社した、大学を出て最初に勤務した会社は、三か月で退社した。そこはPR会社であり、経営者一人に従業員三人の零細企業だった。克文はただひたすら雑用をさせられた。怒鳴られることも度々あった。社長はポルシェで通勤し、車内で演歌をかけるような五十代の男性だった。何度か連れて行かれた飲み屋では説教された。最初は、髪型が駄目だとか、電話の受け答えが駄目だとか言われたが、そのうち「幽霊みたいだ」、「君と飲んでも楽しくない」などと言われた。

「このピンクの子は東大大学院出て、今大学で教えてる」、「この背の高い子は会社経営してる」、「この子は国連機関の職員なの」。そういうステータスを聞くたびに、克文は冷や汗が出そうだった。

「なんか皆、立派な人ばかりだね」

「そうだね。言われてみれば。でも、普通の人だと思うよ」

「普通の人」というのはそうかもしれないが、いずれにしても克文には縁遠い人たちだった。

「今日は何してたの?」

 葵は写真が終わると、唐突に訊いてきた。

「今日は……、部屋の掃除したり、映画見てたりしてた」

「何見たの?」

「昔の邦画、大島渚の」

「どうだった?」

「よかった。松竹ヌーヴェルバーグと形容された作品なんだけど、確かにヌーヴェルバーグっぽさはあったね」

「ヌーヴェルバーグって、ゴダールとかの作品だよね。大学の映画論の講義で学んだけど、あまり覚えてないな」

「そうだね。ゴダールとかトリュフォーとか。僕は昔、ヌーヴェルバーグの映画にはまってね。今思うと、おしゃれとか恋愛とかを追求していた時期だからかな、って。象徴的な俳優がジャン=ピエール・レオなんだけど、彼には共感したり、憧れたりしたな。二枚目なんだけど、恋愛では必ずしもうまく行かなかったりして、人間味にあふれてるんだよな」

「ふ~ん。で、結局、ヌーヴェルバーグってどういうの?」

「……僕に言わせればだけど、街中を舞台にした瑞々しい雰囲気の映画かな。重いテーマではなくて、恋愛がメインで軽薄な感じとも言えるけど、そうだな、でも明るくはないかな。今日見た映画にしてもそうだった」

「映画詳しいんだね。ヌーヴェルバーグのおすすめ作品教えてよ」

 克文は九十年代の終りに映画館で見て、非常に感銘を受けた昔のポーランド映画を教えた。

「ありがとう。ところで、『おしゃれとか恋愛とかを追求していた』頃の話を聞きたいな」

 葵はニヤけていた。克文はお上りさんだった頃の痛い自分が恥ずかしかったが、もう二十年近く経ったことで、記憶も熟成したのか、どこか微笑ましいところもあった。若者とは普遍的にそうなのだろうが、とにかく着るものにどこまでもこだわり、毎週末電車で三十分以上かけて原宿とかのショップをはしごしたり、ファッション誌を月に三冊も買ったりと、服が最優先事項だった。いったいどうしたらそこまでファッションにエネルギーを注げたのか不思議に思うが、服を通して、自分がカッコよくなれたと思える高揚感があった(もっとも実際はダサいほうが多かっただろうが)。また、そこには自己表現(そして自己満足も)があり、センスや美醜という座標軸の中で優越感に浸るのは悪いことではないが、当時はたとえば、環境への悪影響など、服を消費することの裏面には思いも寄らなかった。そうした浅はかなところも若者らしいと言えばそれまでだが。

 当時の恋愛観もやはりそうした浅はかさに色濃く特徴づけられていた。何よりも相手の容姿がすべてというような。そうしたルッキズムは今でも引きずっていたが、当時は出会いにもこだわっていたりと今では考えられないようなことにこだわりがあった。それは多分にヌーヴェルバーグなどの映画の影響だろうが、映画でよくあるような街中での出会いというものに憧れたりしていた。それが何かイケてると当時は思っていたのだ。実際は、あまりにシャイすぎて、街中で声掛けなどほとんどできなかったが。ただ一度、大学の友達と声掛けしたときがあり、そのときは奇跡的に女子の二人組と居酒屋に行ったことがあった。しかし、そういうことを葵に話すのは抵抗があった。

