第8章 カルパスとグレフルサワーと葦原南瀬
29杯目 必要だから
「はああ」
机に開いた教科書に目を落とし、大して頭に入ってこないことを知って、大きな溜息を一つ吐き出す。カーテンの隙間から「大丈夫かよ」とせせら笑うように月が明るく照らした。
期末テスト前日の夜なのに、今日の夕方の夕映との会話を思い出して勉強が手につかない。生物の図解も日本史の西暦もどんどん抜けていって、頭の中を巡るのは彼女のことばっかりだった。
スマホをタップし、写真を見返す。遊園地デートのときまで遡ると、夕映と伊月と3人で撮った写真や、夕映がレインボーグラスを掲げている写真が出てくる。
スライドしていくと、その日最後の写真は、観覧車に乗って景色を見ながらお酒を飲んでいる夕映の横顔だった。夕日に染まった茶色の髪に、凛々しさも感じさせる美しい目、加工アプリを使ったかのような白い肌。画像ですら、十分に「綺麗なお姉さん」だと思わせる。
そのままLIMEの画面に移る。彼女との最新の連絡は、月曜日の「今日の放課後、伊月ちゃんと勉強会しない?」で止まっていた。あの時は本当に楽しくて、夕映もお酒を飲むのに俺を誘ってくれたりして、こんなに距離が縮まった2人だからこそ、今の断絶が心臓がキュッと縮まるように切ない。
メッセージ入力欄をタップした。「テスト勉強頑張れよ。またいつか部活やろうな」「しんどいときはまたキッチンピースでお酒飲もうぜ。俺も今度は魚の定食にするよ」と、気遣いを装った彼女と繋がりたいだけのメッセージを打っては消していく。それはちょうど、夕映にかける言葉を頭の中で考えていた今日の夕方に似ていた。
結局何も送らないまま液晶をカバーで閉じ、投げるように横に置く。彼女からプレゼントされたネイビーのケースが目に入るのが気になって上に教科書を重ね、もう一度教科書を捲り始めた。
それから数十分経ち、壁に掛かった時計の短針は11を超えていた。集中力が戻ったかと言えば全くそんなことはない。数学の問題集も、大して考えないままに答えを見て、ただの写経の時間と化している。
「……行くか」
このまま部屋に籠ってても悶々としていることになりそうなので、両親に一言だけ告げて気分転換に散歩に出かける。
住宅街を少しだけまっすぐ進んで右に折れると、車通りが少ないのにムダに街灯が多い大通りに出た。
車も自転車もほとんど来ない一本道。たまに歩いている人とすれ違うものの、ほとんどの人がイヤホンをしていて、少しだけなら歌ってもバレなそうだった。
「こーどーくーを あいーしてはー」
前に部活で歌っていた曲を口ずさんでみる。夜の22時半、誰も聞いていないライブを開ける自分が、この夜の持ち主になれた気分だった。
歩いていくうちに、この季節にしては冷たい夜風にあたって、思考もどんどん研ぎ澄まされていく。
やっぱり彼女の意思を尊重した方がいい。俺のワガママで振り回して、余計な心の負荷をかけたら彼女が可哀想だ。
彼女は20歳、俺は17歳、ここは俺が少しだけオトナになるべきだ。どのみちクラスは一緒で毎日会うんだし、しばらくは元に戻ればいい。彼女と部室で出会った、あの日より前に戻ればいい。
うん、それでいい。またいつか時期が来たら、俺から誘えばいい。
自分自身で結論に納得するように頷く。夜の持ち主のはずなのにアスファルトを黒く染める暗がりが寂しくなり、吸い寄せられるようにコンビニに入る。
「いらっしゃいませ」
飲み物でも買おうか、と思っていると一番左の棚が目に付いた。ビール、レモンサワー、ハイボール……色んなお酒が並ぶ。そのまま振り向くと、今度は肴が目に飛び込んできた。
瞬時に俺の頭は、彼女を映し出す。机を4つくっつけたあのテーブルクロスのかかったテーブルで、美味しそうにお酒を飲んでいる彼女が鮮やかに浮かんでくる。あのビールはこの前飲んでたヤツだっけ? チータラはレーヴランドで食べたな。この梅酒のノンアルコールタイプを飲んだのは……そうだ、2人で買い出しに行ったときだ。俺がアカペラ部を辞めたことを話したときだ。
記憶を辿りながら、思わず目が潤んでしまった。
夕方までの彼女との関係に早く戻りたいと願うことを、さっきやめた。
やめたはずなのに、薫製イカを見れば彼女と初めて部室で会った日のことが思い浮かぶし、外のバス停を見れば彼女の家に向かった日のことが思い浮かぶ。
小さな町のあちこちに、夕映との日々の足跡が残っている。
無理に考えないようにしても意味がないな、と思い知らされながら、ゆっくりと家へ戻っていった。
「さて、と……」
部屋に入り、すぐには勉強を再開する気にはなれなくて本棚を見る。「俺の哲学が火を噴くぜ」の隣にあった「名言で読み解く 初めての哲学」という本を手に取った。
哲学に興味が出てきて買った本。もう少しだけ本音を言えば、夕映と話せることが増えるかもと思って購入した本だった。
パラパラと捲ってみる。フッと見開きになったページに、以前「俺哲」でも出てきたドイツの哲学者、エーリッヒ・フロムの名言が載っていた。
『未熟な愛は言う、"愛してるよ、君が必要だから"と。成熟した愛は言う、"君が必要だよ、愛してるから"と』
単に一緒にいたいから「好き」と言うのか、好きだから一緒にいたいのか。後者が正しい気がする。多分本当の恋や愛というのは、結果ではなくて理由になるのだ。
詳しい解釈も時代背景も分からないけど、自分に当てはめたら案外難しくない気がする。俺にとっての坂隙夕映も、きっと後者だった。彼女のことが必要だから、好きだから、一緒にいたい。
オトナになりたいのにオトナになりきれない、俺の中のカッコ悪いほど自分勝手な俺が駄々をこねる。
部活も休止したくない。テストが終わったら、また放課後会いたい。彼女が俺に「休みたい」と言う自由があるなら、俺も彼女に「イヤだ」と言う自由がきっとある。彼女は年上のお姉さんだけど、クラスメイトだから。
「よし、決めた!」
自分自身に言い聞かせるように叫んで、教科書と問題集をばふっと閉じた。そして気が変わらないうちにバッグにしまう。代わりに出したのは、各教科用のノートを忘れたとき用に予備で持っていっている、自由に使っていいノート。
「夕映を部活に戻そう大作戦」
前に伊月が黒板に書いたように、ノートのページの一番上に大きくタイトルを綴る。
「どう説得するか……ストレートに言うのはあんまり効果ないかな……」
捗らないから勉強をやめたわけじゃない。もっと大事なことがあるからやめた。
今の自分にとって一番必要なことに頭と時間を使っていくことにして、俺は1人で作戦会議を始めた。
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