26杯目 会いたくなかったのに

「なあ、夕映。どこに行くんだよ」

「ちょっとね」


 彼女を先頭にして、街灯の少ない暗い道を歩いていく。俺は自転車の左側に立って押しているので、右側にいる彼女に思うように近づけないのがもどかしい。


 あの後、伊月と別れて、今は彼女が行きたいという謎の場所に向かっていた。さかな研究部の会報になんて携わったことがないから、さっきの理由が建前というのは分かる。


 ファミレスにそのまま居座って話を続けなかったのも、ひょっとしたら伊月が帰りやすくするためかもしれない。都合良く考えていくと、彼女は俺と2人きりになりたかったんだ、という仮説が頭を渦巻いて、自転車のライトが明るい未来まで照らしてくれているように思えた。


 それにしても本当にどこに行く気なんだろう。カフェ? もしかして映画? 高まる期待に高鳴る鼓動。子ども用の風船のように膨らんだ想いが、割れることなくふわふわと胸の中を舞っていた。



「はい、ここです」

「ん? あ、ここって」

 彼女はピッと腕を伸ばして、店の看板を指差した。




「ここの定食、ホントに何でもおいしいなあ。この前のデミグラスメンチもやばかったけど、今日の生姜焼きもめちゃくちゃ美味い」

「葦原君、魚系もいいわよ。一押しはホッケだけど、サバ味噌も優しい味で美味しかったわ」

「今日の銀鮭はどう?」


 話を振ると、夕映は箸で綺麗に切った銀色の鮭の皮をあむっと食べながら深く頷く。


「うん、美味しい。皮までパリパリで食べられるのが良いわね。これは酒の肴として完璧だから、ご飯頼まなくて正解ね」

「定食でご飯抜きにして日本酒飲んでる女子高生は夕映くらいだっての」


 まるで褒め言葉を受け取ったかのように、彼女は嬉しそうに徳利からお猪口にお酒を注いだ。


 以前、伊月に連れて行ってもらった、水泳部御用達の定食屋「キッチンピース」。夕映は定食にお酒をつけて、嬉しそうに鮭を口に運んでいる。


「意外と中華のメニューもいいわよ。餃子春巻き定食とか、麻婆豆腐定食とか」

「俺は3人で来た時以来だけど、夕映はめちゃくちゃ来てるんだな……すっかり常連では」

「そんなことないわよ。あ、おじさん、緑茶ハイください。いつもみたいに濃いめで」

「いつもみたいにって言っちゃってるじゃん」

 常連以外で言わないよそんなこと。


「なあ夕映。冷静になってみると、制服姿の女子高生が日本酒飲んでるってマズくない? ウーロンハイならまだウーロン茶って誤魔化せるけど」

 俺の質問に、彼女は一瞬きょとんとした後、開いた手を扇ぐように振った。


「大丈夫よ、ここによく来てるお客さん達には全部話してあるから。それに、お猪口でメロンソーダ飲んでるって言い張ってもいいわけだし」

「それを信じるヤツがいればな」

 色を見ろ色を。


「はい、坂隙ちゃん、お待たせ。緑茶ハイね。おまけで多めに入れておいたよ」

「おっ、今日も坂隙ちゃん飲んでるのか。じゃあ俺も緑茶ハイ飲もうかな」

「坂隙ちゃん、炙り明太子、少しあげるよ。飲んで飲んで」


 店主のおじさんに続いて、他のおじさん達が彼女に群がってくる。ぱっと見は相当危ない関係に見えるけど、実際はただの酒飲みの宴だ。



「ところで、呼んだのって何の用なんだ? 会報の話ってのは適当だろ?」

「うん、別に用事はないわよ。ただ飲むのに付き合ってほしかっただけ」

「……ん、ありがとな」


 素っ気ないようにも聞こえる彼女の言葉も、「一緒にいたいと思ってくれた」と脳内で変換して勝手に喜んでしまう。


「だってね、テスト勉強中にメニュー見てたら飲むの我慢できなくなっちゃって。グランドメニューであんなにお酒見せつける必要ある? こっちは制服だから頼めないのにさ。二十歳以上の女子高生に不親切な設計だと思わない?」

「そんな特殊な層をターゲットにしてないんだよ」

 ファミリー向けのレストランに過剰サービス求めるなよ。


「はあ、期末テスト終わったら夏休みかあ」

「そうね、ビールやシャンパンの季節ね」


 うっとりするような目で空中を見上げる彼女をスルーし、俺は気になっていたことを聞いてみた。


「夏休みの間って、さかな研究部の活動はどうするんだ? まあやらないと思うけど……」

「何言ってるの、ちょっとはやるわよ」


 当たり前でしょ、と返事をし、彼女はジョッキの取っ手部分に手を入れて、スポーツドリンクでも飲むかのようにグッと勢いよく緑茶ハイを呷る。少しだけ顔が赤くなった彼女は、色っぽさが増していた。