「……まだ二十代の頃なんだけどね。まあ、いろいろと服を買ったりしてたね。浮いたカネはすべて服に回すみたいな生活だった」

「えー、そうなんだ。私も似たようなものだったよ」

「女子はそういう人多いだろうけど、男でそれはどうなのって思わない?」

「まあ、カッコよければいいんじゃないの」

「だけど、現実は親のカネで買っているわけで、やはりそれはダサいなって今は思うよ」

「でも、バイトはしてたんでしょ?」

「……まあ、少しはしてたけどね」

「何してたの?」

「う~ん、単発のバイトが多かったね。長く続いたバイトはないよ」

 克文がやったバイトと言えば、工場だったり、掃除だったりと華やかさの欠片もないバイトだった。当然そこに女子との出会いはなかった。

「私は居酒屋でバイトしてた」

「居酒屋か。けっこうハードなバイトしてたんだね」

「そうだね。でも、全体的には楽しかったな」

「居酒屋は楽しむための場所だからね。客に絡まれたりしたでしょ?」

「したした。勘違いオヤジが多くてね」

「愛想良くされると、気があるかもって思うのは男の悲しいサガだね。中年になった今、僕も気を付けないと、って思うよ」

「愛想を振りまくのも仕事のうちなのにね」

「そうだね」

「私、ちょっとトイレ」

 克文はカフェミストを口にした。他の客は皆自分の世界に浸っていた。克文はこうして、葵と二人で時間を過ごしていることに優越感を感じていた。行きなれたスタバもまるで違う場所のようだった。一人になると、葵がいることにしみじみと喜びを感じた。しかしながら、葵は自分の相手としてどうなのかという疑問は大きくなる一方だった。相手を知れば知るほど、「人間力」の差をますます感じた。

「あのさ、言うの忘れてたけど、生理きたよ」

 葵は席に戻ると克文をまともに見据えて言った。

「あっ、そうなの」

「安心した?」

「……まあ、そうだね」

 克文はどう答えるべきか、一瞬悩んだが、あえて異を唱えることではないと思った。もし生理が来ない、と言われたらどうだろうか? 喜ぶだろうか? それとも……。四十半ばの今、父親になっても何らおかしくない年齢である。というよりも、父親になるには遅すぎる年齢かもしれない。そして、父親になるとは同時に、葵と結婚することにもなる。それならば、諸手を挙げて喜ぶべきだろう。

「あっ、もし妊娠しても僕は責任取るから」

「大丈夫。妊娠なんてしないから」

 葵はきっぱりと言った。

「まあ、仮定の話をしたまでだから」

「わかってる。でも、子供が欲しいならもっと若い子と付き合いなよ」

「『子供が欲しい』なんて言ってない。それに君は十分に若いよ」

「四十過ぎてるのに?」

「年齢の問題じゃない。メンタルの問題だよ」

「たとえば? どこに若さを感じるの?」

「たとえば、アクセサリーとか着けないところや、……そうだな、自信に溢れてるところとか」

「自信か、そう見えてるんだ。でも、私にも弱みはあるよ」

「そうなんだ。おいおい見えてくるかな?」

 葵のドリンクがなくなった。

「たぶんね。じゃあ、そろそろ出ようか?」

 時間は九時半だった。克文がバーで飲むことを提案すると、葵は承諾した。駅から徒歩十分くらいの場所にあるバーに入った。

 客は他に男性のソロ客が二人カウンターにいた。二人はテーブル席に着いた。ここは最近できたかなり本格的なバーだった。

 葵は嬉々としてメニューを眺めていた。克文はラフロイグのロックを、葵はモヒートを注文した。二杯目は、克文はハーパーのロックを、葵はXYZを注文した。

 克文は、酔いが回ってきたところで、気になっていたことを訊いた。

「そう言えば、失踪した旦那さんとは連絡取ってるの?」

「LINEは送ってるけど、なかなか既読が付かない状態」

「居場所はわかってるの?」

「正確な居場所はわからないけど、福岡にいるって」

「離婚する気はあるの?」

「どっちに?」

「二人に」

「そりゃあ、このままじゃあ、離婚したいけどね。失踪の場合、簡単には行かないんだよ。まだ一年も経ってないし。三年以上連絡が取れない状態なら離婚事由になるらしいんだけど」

