吉岡葵
朝目覚めると、鶯の鳴き声が聞こえた。三月も終わりに差し掛かった今、季節とシンクロするように、恋愛にも「春が来た」ことで、その喜びは倍加した。四五になった今でも、好きな女と会える日の嬉しさは、若い頃と変わらなかった。
その夜、葵は会社の飲み会を抜けてきたということだったが、ジーンズに厚手のカーディガンという非常にカジュアルな服装だった。背が高く、がっしりした体つきに、厚ぼったい唇が特徴的な顔の女性だった。声はソプラノで、耳触りが良かった。克文は何よりもその打ち解けた態度に感銘を受けた。傍目には初対面の男女には見えなかっただろう。むしろ、恋人同志に見えたかもしれない。
ちょうど克文が待ち合わせ場所でスマホに目を落としていたとき、声がかかった。克文が顔を上げると、満面の笑みをたたえた美女がいた。その瞬間、恋に落ちたと言っても過言ではないだろう。
その夜、そのファーストコンタクトは、ありうる最高の展開を見せた。あれから一週間以上経った今でもそのときのバイブスは覚えていた。クラブのダンスフロアでのキス、ラブホで二人でシャワーを浴びたこと。それは宝くじに当たるよりも嬉しいことではないだろうか、と克文は考えた。確かにカネを払えば同様の体験を持つことはできるだろう。しかし、カネを払うのと払わないのとではまったく違う。つまりは関係という次元の有無である。カネを払っても関係を買うことはできない。
克文が葵と会うために、二人の住所の中間地点である自由が丘に向かうために電車に乗っているとき、Instagramのアプリに更新の通知があった。朋恵が「銀座の某店で。おいしかた」というコメントともにカラフルな小籠包の写真をアップしていた。克文はすかさず「いいね!」した。従妹の朋恵とは、祖父の葬式以来、SNSでつながっていた(克文がもっぱら朋恵の投稿に「いいね!」するだけだったが)。朋恵はSNSで交際男性のことをおおっぴらにはしていなかったが、SNSに上げる写真にはおそらくはデートであろうと推察できるものも少なくなかった。今回の写真もその可能性が高かった。実のところ、そうした投稿に「いいね!」するのはどこか自虐的というか、卑屈な気持ちにさせるものがあった。たかがワンクリックとは言え、やはりそれは一つの意志的な行動である。相手の承認欲求を満たすことに汲々としている自分はどうなんだ、という声が聞こえた。もう止めようと思っていたところだったが、今、自分の状況が変わったことで、屈託がなくなった。
その夜、葵は前回とは違った印象だった。胸の大きく開いたシャツが女性らしさを高めていた。どこか照れもあったのかもしれない。しばらく最初のときのテンションは鳴りを潜めていたが、イタリアンレストランでワインが進むにつれて、饒舌になった。クラブ〈マニアックラブ〉でのイベントやWIREの昔話をした後(彼女もまたクラバーだった)、彼女はこれまでの人生について語った。岩手の田舎から大学のときに上京して、出版社に就職後、ゼロ年代前半のITバブルで転職し、今の輝かしい地位――大手IT企業の専門職――を築いた、と要約できた。同じく田舎出身で、都会でくすぶっている克文は引け目を感じた。しかし、出会ってから数時間のうちにベッドインしたことが克文に根拠のない自信を与えていた。経済格差は、重要なこととは思えなかった。
その後、アイリッシュパブに行って終電がなくなるまで飲んだ後、タクシーで葵の二子玉の家に向かった。
ダブルベッドで目が覚めたときはまだ暗かった。葵の家は、何部屋かある広々としたマンションだった。克文は今、葵の失踪中の夫のグレーのスウェットを着ていた。着心地は良くはなかったが、葵がこれまで独身というのは考えられなかったので、克文は夫に感謝したかった。隣で寝息を立てて寝ている葵はまだ現実とは思えなかった。アッパークラスの魅力的な女性と加速度的に関係が進展するということはこれまでの人生でなかった。まるで別の誰かの人生と入れ替わったかのようだった。こうして中年になって女性と知り合い、親密な関係を持てたなら、辛酸を舐めさせられた昔の失恋もすべてチャラになると思えた。
克文がトイレから戻り、ベッドに潜り込むと、「いなくなったかと思った」と囁き声が聞こえた。
「いなくなるわけないじゃん」
