第7章 スルメと日本酒と活動休止

25杯目 トリオで勉強会

「伊月ちゃん、ここの英文、なんで未来進行形になってるの?」

「あー、これはね。単純な未来形だと単なる予定とか話し手の意志を表すんだけど、進行形にすると確定的な予定とか『成り行きでこうなりそうです』みたいな未来予想を表すことができるのよ」

「なるほど、だからこの文だと『彼に会うことになるでしょう』になるのね」


 夕映がメモを取っていると、今度は伊月が数学の質問をする。俺はその秀才同士で並んでいる様子を、ファミレスのテーブル席の向かいで「高次元な会話だなあ」と眺めていた。



 あっという間に6月の中旬が過ぎ、27日の月曜日。鬱陶しかった雨も少しずつ頻度が下がり、いよいよ俺の番だと満を持して太陽が顔を出している。

 放課後とはいえ照り付けは強く、俺や夕映は急な気温の上昇にYシャツの袖を捲って暑さを逃がしていた。


 今日はさかな研究部の活動はお休みし、伊月も加わって学校から比較的近いところにあるファミレスで勉強中。

 今週木曜・金曜からの期末テストに備え、夕映と伊月はお互い得意な教科を教え合っている。一方の俺は彼女達に比べると出来がイマイチなので、問題集を解きつつ、どうしても分からない点をおそるおそる訊いていた。



「これはね、伊月ちゃん。ヒストグラム書くと分かりやすいわ。ほら、こうすると、このXがある階級に存在している確率って、結局ヒストグラムの中の面積で表されてるでしょ?」

「そっか、確かに」


 伊月は右目の端を中指で押さえ、軽く引っ張る。目尻にほんの少し塗っているマスカラがキラキラとラメを輝かせた。


 この2週間で変わったことが2つ。1つは、伊月がメイクをするようになったこと。レーヴランドでの化粧の話を聞いた決心したのか、少しずつ目や口、頬に薄化粧をし始めている。


 そしてもう1つ。


「夕映、つまりそのヒストグラムがこうなると分布曲線になるってことか?」

「葦原君、正解。その方程式が確率密度関数ね」


 伊月の前でも夕映のことを名前呼びするようになった。そのくらいはしてもいい仲だろうと思いきって呼んでみたところ特に抵抗もなく、スムーズに移ることができたことにホッとした。



「よし、カフェオレでカフェイン摂取する!」


 伊月が離れたドリンクバーコーナーに向かった。集中しやすいように周囲の席が少ない角の席を取っていたので、店全体がよく見える。

 夕方なのでお茶をしていたお母さん達やサラリーマンは帰り始め、代わりに夕飯を食べに来た家族連れが何組か入ってきた。



「ううん……そうよね……」

 夕映は真剣な目でメニューとにらめっこしている。


「どうしたんだ?」

「いや、大したことじゃないのよ。制服だから、ファミレスだとさすがに飲めないなって」

「ホントに大したことじゃないな」

 俺や伊月が許すと思ったのか。


「ドリンクバーにアルコールコースがあればね、他の人の目盗んでサッといれちゃえばいいから楽なんだけど」

「あのな、子どもや学生も使うドリンクバーでお酒出るって、親がなんて思うよ」

「ドリンクバーで使えるくらいのお酒だから度数は低いだろうな、とか」

 もっと考えることあるでしょうよ。


「ただいま。どうしたの? 夕映ちゃん、何の話?」

「制服だと飲めないなって話よ」

「絶対飲まないでね!」

 伊月が笑ってツッコむと、夕映も釣られて相好を崩した。




「はあ、ワタシちょっと休憩!」

「私も。体固まっちゃった」


 体操でもしているかのように、夕映と伊月で揃って伸びをする。胸元が大きく膨らんでいる伊月から目を逸らすと、スレンダーな夕映の姿が視界に飛び込んできて、目のやり場に困って教科書に視線を落とした。


「夕映ちゃん、ここのマスカットのミニパフェ美味しいらしいよ」

「ホント? どれどれ、気になるなあ」


 2人で期間限定メニューを開き、伊月は軽く夕映に寄りかかりながら「ほら、これ」と指差している。その姿は仲の良い女友達という感じだけど、時折伊月が夕映にこっそり送っている視線は友人のそれではなく、色恋がばっちり混ざっていた。


「そういえば葦原さあ」

 結局頼むのをやめた伊月が、右手を小さく動かして呼びかける。


「ん、どした?」

「北原って牧野さんが好きなの?」

「ぐふっ!」

 急に直球で聞かれると気管支が! 気管支が危ない!