「相手の意向は?」

「知らないよ」

 葵はどこか投げやりに言うと、ショートグラスを口に運んだ。

「お酒、強いーけど、美味しい!」

「初めて飲みましたけど、美味しいです!」と葵はバーテンに向かって言った。

「ありがとうございます!」

「だけど、グダグダなのもなあ。その辺、LINEで訊いてみたら?」

 話が途切れたが、克文は無視して言った。葵は目を見開いた。

「そんな簡単に言わないでよ。何年一緒にいたと思ってるの? 十年以上だよ。簡単に離婚なんてできるわけないでしょ」

「……そうだね。悪かった。でも、僕のことはどうなるんだ。こうして会っているということは、いずれは――」

「私たち出会ってからまだ一か月半くらいでしょ。そんなに急かさないでよ」

 店を出ると、時間は十時半頃だった。

「僕の家に泊まって行ったら?」

 克文はダメ元で言ってみた。

「猫が待っているから帰らなきゃ」

 克文は葵を駅まで送ると、別れ際にハグした。女性の身体の柔らかい質感が、髪の甘い香りが香った。そのとき「好きだよ」と克文は耳元で囁いた。

 葵は「フフ」と笑っただけだった。


 克文は自宅に着くと、ベッドに横たわり、手淫をし始めた。惜しげもなく開かれた脚、切りそろえられた陰毛、小ぶりな乳首、最中の葵の表情や声を想像した。そろそろというところでLINEの着信音があった。葵からだった。

「やっぱり私たち友達でいよう」との文言に続き、キャラクターがお辞儀しているスタンプ。

 右手に握っているものが瞬く間にしぼんだ。

(マジか……)

 克文はスマホを手にベッドに横になると、何か返信しようとしたが、言葉が出てこなかった。

(今更それはないだろ)

 克文は冷凍庫に冷やしてあるウォッカをストレートでショットで二杯飲んだが、気が晴れなかった。動きたくなったので、外出すると、闇雲に歩いた。初めて歩く道も躊躇なく歩いた。

 歩くこと三十分もしくは一時間くらいして、初めて足を踏み入れた飲み屋が連なる一画にバーらしき店(カールスバーグのロゴがあった)を見つけた。その看板もない店からにぎやかな音楽が聞こえてきた。

 克文はその店に入ってみた。店主は中年の男性だった。カウンターがメインの店だった。客は若いカップルが一組いた。克文はビールを頼んだ。

「今日はご来店ありがとうございます。この近所の方ですか?」と店主。

「まあ、そこまで近くないですけど、徒歩圏内です」

「そうですか。ごゆっくり」

 そう言うと、店主はカップルとの会話に戻った。克文はあまり話しをする気でもなかったので、そのほうが好都合だった。

 克文はずっと店内を流れる洋楽に耳を傾けていた。九十年代の曲が多く、中には克文の知っている曲もあった。モニターには無音の映画が流れていた。『ニキータ』というフランス映画だった。懐かしかった。克文は大学生になったばかりの頃、映画館でこの映画を見て、大いに感銘を受けたのだった。

 あれから四半世紀近くが過ぎたが、克文は仕事に熱心なわけでもなく、家庭を持てる可能性も低いと言えた。もちろん、ただ生きて死ぬだけだとしても、咎められる謂れはない。どう生きるかは個人的な問題だから。それにこの世に生を享けたことは自分の意志ではないのだから。しかしながら、そうで良いかと言えば、疑問だった。もっとも、どんな偉人もただ生きて死ぬだけと言えなくはないが。スティーブ・ジョブズにしてもそうだった。しかしながら、凡人には彼の真似はできない。彼が非凡なのは、挑戦への熱情にあったのではないだろうか? 彼を突き動かしていたものは何だろうか? 具体的にはコンピューターによる革命と言えるかもしれないが、抽象的に言えば、超越的なものの追求と言えるのではないだろうか? それは人を動物と隔てる最たるものである。動物とは異なり、人が文明を築くことができたのは、そのためである。それが人を人たらしめるものだとしたら、そういうものを手放すことは、人間性を手放すことになると言えるのではないだろうか。ゆえに、それは人倫に悖る、と。

 超越的なものの追求と聞いて、人が真っ先に思い浮かべるものは宗教ではないだろうか? しかしながら、巷に出回る宗教は一つの安易な道に見える。まず信じる動機がない。学生時代に読んだニーチェの影響もあるだろうが、入信を真面目に検討したことはなかったし、今後もないだろう、と克文は思った。

