第4話 異世界

 志乃の姿が揺らいだと思った次の瞬間、伊織の眼前には草原が広がっていた。

 夏草の匂いが伊織の鼻腔を刺激する。


 柔らかな陽射しを受ける草原を穏やかな風が吹き抜けた。

 波のようにうねる草原を呆然と見詰めていた伊織が虚空に呼びかける。


「おーい! 志乃さーん!」


「無駄です」


 アルマが冷静に突っ込んだ。

 しかし、伊織は彼女の言葉を無視してなおも虚空に呼びかける。


「祖母ちゃん、返事してくれー!」


 虚空に自分の声が消えると、伊織は力尽きたようにその場にしゃがみ込んだ。

 自分のことを無言で見詰めるアルマに問いかける。


「どうしたんですか?」


 醜態しゅうたいさらしたこと気付いた伊織が不機嫌な視線を向けた。


「いいえ、本当に魔王様のお孫さんなのだなあ、と思っていただけです」


「ところで、どうして祖母ちゃんのことを魔王様って呼ぶんですか?」


 アルマが志乃のことを「魔王様」と呼ぶのを耳にしてから気になっていたのだが、このタイミングで聞いたのは気恥ずかしさをごまかすためでもあった。


「魔力を輸出品目として初めて取り扱い、ターミナルでも最大規模の貿易商社を一代で築き上げた方だからです」


「意外としょうもない理由ですね」


 魔王と呼ばれていたのでもっと禍々しいことを想像していただけに拍子に抜けしたように言った。


「しょうもないだなんて、とんでもありません。魔力が他の世界に広がることであらゆる方面で魔力が利用され、科学と魔力の融合が成されたのです」


 せきを切ったように志乃の功績を喋り続けるアルマを伊織が止める。


「分かりました。俺が間違っていました。祖母ちゃんの偉大さがよく分かりました」


「まだまだ、こんな者じゃありません」


 話したりない、続きを語らせろと目を輝かせるアルマに向けて伊織が唐突に話を変える。


「続きは後ほど伺います。それよりも、ここがどこだかわかりますか?」


「ここは〝Σ-7658143926〟ですね」


 多機能ブレスレットの操作パネルを確認しながらアルマが言った。


「Σ-7658……」


「〝Σ-7658143926〟です」


「そのシグマなんとかというのはどこです?」


「略称は〝ジュノー〟。あたしたちの赴任地で間違いありません」


「ここが魔法が存在する異世界という認識で間違いありませんか?」


 伊織は「略称があるなら早く教えて欲しい」、と思いながらも質問を続けた。


「数多ある世界の一つですが、概ねその認識であっています」


 ジュノーと呼ばれる異世界。


 文明レベルは地球の中世ヨーロッパほどで、文化も中世ヨーロッパに酷似している地域が大部分を占める。

 大きく違うことは魔法と魔物が存在する世界であること。


 転送された地域が四つの国の国境が入り組む緩衝地帯に近いことをアルマが説明した。


「アルマさんがこの異世界に詳しいようで安心しました」


「詳しくはありません」


 首を横に振り、多機能ブレスレットに届いていた指示書に記載されていたことを改めて説明しただけだと告げる。


「ここに来るのは……?」


「初めてです」


(『初めてです』頬を染めた美少女のそうささやかれるのってドキドキするなあ。こんな状況じゃなきゃな!)


 伊織の心拍数が上がる。


(違う意味でドキドキしてきた……)


「指示書に書かれている以外の知識は?」


「その、少しだけなら。本で読んだ知識くらいです」


 情けなさそうに意気消沈するアルマ。

 その困っている姿に、彼女自身も素人のダンジョンマスターの秘書にされ不安でいっぱいなのだ分かる。


「改めてよろしく。俺は最上伊織。アルマさんの習慣だと、イオリ・モガミになるのかな?」


 自身が日本の高校生であること、最上志乃の孫であること。

 突然、後継者として呼ばれたことを説明した。


「十八歳になったばかりの、何も分からないド素人のダンジョンマスターだけどよろしくお願いします」


「こちらこそよろしくお願いいたします」


 深々とお辞儀をしたアルマが改めて自己紹介を始める。


「アルマ・ファティと申します。今年、大学を卒業したばかりの十六歳です。私もド素人の新人秘書です。ご迷惑をお掛けすることと思いますがよろしくお願いいたします」


「十六歳?」


「はい、十六歳です。一年間の時間の長さは地球と同じなので二つ年下と言うことになります」


 多機能ブレストで呼び出した情報で確認したので間違いないとアルマが言う。


(子どもっぽい外見だとは思っていたが年下だったのか……)


「お互いに敬語はなしでいいかな?」


(俺の方が年上で上司なんだからいいよな)


「あたしに敬語は不要です」


「アルマも敬語を使わないで構わないぞ」


「滅相もありません。後継者様に対して敬語を使わないなんてありえません!」


「そう? まあ、それじゃ話しやすいように話して」


「畏まりました」


 お互いに年齢も近いので慣れてくれば妙な呼称や敬語もなくなるだろう、と伊織はその話を打ち切った。


「それでこれからどうする?」


「お待ちください、何かが転送されてくるようです」


 アルマが五メートルほど先の空間を指さすと、空間が陽炎のように揺らぎそこから馬と馬車が現れた。


「馬? 馬車?」


「魔王様からのメッセージです」


 アルマが操作パネルのメッセージを読み上げる。


「えーとですね、『現地の馬と馬車、カモフラージュ用の食料と旅の道具類を送る』。あと、『ファトノバ市を目指せ』と書かれています」


 アルマがパネルを操作して現地の地図を呼び出した。

 二人の眼前に地図が浮かび上がる。


「青く点滅しているのが俺たちかな?」


「はい、点灯しているのがあたしで点滅しているのが後継者様です。そして、ここがファトノバ市です」


 地図の一点を指さした。

 街道を真っ直ぐに進めば到着する、迷いようのない親切な目的地である。


「一本道で、割と近そうに見えるな……」


「馬車で五日くらいですね」


「意外と遠かった」


「早速、馬車の積み荷を確認しましょう」


 操作パネルに積み荷のリストを表示させたアルマが馬車へと歩き出した。


「その前に、多機能ブレスレットの使い方を教えて貰えて欲しいんだけど」


「え?」


「祖母ちゃんに貰ったんだけど、操作説明を聞いてないんだ」


「そこからですか!」


 驚きの声をあげるアルマの脳裏に「前途多難」という単語が浮かぶ。


「すまない、本当に何も知らないんだ。ド素人だと思って接してくれ」


(自分で言っておいてなんだが、落ち込むなあ……)


「大丈夫です! 後継者様は大船に乗ったつもりで、全てこのあたしにお任せ下さい」


 胸をはるアルマに頼もしさを憶えたのは一瞬のこと。

 伊織の脳裏に彼女のポンコツ振りが蘇る。


「頼りにしているというか、一緒に頑張ろう」


「それじゃあ、説明を始めますね」


 アルマは「フンスッ」と鼻息も荒く、得意げに多機能ブレスレットの説明を始めた。

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