幕間1 遥香の渦
─────昔から、わたしは流されやすい性格だった。
嫌な事があったら愛想笑いを浮かべて、「しょうがないなぁ」と割り切った。
誰かと衝突が起きそうだったら「確かに、それもありだね」と本心を偽った。
わたしは自分のことが、大嫌いだ。
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わたしが通っている高校。
そこでのとあるお昼休み。
「ねぇ遥香。私お昼忘れちゃってさ。ちょっとだけお金貸してくれない?」
顔だけは一丁前に申し訳なさそうに、わたしの友だちであり、幼なじみの───理恵が頼み込んできた。
「えっと………。この前貸したお金は………」
「大丈夫大丈夫。それはまた今度返すからさ。だから……ね」
もう何度目かのやりとりだ。貸した金が返ってくることはないだろう。
「あの……わたしも今あんまり持ってなくて………」
「あ、理恵お待たせー」
「ごめんねー。待った?」
理恵のそばにぞろぞろと人が集まる。
通称理恵グループと呼ばれる、クラスカーストの高いグループだ。
「で、なんだっけ遥香」
理恵がにこやかな顔でこっちを向く。
理恵グループの面々も滑稽なものでも見るような顔で見つめてくる。
「いや、なんでも………」
「あっそ。じゃ、早くお金貸して」
わたしからたかれない時の常套手段。周りを味方につけて圧力をかける。
こうすれば、わたしが絶対にお金を貸してくれると知っているのだ。
「………う、うん」
財布から数百円程度を差し出す。
「………はぁ。ねぇ、遥香。最近ちょっと調子乗ってない?」
ふと、わたしがその場から立ち去ろうとした寸前、理恵が真顔で問いかけてきた。
「……え?別にそんなことないと思うけど………」
「………ふ〜ん。じゃあ店長さんによろしく言っといてね。あんたのサボり、報告しといたから」
「何をしてるんだキミは!」
「がはっ!」
中年の男、もとい店長に殴り飛ばされる。
衝撃でわたしは体から思いっきり倒れ込んだ。
鼻からは、たらたらと血が流れている。
「欠勤は許さんと何度も言っていたはずだが?」
頭がくらくらして、視界が定まらない。
「誰が!キミを!雇ってやっていると!思っているんだ!」
何度も何度も蹴られる。
その度にあざができてゆく。
「…………店長です。……すみませんでした、もう二度としません」
その言葉を聞いた途端、一瞬だけ店長の顔が緩んだのを見逃さなかった。
いつもと同じ、この人は上下関係を叩き込むのと、それを確認して高揚感に酔いしれるのが堪らなく好きなのだ。
「………ふぅ。今日はこれくらいにしといてやる。だが、次はないからな」
店長はそう言って、去り際にわたしを睨んだ。
───わたしはバイトを欠勤した。
理由は深くない。ただのサボりだ。
このバイトは他より多少ブラックだった。平日は毎日学校から帰ったら夜遅くまで。休日は朝から夜まで仕事づくし。
ちょっとぐらいサボりたいと思うのは、仕方のないことだろう。
店長は、表では温厚な皮を被っているが、裏はこの通り。体裁を気にしてるだけの粗暴で、暴力的な人だ。
だが、それでも腕は確かだった。
一流と言っても過言ではないパティシェで、実際に、いくつかの賞も受賞していた。
盗める技術も沢山あった。だから、わたしは耐え忍ぶことこそ大事だと思い込むよう努めた。
日付が変わる頃、バイトを終えたわたしは、なんとか家に辿り着いた。
鍵を使い、玄関を開く。
「おっとっと」
危ない危ない。蹴られたせいか、まだ脚がふらつく。
店長も流石に頭が回る。
脚は痛いし、ふらつくが、あざや傷までには至ってない。
外傷をつけるのは人目がつかない箇所に徹底しているのだろう。
現に、今日殴られた肩にはあざが出来ていた。
そんな考察をしながら、壁に手をつき、なんとか廊下を歩く。
やがて明かりが漏れている居間が見えた。
「あー!ちょっともー、お母さん。お酒は零さないようにって言ったじゃん」
これもいつも通りだ。夜遅く帰ると、母は酔い潰れて寝ている。
稀に起きていることもあるが、そういう時はこぞって機嫌が悪い。
お母さんは、物心ついた頃にはすでにこういう人だった。
家事も仕事もせず、朝から晩まで酔いを回している。
そのくせ、わたしに対する束縛は強かった。
亡くなった祖母曰く、夫に逃げられてから人が変わってしまったらしいが、真実は与り知らない。
床に零れた酒を匂いが付かないよう入念に拭き取る。散らばったゴミは袋に一まとめにした。
「………おやすみ、お母さん」
今日は冷える。
お母さんの部屋から毛布を取って来て、それを肩にかけてやる。
こんなでも、わたしの残された唯一の家族だ。
その後、わたしも眠りにつく。
─────これがわたしの一日。
もちろん毎日こんなではないが、格段大きな違いがあるわけでもない。
「…………」
嫌なことを嫌と叫べない、こんなわたしが、わたしは大嫌いだった。
だが、人というのはそう簡単に変われるものではない。
…………いや、言い訳か。
その言い訳の積み重ねのせいで、今のわたしになった。
もっと勇気があればと、いくら思ったことか。
せめて、勇気をくれる人がいたらと………ないものねだりまでし始めたところで、またわたしのことが嫌いになる。
まるで渦のような自己嫌悪。
何を考えても、最終的にはわたしに嫌気がさす。
この先、生きていて楽しいことなんてあるのだろうか。
もういっそ、死んでしまった方が──────。
「…………」
長い一日は終わる。
そしてまた、わたしのことなどお構いなしに、新しい一日がやってくる。
────────七瀬遥香が天使と出会うのは、──────そこから間もなくのことだった。
END
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