 克文にとって、宗教に近い位置にあるのは、テクノロジーだった。克文がパソコンや携帯電話を購入したのは二十世紀最後の年であり、マーケティング用語で言えば、克文はレイトマジョリティに近かった。克文は九十年代後半のパソコン(PC)ブームに対して懐疑的であり、PCが高尚なものだとはまったく思ってなかった。実際、PCは道具に過ぎない。結局、ライフスタイルを変えたのはPCではなくインターネットだった。克文はPCを手にして以来、ネットの最前線を生きてきた。ICQ、2ちゃんねる、Amazon、ネットゲームが克文の生活に浸透してきた。ゼロ年代にはブログを開設し、十年代はSNSが生活の一部となった。それは驚くべき変化ではないだろうか? 九十年代後半当時、洋書を購入するためのサイトに過ぎなかったAmazonは、この二十年でありとあらゆるものの最大の購入先になった。二千年に初めて知ったGoogleは今や生活に不可欠のものになった。仕事はデータのやりとりで完結し、女性との出会いはTinderで探し、飲食店、クラブイベント、展覧会、ライブなどレジャーもネット検索で探す時代。今やネットはライフラインになっている。

 一面では確かに便利になっただろう。ほとんどのことは、すぐに調べがつく。現代の都市生活者にとって、検索能力は生きる上で不可欠であるばかりでなく、QOLを大きく左右する要素になっている(田舎でも必要だろうが、その重要性は大きく異る)。こうしたことはついぞなかった。これまでは知り得なかった情報にネット検索によりアクセスできるようになった。仕事上検索が不可欠である克文は、ネット検索に習熟していた。ゆえに、ネット社会は克文に向いていた。ネット検索がなかったら決して利用しなかっただろう店、さらには歯医者などがあった。情報とは力であることを実感できた。

 しかしながら、テクノロジーに熱狂させるものがあるわけではなかった。どれだけ便利で、どれだけ先端的と思える生活を送っても、所詮は一ユーザーであり、世界に主体的に関わることはできない。そもそもライフスタイルが変わったのは克文だけではない。

 超越的なものは、必ず熱狂を伴う。それこそが超越的なものの指標と言える。そこには論理を超えたものがなくてはならない。身近な例で言えば、スポーツファンのファンチームの勝利への熱狂がある。あるいは、買い物狂のブランド物などを所有することへの熱狂。ところが、それらは酒のような一時の熱狂でしかない。もっと主体的に超越的なものに関われる身近な例はやはり恋愛だろう。そのときは、世界が自分たちのためにあるような感覚になれる。そこにはあり得る限りの快楽や至福があり、生きる気力や自己肯定感の源泉になり得る。ところが、恋愛もまた限界があるのは間違いないだろう。最良のケースで、よく言うように愛というものに変わったとしても、愛はもはや熱狂の源泉ではなくなるだろう。人生に意味を与えてくれるものにはなるとしても。

 もちろん、熱狂は一過的なものであると、割り切ることはできる。むしろ、それが普通である。芸術や仕事、研究に情熱を捧げ、熱狂を生きられる人は一握りだが、結婚して子供を持つという普通の生き方も、ある種の熱狂を伴うものになり得るのではないだろうか? 子供や家庭が親(特に母親)の熱狂の対象になるのはよくあることだ。しかし、子供が優秀でモテたらどうだろう。嬉しいだろうか? わからない。やはり子供は子供ではないだろうか? 子供が称賛を浴びたとしても、それが親に向けられることはない。自分はそういう称賛が欲しいのだろうか? 違う、と克文は考えたかった。称賛を目的として、熱狂できるとは思えないから。熱狂は子供の頃の遊びのようにそれ自体になくてはならない、と克文は考えていた。

 子供の頃は、何時間でもテレビゲームで遊ぶことができた。二十代の頃は、映画や小説にはまった。また、卒論に血道を上げた。二週間あまり、書くこと以外何もしない生活を送った。そういう生活は、克文が後に小説を書くようになったきっかけだった。三十歳のとき、百枚程度の作品を仕上げて以降書いてなかった。そのとき書いたのは、子供の頃のある後悔を題材にしたものだった。それは結局、克文にとって最大の題材であり、それを書いたことにより、小説執筆の動機がなくなったのだった。というのは、正確ではなかった。それからもいろいろな出来事があり、小説の題材にもできただろうし、必ずしも自分が体験したことを書く必要はないので、小説を書けないわけではないが、克文は日々の生活にかまけていた。そもそも一日中PCのモニターの前で過ごす日々の中で、休日も同じような過ごし方をしたくなかった。休日ともなれば、あわよくば女性との交流を求めて、盛り場に出かけていた。女性も所詮一つの欲望の対象に過ぎなかった。その身体や顔を追い求めているだけだった。あるいは仮に女性との関係がうまく行ったとしても、女性のために生きるというのはあまりにも卑屈すぎると思えた。しかし、現に葵とはどうだったかといえば、限りなく葵がすべてという生活になっていた。