「やっぱりね、この前絡んでるときデレデレだったから」

「伊月さん、応援してやってね? 牧野がGW中に篠田と別れたって聞いてから優吾真剣だからな」


 そこから話題はどんどん移っていき、それぞれのクラスのカップルの話になる。好きな人とライバルと一緒に恋バナするなんて、なんか不思議で複雑な状況だ。


「でも、汐里ちゃんって山崎君以外の男子にも距離近いよね。みんな名前呼びだし」


 伊月がうちのクラスの女子の名前を挙げると、夕映も「確かにそうね」と思い出したように相槌を打つ。


「ワタシ、男子のこと名前呼びってほとんどないな。うちのクラスの大樹ダイキみたいに愛称っぽくなってれば別だけどさ。夕映ちゃんは?」

「うん、私もそうかな。特別な人じゃないと名前で呼ばないかも」


 彼女の回答に少しだけ安堵する。他の男子に名前呼びしているのを聞いたことがないから、近くに「特別な人」はいないということなんだろう。


 一方で、葦原君呼びのままの自分が特別な存在になれていないことも分かって、幾許いくばくかの寂しさを覚えた。



「ちょっと紅茶取ってくるね」


 夕映が席を立ち、伊月と2人きりになると、彼女はちょいちょいと俺を呼ぶように右手を動かす。


「誕生日プレゼントのあれ、無くなった?」

「いや、結構美味いから大事に1日2粒ずつ食べてる」

「そっかそっか、良かった」

 途端に、伊月はホッと胸を撫で下ろした。


 レーヴランドで渡そうとしてくれたらしいけど、急遽帰ることになったので翌日に彼女から貰ったプレゼント。めちゃくちゃ甘い飴とめちゃくちゃ酸っぱい飴のセットで、2粒一緒に食べるとすごく美味しくなる、という変わり種キャンディーだった。


「ふふっ、ところで葦原、どう?」

 彼女はニマニマと楽しそうな表情を浮かべ、首を傾けておどけてみせる。


「ワタシと夕映ちゃんの仲良し度、どんどん上がってるでしょ? またテスト終わったらパフェ食べに行く予定だしね」


 それは、もちろん本音も入りながらも、気分転換にくだらないやりとりをしたい、という期待を込めた顔付きだった。いいぜ、乗ってやるよ。


「女子同士だからこそ、さっきみたいにスキンシップできたり、名前で呼び合ったりできるんだよ? 羨ましいでしょ?」

「……クックック、伊月さん、分かってないなあ」


 アニメのワンシーンを思い浮かべながら、下を向いてニタァと口を曲げ、歯の隙間から声を漏らした。


「そのステップを踏むのが楽しいんだろう?」

「な……に……?」

「仲良くなって、距離が縮まって。そこで初めて名前を呼ぶ、手を繋ぐ。そういう過程こそが恋愛の醍醐味じゃないか。伊月さん、既に触れ合って名前呼びし合ってる君に、これからどんなステップアップがあるんだい?」


「……ぶふっ! あははっ、やられたわ! まさかそう返してくるとはね!」


 伊月は思いっきり吹き出し、お腹を抱えていた。目尻の涙を拭いているその様子を見ていると、ついこっちまで楽しくなってくる。


「はーおかしい。ワタシ達、ライバル同士なのにね」

「別にそんな火花バチバチでもないだろ」


 いがみ合うでもなく、お互い夕映のことを想って3人で過ごしている。実際、俺もこの関係性がそこまで嫌いじゃなかった。


「伊月ちゃん、何笑ってるの?」

「ううん、何でもない。葦原が面白いこと言うから」

「え、葦原君、聞かせてよ」

「絶対いやだ」

 戻ってきた夕映のお願いをかわした後、俺達は1時間ほど勉強を続けた。





「今日はありがと、夕映ちゃん、葦原」

「ああ、いや。伊月さんも英語教えてくれて助かったよ」


 ファミレスを出て、入口横の駐輪場で挨拶をする。太陽は間もなく燃え尽きようとしていて、空がくすんだ青紫に染まっていた。



 俺は自転車で2人はバス。この場所で解散だろうな、と思っていると。


「葦原君、このあとちょっと大丈夫? さかな研究部の会報について相談したくて」


 夕映から声をかけられた。

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