克文はそう言ってキスした。絡み合う舌は、自分たちとは独立した別の生物のようだった。克文が上半身の丸みを帯びた柔らかい部分を触ると、葵は「アン」と吐息を漏らした。その声はスイッチが入るのに十分だった。克文は女のパジャマと下着を剥ぎ取ると、自分も裸になり、肌と肌を触れ合わせた。
朝遅い時間に起きると、二人でスクランブルエッグとウインナー、レタスサラダ、食パンというブランチを摂った後、近所の公園に行った。そこは有名な花見スポットだった。桜は満開で、大勢の花見客がいた。
葵はiPhoneで桜の写真を撮っていた。満開の大きな桜の木の眺めは圧巻だった。桜の淡いピンクは、彼女の上着のレザージャケットの色と同じだった。葵が桜の精のようだった。克文は、動物が恩返しに人間の姿になって主人公に近づくが、その正体が明かされるや否や元の動物の姿に戻るという昔話を思い出した。結局、そんな想像をするのは、先週末からの一連の流れが非現実的なほどの幸運だったからだ。それだけに何か不吉なものがあった。麻雀で九蓮宝燈を上がると死ぬという言い伝えがあるが、そういう圧倒的な幸運には帳尻合わせがどこかであるのではないかという着想を払拭できなかった。そうした着想は心配性で、今までそうした幸福に縁がなかったことも多分に影響しているに違いない、と克文は思った。
ランチは、公園の売店で摂ることにした。二人はたこ焼きとビールを買って、桜の木の下に移動した。
「花見なんて、何年ぶりかな」と克文。
「私は毎年花見してるよ」
「僕は昔、会社で花見に行ったことがあったな。それ以来か」
「会社ね~。楽しかった?」
「ぜんぜん。会社の飲み会で楽しいことはなかったよ」
「……そうなんだ。じゃあ、フリーランスになってよかったね」
「そうだね。フリーランス万歳だよ」
「ストレスのない働き方が一番だよね」
「うん。僕が勤めていた会社はどこもストレスの温床だったからね」
近くでは家族連れが弁当を広げていた。男の子は未就学児に見えた。また、若いカップルが何組か近くにいた。皆、春爛漫の光景を彩っていた。
「しかし、『ストレス』ほど今の状態に似つかわしくないものはないよね」
「つまり、どういうこと?」
葵は笑っていた。
「楽しい、嬉しいってことだよ」
「へぇ~、よかったね」
克文はビールを呷る葵を見ていた。その横顔は眩しいほどだった。葵と一緒にいて楽しくも、嬉しくもない男がいるだろうか? 絵に描いたような幸せとはこの瞬間ではないだろうか、と克文は思った。次の瞬間、心配の種がひらめいた。明け方の性交が原因だった。そのとき、克文は射精をコントロールできずに、膣内に射精してしまったのだった。葵は気にしていないようだったが、そのことが何か悪い影響を与えていないかと心配していた。
「そう言えば、さっきは中に出してごめんね。わざとじゃないんだ」
克文は言い訳がましく言った。
「気になる?」
「まあね」
「大丈夫だよ。生理が来たら教えるよ」
「うん」
葵は何事もなかったかのようだった。四一という年齢から妊娠しにくくはなっているだろうが、妊娠しても良いのだろうか?
「私はどっちでもいいけど、克文くんが責任取れるなら中に出せばいいし、責任取れないなら外に出せばいいよ」
葵は克文が何も訊かないうちに言った。それは嬉しすぎる言葉だった。
「そうか……」
克文は言葉が出てこなかった。
「まあ、妊娠なんてしないから安心していいよ」
葵はそう言って、たこ焼きを口の中に入れた。
「それは何か根拠があるの?」
「不妊治療受けてたの。でも、妊娠しないし、止めたんだ」
「へぇ~、そうなんだ」
「なんか妊娠のためにヤるってのもね。楽しくないし」
「ああ、それはわかる気がするな」
それから二人は無言で飲食した。葵は気分を害したのかもしれなかった。克文はボール遊びに興じている男の子が気になった。間が悪い存在だった。妊娠しないことの辛さは克文にはわからなかった。少なからず彼女は苦しんだだろうし、現在も苦しんでいる可能性もあった。それについて、克文が何か力になれるとは思えなかった。
「今日はこの後どうする?」と克文は訊いた。
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