 葵は砂漠の中のオアシスのような存在だった。生活は一変した。性格までも変わったのではないだろうか。「俺には葵がいるのだから」。そう思えば、株で損したり、急な雨に振られるといった不運はどうでも良くなった。一人でいるときもそこはかとない優越感を持てた。自分という存在の価値が高まったような気がした。

 そうした状況が示すことは、克文が空虚な生活を送っていることに他ならなかった。仕事であれ、ネットであれ、それらは確かに克文の日常を構成する大きな要素だが、それらは生活の糧や利便性と言い換えられるものに過ぎず熱狂とは程遠かった。

 葵を諦めるなど無理な話だった。唯一諦められるとしたら、他に好きな女ができることしかなかった。ただし一方では、経済資本に大幅な違いがある以上は、葵は夢だったと考えて諦めるべきだ、とも考えていた。


 克文が二杯目のビールも飲み干して、帰ろうかと迷っているときに、新客が来た。見たところ、克文と同年代の男性である。彼がカウンターの中央に陣取ると、マスターは何も言わないうちにドリンクを用意した。

 新客はドリンクを手に克文の方を向いて、乾杯の仕草をした。克文はその顔に見覚えがあるような気がした。

「この店は初めてですか?」

「初めてです」

「入りにくかったでしょう?」

 確かにちょっと入ろうとは思わない佇まいかもしれない。しかし、嵐が轟々と吹いているような今の克文の精神状態では、店の入りにくさなど些細なことだった。

「音楽に惹かれました」

「昔の洋楽好きなんですか?」

「ええ、まあ」

「俺は昔、バンドやってて、よくこの曲演奏してましたよ」

 店内にはニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」が流れていた。克文は大学の頃、その曲をコピーしたバンドの演奏を見たことがあった。

「大学の頃に?」

「……そうです」

 二人は見合うと、同時にお互いのことを認識した。池野拓いけのたくはさっそくマスターにこの途方もない偶然について話した。克文はビールを飲み干すと、ジャックダニエルのロックを注文した。拓は同じ大学の理学部化学科の同級生で大学で最初にできた友人だったが、二年のとき、大学を辞めてしまった。その後実家に戻り、音信不通になっていた。

 お互いの住んでる場所や今の職業を話すと、克文は大学を辞めた後のことを訊いた。拓は大学を辞めてからフリーターをしていたが、二五のときにまた大学に入り直したということだった。

「建築家を目指してね。まあ、そういう目標があるとやっぱり大学での勉強にも身が入るよ」

「わかるよ。僕も実は別の大学に編入したから」

 克文は英語の勉強のために東京の大学に入ったことを話した。

「お互いに親に苦労かけてるな」と言って拓は笑った。

「俺は今年、独立して自分の事務所を持ったんだ」

「それはすごい!」

「子供のためにも頑張らないと」と拓。

「子供いるのか」

「ああ、今年三歳になる。克文は結婚は?」

 それは今さっき一歩ないし二歩後退したところだった。

「してないよ」

 克文は思わず、眉間にしわを寄せた。

「……そうか。ところで、何か悩みでもあるの?」

「なんで?」

「何か悩み深そうだから」

「わかる? 悩みというか……」

 克文が口を開くと、拓は隣の席に移った。克文は葵とのことを話した。


 克文が起きると、朝の十時過ぎだった。気分が悪かった。財布の中にタクシーの領収書があったが、タクシーに乗った記憶がなかった。

 昼にSNSをチェックすると、朋恵は前に不穏な投稿をして以来ずっと投稿していなかった。克文は朋恵にダイレクトメッセージを送った。

 朋恵から返事が帰ってきたのは夜の遅い時間になってからだった。

「元気じゃないです。従兄さんはどうですか?」

「今度、顔見に行きたい」と克文は返した。

「そうですね。いいですよ」

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