「伊月ちゃんには、会報出すのを条件にお酒の件黙っててもらってるんだから。それに、夏休みらしく課外活動もしなきゃね」

「夏の課外活動……って、え、まさか海! もしくはプール!」

「惜しい。ビアガーデンよ」

 聞いた俺がバカだった。全然惜しくない。



「声かけるから、葦原君も都合ついたら一緒に行こうね。1人だとつまらないし」

「お、おう」

「ホント? 来てくれる? お酒飲めないのに?」


 ジッと俺を見る夕映の目には、肯定を待ち望むような楽しげな想いが宿っている。


 さっきファミレスで伊月のノリに合わせたのとはまた違うほのかな緊張感。俺の気持ちに気付いていそうでありながらなおこうして聞いてくれることに気分が一気に高揚して、水をゴクリと飲んで体温を下げる。


 期待していいのだろうか。君が俺と一緒にいることを望んでいると、そんな風に前向きに捉えていいのだろうか。そうだったら、嬉しいな。



「行くよ、予定次第だけどな」

「うん、ありがと」


 どこかカッコつけたくて、予定がたくさんありそうなフリをする。でも本当は、君から連絡が来たらお盆の帰省だって調整して出かけたいくらいなんだ。

 まだ名前呼びされる仲じゃないけど、1人でいるよりは楽しいと思ってもらえるなら、俺はいつだって一緒にいて、君が美味しそうに飲んでるのを呆れたような表情で見守っていたい。



「ところで夕映は夏休みの宿題計画的にやるタイプ?」

「ううん、1週間くらいで終わらせたいって意気込むけど、5日目くらいで息切れして結局8月半ばまでダラダラやっちゃうタイプね」


 他愛もない話をしながら、俺はご飯のお替りを、夕映はシークァーサーサワーのお替りをそれぞれ堪能した。





「今日ありがとね、急に付き合ってもらって」

「ううん、お腹減ってたから良かったよ」


 お会計をして外に出る。19時半を過ぎるとさすがに外は真っ暗で、向かいのクリーニング屋がシャッターを閉める準備をしていた。


「葦原君、家向こうの方だよね? 私バス停こっちだから」


 彼女の言う通りではあるけど、ここでお別れしたくない。いられるなら、10分だって余分にいたい。



「あ、大丈夫だよ。暗いし、良かったらバス停まで俺が送——」

「ねえ、坂隙さんじゃん!」


 勇気を出した俺のお誘いを遮ったのは、遠くから歩いてくる3人組の男女だった。彼らを見た瞬間、なぜかイヤな予感が背中に走り、暑さとは違う種類の汗を残す。


「よお、坂隙、元気か?」


 黒っぽい茶髪セミロングの女子、より金に近い茶髪ショートの女子、黒髪ツーブロックの男子。3人を見て、彼女は瞬間的に酔いが醒めたのかと思うくらい顔色が白くなる。


「ああ、うん、まあ元気よ」

「それなら良かった! あ、君が同級生?」


 ショートの彼女が俺を見てペコッと気の抜けた会釈をする。


「アタシ達、坂隙ちゃんと中学の同級生でさ。みんな大学近いから今日は3人で遊んでたの」

「……どうも」

「わあ、高校生って若いなあ!」


 1人でテンションを上げているショートに、男子が「な、若いわ!」と合わせる。「若い」の中に「幼い」のニュアンスが見えて、悪気はないと分かっていても苛立ちが募る。


「で、坂隙ちゃん、高校生活はどう?」

 わざとらしく首を傾げるショートに、夕映は目を合わせないように答えた。


「ええ……まあ、それなりに楽しくやってるわよ」

「そっか、良かった! 大学も楽しいからね、期待してて!」

「そうそう、めっちゃ楽しいから! 受験頑張って!」


 大騒ぎした後、3人は「カラオケ行こ!」と言いながら大通りの方へ歩いて行った。残されたのは、黙ったままの彼女と、言葉を探す俺。



 悪気がないのは分かっている、と思ったけど、それは問題ではなかった。むしろ悪気がないままに彼女を「高校生扱い」「年下扱い」して傷つける方が、ストレートに揶揄するよりよっぽどタチが悪く、沸点に達した"若い"勢いのまま後ろから蹴り飛ばしてやりたいくらいだった。


「あの、夕映……」

「ごめん、葦原君」

 低く、随分くぐもった声で、彼女は俺の名前を呼ぶ。



「バス停まで送らなくて大丈夫だから。真っ直ぐ帰って」

「……分かった。またな」



 ここで我を通す気にはなれなくて、その日はその場で彼女と別れた。

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