20杯目 少なくとも私は
「高校入ってからなの、自覚したのは。生徒会の女子の先輩がいて、憧れてた……つもりだったんだけど、だんだん憧れじゃないな、って気付いてきて。で、ネットとか本とかを調べていったら、結構中学時代から当てはまること多かったなと思って。」
そこから伊月は、苦しさ混じりの思い出を振り返るように、ゆっくりと話し始めた。
自分が「特殊」であるということを信じられなかったということ。
否定しようとすればするほど、その事実を裏付けるような記憶ばかりが蘇ってきたこと。
去年の10月に自覚してから、受け入れるまでに半年かかったということ。
そして、まだ完全に受け入れられているか自分でも分からないということ。
「まあ結局、その先輩には彼氏ができて、実らなかったんだけどね」
口元を隠すようにして目だけ微笑む。その仕草は、叶うことが難しいであろう恋を、無理にでも笑い話にしたいように見えた。
「……そっか」
夕映は、そう一言だけ呟く。
「ごめんね、別に具体的に何をどうしてほしいってのがあるわけじゃないの。ただ、こういうのってどう心の中で整理して、生きていけばいいのかなって……なんか変な相談でごめん。夕映ちゃんに話したら、ちょっとでも答えがもらえそうな気がして」
成績優秀スポーツ万能、友達100人の生徒会役員。そんな彼女に、こんなに大きな悩みがあるなんて思っていなかった。
「……難しい問題ね」
アジアの経済ニュースでも見ているかのように夕映は感想を口にして、「考えさせてね」と窓の方に椅子ごと体を向けた。それは内容が難しいということだけではなく、答え方が繊細だということに違いない。
俺が夕映だったら、どう答えるのだろう。何を言ってあげられるだろう。いつもとは打って変わって所在なさげにしている伊月を見ながら、頭の中で優吾に置き換えてシミュレーションしてみる。
そんなこと気にするなよ、なんて気軽に言えるだろうか。本人がこれだけ悩んでいるのに、明るく笑い飛ばすのが正しいとも思えない。
つい言いたくなる「気持ち分かるよ」だってダメだ。俺には辛さが分からない。自分が異質であること、万一それがバラされたときの周囲の目、親にもおいそれとは話せない悩み。対等な理解者になることなんて、とてもできない。
「ありがとね、夕映ちゃん。時間取ってくれて」
「いいのよ、伊月ちゃん。ゆっくり待ってて」
心遣いに満ちたやりとりに、それぞれの優しさを感じる。
伊月はどんな気持ちでいるのだろう。グッと両拳を握り、下を向いている彼女こそ、一番しんどいのだ。誰にも言いたくないはずなのに、そんな状態でも相談したいほど悩んでいる。
そこでハッと気づいた。今、夕映は疑問に思ってるんじゃないだろうか。ひょっとして伊月が彼女に、そういう意味での好意を持っているのではないか、と。そして頭の回転が速く、気遣いのできる伊月のことだ、夕映がそう感じることも十分分かっているに違いない。
黙っている伊月に気を遣ってか、梅雨に入る前に存在感をアピールしようと露店の綿菓子みたいに膨らんだ夏っぽい雲が、陽をすっぽりと覆った。
そこからさらに、10分ほど経ったとき。
「……うん」
夕映は、グラスに僅か残ったシードルとクッと飲み干し、自分の答えに納得がいったように数度頷いた。
「ピーナッツってね」
いつものように唐突に、彼女はおつまみについて話し始める。青のギンガムチェックのテーブルクロスによく似合うライムグリーンの皿から、2粒一気に取って指で弾くようにポンッと口に放り込んだ。
「ナッツじゃないのよ。知ってた、葦原君?」
「へ?」
質問を振られたものの、そもそも何を言っているかよく分からず首を傾げる。ピーナッツがナッツじゃないってことは何だ? ピー?
