『インセプション』

 目覚めたときの安堵感と徒労感はひどかった。おまけに頭の痛みがうずいた。克文は自分が病院にいることに気づいた。頭を触ると、包帯が巻かれていた。髪は剃り上げられていた。

 克文がナースコールのボタンを押すと、中年の女性の看護師がやって来た。次に若い男性の医者が来て、克文に説明した。曰く交通事故に遭って、この三日間ずっと寝ていた。骨折はしてないが、頭を打ったので心配していた。しかし、脳波に異常はない。しばらく様子を見て何もなければ、退院できる、とのことだった。克文がスマートフォンのことを訊くと、病院で預かっているということだった。

 克文は特定の時間帯だけに利用することに同意してスマートフォンを返してもらったが、そのとき看護師から緊急連絡先に電話したことを教えてもらった。克文はさっそく実家に電話した。妹が出た。妹は自分の声を聞くと、「どんな状況よ?」と急き込んで訊いてきた。妹に状況を伝えると歓喜の声を上げた。克文は「親にも伝えといてくれ」と言って切った。

 交通事故で意識不明と聞いたら絶望は相当なものだっただろうな、と克文は思った。しかし、克文の絶望もまた小さくなかった。つまり、自分が葵や朋恵と持ったと思った関係は何一つ現実ではなかったことに対する絶望である。

 克文は病院を探索してみた。大きな総合病院であり、食堂や売店があった。時間は昼の二時過ぎだった。すでに空腹を通り越していて食欲はわかなかったが、トイレの鏡で見た様子から食べないとまずい気がした。克文はガラガラの食堂できつねうどんを食した。

 次に売店で着替えのスウェットを購入した。本屋では、文庫本の小説を物色した。克文はそうしているうちに、夢を書き留めておかないと、という気になり、ノートとペンを買った。


 翌日の昼、克文は自分を呼ぶ声で昼寝から目覚めた。病室には朋恵と看護師がいた。朋恵が来るとはまったく予想していなかった克文にとって、嬉しすぎるサプライズだった。

 カーテンを閉めて、二人きりになると、克文は若い女のストライプのブラウスやら後ろでまとめられた髪やらをずっと見ていたいと思ったが、朋恵の目に当惑の色が浮かんでいるのを見逃さなかった。

「今日は来てくれてありがとう」

「従兄さんの近くに住んでるの私しかいないからね。意識が戻って良かったよ。交通事故って、どんな状況だったの?」

「それが覚えてないんだよ。歩行してるとき、車かバイクにはねられたらしい。飲みすぎてたのは間違いないんだけど。ずっと寝てて、その間、いろいろと夢を見てね。ある意味で有意義な時間だった気がする」

「有意義って、マジで!?」

 朋恵は素っ頓狂な声を出した。

「うん、夢は脳のデフラグって言うでしょ。夢が現実に与える影響は無視できないんじゃないかな」

「なんか映画みたいだね」

「『インセプション』でしょ」

「そうそう」

「あれは傑作だったね」

「だね」

「……」

「でも、無事で良かったよ」

「君も」

「えっ、それってどういう意味?」

「何かあったんだろ?」

「……まあね。でも、なんでわかるの? あっ、SNSか」

 朋恵は話そうかどうか迷っているように見えた。

「いいんだ。今は話さなくても。今度、飲みに行こう」

「いいですけど」

 飲みの場所と日時を決めると、「それは何のノートですか?」と朋恵はノートに視線をやった。

「な、なんでもない」

 克文は思いがけない問いに焦った。

「もしかして、日記?」

「まあ、そんなところだ」

「入院って退屈ですもんね。じゃあ、私はこれで失礼します」

「ああ、じゃあ、また来週」

「うん」

 女は糸を引くような流し目を送って、視界から消えた。


 電車の中で、朋恵はノートの写真を眺めていた。克文が寝ているときにノートをチラ見して、悪いとは思ったが、気になったので、三ページにわたり、スマホで写真を撮ったのだった。

 それは、小説のあらすじのようだったが、ほとんど判読できなかった。ただ、自分らしき女性ともう一人の彼女らしき女性が登場するのは、明らかであり、微笑ましくなった。朋恵は今、彼氏と微妙な関係になっていたが、克文もまた、同じような状況に悩んでいるように思えたからだった。

 朋恵は従兄と恋人同士になる可能性を考えた。今日克文が見せた無防備な寝顔をかわいいと思ったのだった。それは何か心を許したくなるような顔だった。

 朋恵は来週男と会う場所の五反田の店を検索した。(了)

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従妹 spin @spin

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