28杯目 部活禁止の部室で

「葦原君」

「はへ?」


 予想していなかった声掛けに、間の抜けた返事をしてしまう。


 久しぶりに夕映からクラスで声をかけられたのは、テストが前日に迫った29日水曜の放課後だった。もう明後日に迫った7月に向け、太陽は本格的にウォーミングアップを始めている。

 雲なんかジャマだ、と熱で綿雲を溶かしたのかと思うような快晴で、カーテンを開けた教室の窓ガラスに向けて元気に熱をぶつけていた。


 今日は部活も禁止だし大人しく帰って勉強するか、と立ち上がって鞄を準備していたところに、夕映は4歩近づき俺の胸の前でボリュームを絞って話す。


「これから、少しだけ部室来れる?」

「え、あ、うん、もちろん」


 放課後の突然の呼び出し。しかもいつもの場所で2人っきり。否が応にも期待が高まる。ひょっとしたら、素敵なことを伝えてもらえるのかな。そうだったらいいな。


 そんなパステルカラーの未来予想図がまったく違うものになるなんて、この時はまったく考えもしなかった。




「…………」

「…………」


 部室には、静寂だけが響いている。


 夕映は静かに小瓶の日本酒からお猪口に注いで飲み、ほうっと熱い息を吐いていた。俺に呼びかけることもなく、静かに「高校生から始める構造主義」というハードカバーの本を捲っている。


 俺はといえば、厚い本でガードしているようにも見える彼女に「何の用だったの?」と聞くのがはばかられ、集中力を欠いたまま日本史の暗記をしていた。


「そうだ、葦原君。スルメ、食べる?」

「……ああ、うん」


 リュックからコンビニで売ってる「あたりめ」と書かれたお菓子を取り出し、開け口を切って机の真ん中に置く。


「いただきます」


 一口食べるとイカの風味が口の中いっぱいに広がった。いつも物足りなくなる味だけど、黙って食べているからか、今日は十分に濃い気がした。


 相変わらず彼女は何も話さず、スルメを口に運んでお酒を飲んでいる。告白ではなさそうで、でも何を言われるのか見当もつかない空間は、やや居心地が悪い。


 そしてしばらく経って、ついに彼女が口を開いた。


「スルメって、不思議な名前よね」


 拍子抜けするような、でもいつも通りといえばいつも通りの肴の話に、俺は無言のまま首だけで相槌を打つ。左手でスルメを持ちながら反対の手で頬杖をついて体を傾けた彼女の髪が、少し寂しそうにはらりと揺れた。


「イカって墨を吐いて群れるでしょ? 『すみれ』からスルメになったって言われてるの」

「へえ、そうなのか」


 テレビ番組でやってそうな豆知識だけど、こうして彼女から直接学ぶと印象に残る。多分、ずっと忘れることはないだろう。


「ちなみに葦原君、スルメが『あたりめ』とも呼ばれる理由は知ってる?」

「いや、その2つが同じものっていうのも知らなかった」


 俺が申しなさげに返答すると、彼女は「いいのよ」とお猪口に口をつける。


「するめの『する』って、『財布をすられる』みたいなマイナスの意味で使うことが多いから、縁起の良い『あたり』に変えてあたりめって呼ばれるようになったの。でも、今も両方の名前が残ってるのよ」

「へえ! 作り方とか味に違いがあるのかと思ってたけど、呼び方だけの話なんだ」


 興味深く聞いている俺にジッと目線を合わせつつ、彼女はスルメをむぐむぐと頬張る。


「安くて地味なおつまみだけど、『寿留女するめ』って名前で伝統的な結納の儀式に使われることもあるの。保存食で長持ちするから、花嫁が長く家に留まれるようにとか、食べ物に困らないようにって意味でね」

「色んな意味があるんだな」


 話を聞きながら俺もスルメに手を伸ばす。まだ彼女の話の意図は見えない。



「そう、たくさんの顔があるの……私にもね」

「……ん」


「高校生としての自分もいるし、20歳としての自分もいるのよ。今の生活を楽しいと思ってる自分も、大学生活が羨ましいと思ってる自分もいるし、みんなと同じように生きられなくて寂しいって思ってる自分もいるの。折り合いをつけようとしてるけど、それがたまに疲れちゃうときあってさ」


 本題に移ってきた。でも、それは思った以上に重く、彼女のことをもっと知りたいと願う一方で、本音を言えばあまり聞きたくないトーンの話だった。


「この前、友達と遭遇したとき、ごめんね。変な空気になっちゃった」

「……謝ることない。俺もなんか腹立ったし」


 ねたような態度を取ってしまう。彼女は悪くないのに気を遣わせてしまっていることに、誰に向けていいか分からない苛立ちが募る。



「『現実は心によって創造される。私たちは心を変えることによって、現実を変えることができる』ってね」

「プラトン……かな」


「すごい、よく分かったね」

「『俺の哲学に火が付くぜ』でプラトン出てきたからな、少し調べてみた」

「そっか……心を変えることができたら良かったんだけどなあ。頑張れなかったなあ」


 残念そうに鼻で細く息を吐く彼女に、かける言葉が見当たらない。


 幾つか浮かんでは消して、それでもせめて「今も十分頑張ってるよ」と伝えたくて、彼女に声をかけようとした。


「なあ、夕——」

「それで……うん、しんどく……なっちゃったから、しばらくこの部活も活動休止にしようかなと思ってさ。ほら、ちょうど明日からテストだしね」


 俺の呼びかけを遮った彼女は、始めは歯切れの悪い言い方だったものの、最後は一気にまくし立てるように話した。それはまるで、早く口にして終わりにしてしまいたいかのように。



「……そっか」


 了承したわけじゃない、相槌を打っただけ。「わかった」と言わなかったのは、俺の微かな抵抗だった。


 彼女が立ち上げた部活だし、俺はただここで飲んでるのを見守りながら話し相手になってるだけだから、休止するのは彼女の自由だ。


 でも俺の中にいる、気遣いを全部取っ払ったワガママな俺が、それを嫌がる。坂隙夕映と一緒にいられないことを、心の奥底で残念がっている。

 だからどうしても、良いクラスメイトを気取って「夕映の好きにすればいいよ」とは言えない。



「これが話したかったの。もうお酒飲み終わるし、そろそろ帰ろっか」

「……ああ、うん。テスト頑張ろうな」

「そうね、お互い頑張ろ」



 その後はお互い黙ったまま、夕映を先頭にして南校舎の階段を降りていく。1階と2階の踊り場で、彼女はこっちを振り向いた。


「ねえ、葦原君」

「ん?」


 彼女は、キュッと口角を上げる。それは、心のうちを誤魔化すかのような綺麗な曲線だった。


「今まで楽しかった」


 そんな鮮やかな作り笑顔しないで。過去形にしないで。当てがなくても、「少し休んだらまた始めるね」って言って。


 喉元まで出かかったその言葉を、今の彼女にぶつけるのは酷だろうと押しとどめる。


「俺も楽しかったよ」



 寂しさを抱えながら、正門で別れた。停留所に向かう彼女の背中を見送る。


 自分がバス通学じゃないのが、今日はとても辛く、悔しかった。



〈第7章 了〉

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