第7話 致命的な誤算

 遥香の通っている学校は知っている。

 わたしは透明化して、学校に忍び込んだ。

 だが────そこに遥香の姿はなかった。

 遥香の席だけがぽっかりと空いていた。

 次に、遥香の家に忍び込んだ。

 いくらインターフォンを鳴らしても反応が無かったため、家の鍵がかかってなかったことをいいことに、勝手に侵入してしまった。

 玄関を通って右折すると、居間が見えた。


 ────そこは酷い有様だった。


 床やつくえに散乱したゴミや酒瓶の数々。

 むせ返るようなタバコと酒の匂い。

 少し前までは掃除されていたのか、隅にゴミ袋が纏められている。つまり、たった少しの間で、ここまでの汚部屋に成り下がったということだろうか。

 中心で、女性のヒトが酔い潰れている。

 遥香と髪色や目元が似ている。母親かもしれない。

 勇気を出して、声をかけてみることにした。

「すみません!ハルカのお母さんですか!?ハルカがどこにいるか知ってますか!?」

 肩を揺らして聞いてみる。

 焦っていたせいで、少し乱雑だったのがいけなかったのかもしれない。


 突然、頭に何かが振りかざされた。


 あまりの驚きに、痛みはなかった。ただ少しスースーするこめかみに手を当ててみる。

 ───赤い。こんなのは、はじめて見る。

 ───朱い。たらたらと流れていて、生温かい。

 ───紅い。視線を吸い込んで埋め尽くす色。

 これ──────血?

 腰が抜ける。

 それでも、その場から必死に離れようと、手と足を使って醜い動きで遠ざかる。

 犯人はあの女性だ。凶器は手元に持った酒瓶。割れて、破片が飛び散っている。

 透明化は解いていない。女は、今もキョロキョロと虚空を見つめている。

 おそらく、適当に振ったのが当たってしまったのだろう。

 天使の生命力は高い。こんな程度じゃ致命傷にはなり得ない。

 しかし、恐怖心は存在する。

 初めて見た血。

 そして、女の、殴るときに見せたあの眼。

 遥香の友だちにもあった、誰かを傷つけるようなその眼が、とにかく恐ろしかった。

 わたしは、家からどうにか逃げ出した──────。



 こめかみの血は止まった。血痕も、水で軽く洗い流すことで落とせた。

 その後行った遥香のバイト先は定休日らしく、店は閉まっていた。

 ここまで探しても見つからず、深いため息をつく。

 いったい、遥香はどこへ行ってしまったのだろう。

 


 そこから、とぼとぼと都心にある、ヒトだらけの趙糸駅周りを探し回ることにした。

 もちろん、当てもなく探して見つかるはずもない。

 時間だけが過ぎ去り、やがて日は暮れて、空は黒で覆われた。

 一日中、脚が棒になるほど歩き回ったせいで、疲労が限界を迎えた。

 ………目の前にあるのは建設途中のビル。

 夜は人払いされてるため、静かに過ごすには丁度いい場所だ。

 休憩がてら、そこに入り込むことにした。

 ペンキや金属の匂いが鼻にかかる。

 しかし音はない。それが心地いい。

 ゆっくり休みたい。しかし、決断した以上、一刻も早く見つけ出さねばならない。

 遥香はどこにいるのだろう。心配と不安が増していく。

 家庭には、闇があった。

 思えば、遥香の別側面に気づくヒントはあった筈だ。自分の至らなさに無力感を覚える。

 さっきから本当に落ち込んでばっかだ。

 ぼろぼろと目から涙が出てくる。

 これも初めての事だ。

 わたしは、泣いている。

 哀しくて、悔しくて、胸が痛くなるほどの激情。

 意識的には止められない。そもそもそれは、無意識に出てしまうものだから。

 奇しくも、ライヤーが言っていたことを思い出す。

「生きるのが辛いって、こういう事だったんだ」

 遥香は学校も、家も、バイト先まで居場所がなかった。

 わたしが今抱いている悲しみなど、比較にもならないほど辛い筈だ。

「強いなぁ。ハルカは」

 それでも、生きようとした。生きて生きて、生き延びて、幸福を掴み取ろうとした。

 わたしたち天使の手助け───介錯など、何一ついらない強さがあったのだ。

「…………」

 これ以上会話など、する必要ないのかもしれない。

 彼女は不幸だ。天使から見ても、憐れみを覚えるほどの。

 だが、絶望はしていない。前を向いて歩いているのだ。

 ならば、それをどうして他人が、それも天使ごときが不幸と断じて殺せようか。

 お邪魔虫のわたしは、とっと彼女の人生から退場すべきだ。

 ───答えは得た。

 会話はしなかったが、わたしは選べた。

 天使なんて必要ない。

 ヒトに幸福を与えるなど、余計なお世話だったのだ。

 それがわたしの答えだ。

 泣いて、考えて、ハルカの強さを知ったら、眠くなって来てしまった。

 もう、寝よう。

 それが永遠の眠りになっても構わない。

 そう思えるほど、今は気持ちのいい気分だった。

「でも、最後に会えなかったのはちょっぴり悲しいなぁ」

 そう言って、天使の視界は暗転した。


 その姿はまるで─────おさない、ただの人の女の子のようだった。



 一人寝静まった天使の上に、影がかかる。

「………あはは、全く。風邪引くよ」

 そう、わたし。遥香だ。

 ウィシュタリアが寝静まった場所は、奇しくも、わたしがいた階の下の階だった。

 だから、この子の涙や言葉を、一部始終観ていた。

 この子が最後まで何者だったかはわからないし、知る必要もない。

 ただ、わたしを覚えてくれる友だちという事実だけで十分だった。


 だが、一言。

 最後の一言が余計だった。


「わたしは、強くなんかないよ」

 天使の最大の誤算。それは遥香に対する過大評価だった。

 流されるままに笑顔を振りまいて生きてきただけ。

 夢はあったけど、半ばで折ろうとした半端者。

 しまいには、友だちを見捨てて果てへと逃げようとした卑怯者だ。

 強いなんて、今一番言われたくない言葉だった。

 どちらにせよ、もうかなり一酸化炭素を体内に取り込んだ。助からないことは変わらない。


 だが、最後にやらなきゃいけない事が出来た。


「………ん」

 まだ何も知らない幸せそうな寝顔。可愛らしい。生まれたての赤ちゃんみたい。

 この子はとても純粋だ。それ故、わたしみたいにはなって欲しくない。

 純粋なまま成長するのは不可能だ。

 それを成し得るには、この世界があまりに腐り過ぎている。

 いずれ、何処かで穢れや悲劇を知ってしまうだろう。

 それは、もっと遠い未来か、はたまたすぐ近くに現れるかもしれない。

 それを防ぐのは、例えわたしが居ても不可能だ。

 しかし、緩衝材なら敷ける。

「─────」

 遺書に使おうと思っていた紙。

 これを誰のためでもない、ウィシュタリアのために使おう。

 別に後悔はない。

 書く内容が好きでもない人への哀しい別れ言葉から、好きな人のこの先を応援する祝福に変わったんだ。

 筆が乗るというものだ。

「やばい、朦朧としてきた……」

 頭がズキズキする。意識が段々薄れてゆく。死に際を彼女に見せるわけにはいかない。

 手紙を書いたら急いでビルから離れなければ。

「あ、そうだ。あれも渡さないと。ふふっ、ウィシュならびっくりしてくれるかな」

 ふんふーんと、鼻歌を唄いながらペンを走らす。

 最後まで、幼い唯一無二の友だちの前で涙を流さなかったのは、我ながら頑張った方だと思った。























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