第23話 ハインズ市
ハインズ市に到着した伊織たちが真っ先に向かったのは服屋だった。
「二人とも一緒に来い」
馬車を服屋の前に駐めるとグレイスとローラにも一緒に店へ入るようにうながす。
伊織たちが入った店は平民向けの服屋ではあったが、富裕層を中心に売上を伸ばしており、このハインズ市でも一にを争う規模の大店であった。
「いらっしゃいませ」
愛嬌よく迎えた店員の表情が一瞬で固くなった。
入ってきたのが成人女性一人と年若い男女、そして子どもという取り合わせではしかたがなかったかも知れない。
しかも、唯一の成人であるグレイスの服が粗末なものである。
グレイスとローラの服はエメルト商会の従業員から買い取った旅装なので決してみすぼらしい身なりではなかった。
しかし、サイズが微妙に合っていないことと、服がくたびれていたことが店員にみすぼらしい印象を与える。
「どちらの家の方でしょう?」
店員の口調が変わった。
「家がどうかしましたか?」
「家ってどういうことでしょうね?」
店員に聞き返す伊織に同調してアルマが小首を傾げた。
「さてはお前ら雇用されたばかりだな。この不手際を黙っていて欲しかったら……、分かるだろ?」
新規に雇用した使用人のほとんどは、試用期間を設けられ、その間の働き具合でそのまま雇用されるかクビにされるかが決まる。
不手際を雇い主に報告されたくなければ相応の金をよこせと言っているである。
「分かりません」
「頭の悪いヤツだな。俺がお前の不手際を主人に報告したらクビにされるんだぞ。それが嫌だったら幾らか包めと言っているんだ」
店員の顔に意地の悪い笑みが浮かんだ。
合点のいった伊織がうなずく。
「そういうことですか」
「やっと分かったか」
「生憎ですがお金は購入した服の代金しかお渡しするつもりはありません」
意に反した返答に店員の態度がますます険悪になる。
「どこの家の使用人か知らないが、そんな態度だと後悔することになるぞ」
「申し訳ありません、お話なら私がうかがいます」
グレイスが慌てて間に入ったが、店員の暴言は止まらない。
「いまさら遅いんだよ。お前たちの無能さと失礼な態度は商品を届けるときに伝えるからな。せいぜい
「なんの話をしているんですか?」
本気で話の見えていないアルマが真顔で聞き返した。
すると店員がアルマを無視してグレイスに高圧的な態度で詰め寄る。
「いいから、さっさと用件を言え! こっちは忙しいんだよ!」
「大変失礼いたしました。いま、用件を確認いたします」
グレイスは店員に少し待つように告げて伊織の下に駆け寄る。
そのとき、店の奥から背の高い温和そうな紳士が現れた。
紳士が店員を注意する。
「ハンス、店のなかで大きな声を上げるものではありません」
「申し訳ありません」
謝るハンスに紳士が、何があったのかと聞いた。
「こちらの使用人が要領を得ないことばかり言うので、主人に報告しなければならない事態になると伝えたところです」
「要領を得ないとは?」
「用件を聞いたのですがどうやら忘れてしまったようです。それどころか、どこの家の者か聞いても答えられない始末です」
恐らく新規に雇用した使用人でしょう、と言った。
老紳士は顔を青ざめさせるグレイスの横で泰然としている伊織に聞く
「失礼ですが、本当にご用件をお忘れなのでしょうか? もし、ご用件をお忘れになったのでしたら改めてご足労頂けますとありがたいです」
深々とお辞儀をする老紳士に伊織が答える。
「この二人の服を買いに来ました。塩や胡椒を取り扱う店で働くための服と普段着る服。併せて下着類と靴も揃えられるなら揃えたいと思っています」
伊織がグレイスとローラを示した。
老紳士は一瞬驚いた表情を浮かべたが、直ぐに平静を取り戻して聞く。
「何着揃えればよろしいでしょうか?」
「下着類は毎日替えるから十着もあれば。店で着る服も十着、普段着は五着でお願いします」
そこまで言ってアルマに聞く。
「女性の服ってよく分からないけどどうだろう?」
「長雨の季節もあるので下着はもっと多くても良いと思います」
「そ、そんなに必要ありません。二、三着あれば十分です」
とグレイス。
「数少ない服を着回すような店員が切り盛りする店、という印象を持たれたくない。だから見栄えのする服を普段から着るようにしてくれ」
「そういうことでしたら」
伊織はグレイスから老紳士に視線を戻す。
「ということなので、相応の服を揃えて貰えると助かります」
「畏まりました。領収書の宛名はいかがいたしましょう?」
「モガミでお願いします」
「モガミ家、様ですね」
老紳士は記憶をたどるがモガミの家名に思い当たるものがなかった。
失礼のないように聞き返す。
「服はどちらにお届けすればよろしいでしょうか」
「実はこれから不動産屋へ行って家と店を買う予定なんです。それどころか、今夜の宿もまだ決めていないので服の届け先は後日お知らせすると言うことで良いでしょうか?」
「さ、さようですか……」
予想外の回答に面食らう老紳士。
それを見ていたグレイスが慌てて言う。
「エメルト商会のテオ様からご紹介頂きました」
グレイスはそう言うと、伊織に「テオ様から紹介状を頂いていましたよね」と聞く。
「え? エメルト商会? まさか、こんなガキが……」
老紳士の背後でハンスが顔を青ざめさえた。
ハンスが息を飲んで見詰めるなか、伊織が一通の書状を老紳士に渡した。
「確かに、エメルト商会の商会長からの紹介状で間違いございません」
深々とうなずく老紳士の背後でハンスが崩れ落ちた。
「ハンス、お前には後で話がある。だが、ここにいてはお客様のご迷惑になる。裏に下がっていなさい」
「だ、旦那様、私は」
「下がっていなさい、と言ったのだよ。私は」
「は、はい」
肩を落として店の奥へと消えるハンスを伊織は哀れな者を見るような目で見ていた。
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