幕間1 遥香の渦

 ─────昔から、わたしは流されやすい性格だった。

 嫌な事があったら愛想笑いを浮かべて、「しょうがないなぁ」と割り切った。

 誰かと衝突が起きそうだったら「確かに、それもありだね」と本心を偽った。

 わたしは自分のことが、大嫌いだ。


   ♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎


 わたしが通っている高校。

 そこでのとあるお昼休み。

「ねぇ遥香。私お昼忘れちゃってさ。ちょっとだけお金貸してくれない?」

 顔だけは一丁前に申し訳なさそうに、わたしの友だちであり、幼なじみの───理恵が頼み込んできた。

「えっと………。この前貸したお金は………」

「大丈夫大丈夫。それはまた今度返すからさ。だから……ね」

 もう何度目かのやりとりだ。貸した金が返ってくることはないだろう。

「あの……わたしも今あんまり持ってなくて………」

「あ、理恵お待たせー」

「ごめんねー。待った?」

 理恵のそばにぞろぞろと人が集まる。

 通称理恵グループと呼ばれる、クラスカーストの高いグループだ。

「で、なんだっけ遥香」

 理恵がにこやかな顔でこっちを向く。

 理恵グループの面々も滑稽なものでも見るような顔で見つめてくる。

「いや、なんでも………」

「あっそ。じゃ、早くお金貸して」

 わたしからたかれない時の常套手段。周りを味方につけて圧力をかける。

 こうすれば、わたしが絶対にお金を貸してくれると知っているのだ。

「………う、うん」

 財布から数百円程度を差し出す。

「………はぁ。ねぇ、遥香。最近ちょっと調子乗ってない?」

ふと、わたしがその場から立ち去ろうとした寸前、理恵が真顔で問いかけてきた。

「……え?別にそんなことないと思うけど………」

「………ふ〜ん。じゃあ店長さんによろしく言っといてね。あんたのサボり、報告しといたから」



「何をしてるんだキミは!」

「がはっ!」

 中年の男、もとい店長に殴り飛ばされる。

 衝撃でわたしは体から思いっきり倒れ込んだ。

 鼻からは、たらたらと血が流れている。

「欠勤は許さんと何度も言っていたはずだが?」

 頭がくらくらして、視界が定まらない。

「誰が!キミを!雇ってやっていると!思っているんだ!」

 何度も何度も蹴られる。

 その度にあざができてゆく。

「…………店長です。……すみませんでした、もう二度としません」

 その言葉を聞いた途端、一瞬だけ店長の顔が緩んだのを見逃さなかった。

 いつもと同じ、この人は上下関係を叩き込むのと、それを確認して高揚感に酔いしれるのが堪らなく好きなのだ。

「………ふぅ。今日はこれくらいにしといてやる。だが、次はないからな」

 店長はそう言って、去り際にわたしを睨んだ。



 ───わたしはバイトを欠勤した。

 理由は深くない。ただのサボりだ。

 このバイトは他より多少ブラックだった。平日は毎日学校から帰ったら夜遅くまで。休日は朝から夜まで仕事づくし。

 ちょっとぐらいサボりたいと思うのは、仕方のないことだろう。

 店長は、表では温厚な皮を被っているが、裏はこの通り。体裁を気にしてるだけの粗暴で、暴力的な人だ。

 だが、それでも腕は確かだった。

 一流と言っても過言ではないパティシェで、実際に、いくつかの賞も受賞していた。

 盗める技術も沢山あった。だから、わたしは耐え忍ぶことこそ大事だと思い込むよう努めた。



 日付が変わる頃、バイトを終えたわたしは、なんとか家に辿り着いた。

 鍵を使い、玄関を開く。

「おっとっと」

 危ない危ない。蹴られたせいか、まだ脚がふらつく。

 店長も流石に頭が回る。

 脚は痛いし、ふらつくが、あざや傷までには至ってない。

 外傷をつけるのは人目がつかない箇所に徹底しているのだろう。

 現に、今日殴られた肩にはあざが出来ていた。

 そんな考察をしながら、壁に手をつき、なんとか廊下を歩く。

 やがて明かりが漏れている居間が見えた。

「あー!ちょっともー、お母さん。お酒は零さないようにって言ったじゃん」

 これもいつも通りだ。夜遅く帰ると、母は酔い潰れて寝ている。

 稀に起きていることもあるが、そういう時はこぞって機嫌が悪い。

 お母さんは、物心ついた頃にはすでにこういう人だった。

 家事も仕事もせず、朝から晩まで酔いを回している。

 そのくせ、わたしに対する束縛は強かった。

 亡くなった祖母曰く、夫に逃げられてから人が変わってしまったらしいが、真実は与り知らない。

 床に零れた酒を匂いが付かないよう入念に拭き取る。散らばったゴミは袋に一まとめにした。

「………おやすみ、お母さん」

 今日は冷える。

 お母さんの部屋から毛布を取って来て、それを肩にかけてやる。

 こんなでも、わたしの残された唯一の家族だ。

 その後、わたしも眠りにつく。

 ─────これがわたしの一日。

 もちろん毎日こんなではないが、格段大きな違いがあるわけでもない。

「…………」

 嫌なことを嫌と叫べない、こんなわたしが、わたしは大嫌いだった。

 だが、人というのはそう簡単に変われるものではない。

 …………いや、言い訳か。

 その言い訳の積み重ねのせいで、今のわたしになった。

 もっと勇気があればと、いくら思ったことか。

 せめて、勇気をくれる人がいたらと………ないものねだりまでし始めたところで、またわたしのことが嫌いになる。

 まるで渦のような自己嫌悪。

 何を考えても、最終的にはわたしに嫌気がさす。

 この先、生きていて楽しいことなんてあるのだろうか。

 もういっそ、死んでしまった方が──────。

「…………」

 長い一日は終わる。

 そしてまた、わたしのことなどお構いなしに、新しい一日がやってくる。

 


 ────────七瀬遥香が天使と出会うのは、──────そこから間もなくのことだった。


                END






 





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