「定義上、ナッツに分類されないってこと?」
「さすが伊月ちゃん」
正解したご褒美と言わんばかりに、伊月も3粒一気に食べた。
「ナッツは、
脳内で、前に家で食べたミックスナッツを思い浮かべる。確かに、全部入ってたな。
「ピーナッツっていうのは
さらりと説明してくれてるけど、おつまみの科まで覚えてるってすごい。シードルもそうだけど、ホントにお酒や肴が好きなんだな。
「ナッツと違って木に成らないで、地面の下で育ってるのよ。殻に覆われてるけど『木の実』じゃないからナッツじゃないのよね。花が地面に落ちて、
「へえ、『落花』生の名前そのままだね」
新しい雑学を学んだ楽しさなのか伊月は口角をクッと上げる。子房なんて単語、確かに中学でやったな。
「ナッツからしたらさ、ピーナッツは『特殊』なわけ。仲間外れみたいなものでさ」
夕映は、話すトーンを一段階落とす。少し低く、しかし優しさの込められた声。
「でも、ピーナッツもナッツらしさ出してるじゃない? だから私達もそう思ってる。特殊扱いしないで」
ナッツ類とピーナッツ、「普通」と「特殊」。「俺達」と「伊月」。そんな区別に意味があるのだろうか。たまたま俺達がこっち側で、たまたま伊月がそっち側だった、それだけの話。ひょっとしたら俺が、優吾が、夕映が悩んでいた可能性だってあった。誰にも選べない、誰にも変える権利はない。
でも、それが「綺麗事」だというのも知っている。堂々としていればいいんだよ、なんて、そんなこと言われて堂々と出来るなら、そもそも悩んでいない。
そこまで分かっているはずの夕映は、伊月になんて伝えるのだろう。
「本当はね、言ってあげたいの、伊月ちゃんに。今、海外ではこんな事例もあって、日本でもこういう動きがあって、だから伊月ちゃんだって全然特殊じゃないんだよって。そんなこと、周りのみんなは気にしないよって。自分の知識フルに使って言いたかった。でも……言えないんだよね」
夕映は目と眉をふにゃりと曲げて微笑みを作る。こんなに悲しい、灰色の空みたいな笑顔があるだろうか。
「実際そんなことないもん。もしクラスで話したら、奇異の目で陰口叩く人がいるかもしれない。先生も、周りの親も、何か言ってくるかもしれない。年取ってる人の方がそういうの受け入れづらいかもね」
「うん、ありがと。知ってる」
伊月はゆっくり目を瞑る。眠っているように穏やかな表情、でもそれは安堵や歓喜ではなく諦めであることは、よく分かっていた。
「だからね、これしか言ってあげられないの」
夕映が椅子から立ち上がる。机を回るように5歩歩いて、彼女に近づく。
「私は、そんなの気にしないよ」
伊月が、急に目を見開き、夕映の方を向く。チャームポイントの大きな瞳が潤んで更に大きくなる。パチッと瞬きすると、ぽたりと涙が頬を
「今はそれで我慢して。私は気にしないって心から言ってくれる人が、他にもきっといる。そういう人が集まって集団になれば、伊月ちゃんも普通にナッツだよ」
「うん……ありがと……ありがと……っ!」
ナッツの例えに
そうだよな。曖昧で不確定な「社会」のことを何回言われるより、2人の関係の中で包んでもらえた方がいい。そういう会話の方が、心の栄養になることがある。
「ずっと不安……不安だったから……ひっく……夕映ちゃんにそう言ってもらえるの、うっく、すっごく嬉しい……ありがと!」
涙でぐじゃぐじゃになった顔で夕映に抱きつく伊月。普段見せたことのない、凛々しさより幼さが覗く顔で、ぎゅっと友人のブラウスを掴んでいた。
「今日はありがと、夕映ちゃん」
バッグを担ぎ、ドアの前で入ってきたときと同じように折り目正しくお辞儀する伊月に、夕映が声をかけた。
「君がいいと思ったら、それでいい。誰かから何と言われようと、事実が変わるわけじゃない」
突然口調が変わる。勘のいい伊月が「それ、誰の言葉?」と訊くと、夕映は「ヴィトゲンシュタインっていう哲学者よ」と答えた。
「伊月ちゃんがいいと思ったら、きっともうそれでいいの。でも不安になった時は、私が何回でも伝えるわ」
「……ん」
鼻をスンと鳴らす伊月の目は真っ赤になっている。泣いたからかな、と思ったけど、そうでもないらしい。彼女が頬を染める理由は、やっぱりもう一人の彼女なんじゃないかな。
と、バッグを背負ったまま、より近くにいた俺にトトトッと顔を寄せる。
「ライバルだね」
ちぇっ、やっぱりな。
「他にも結構ライバル多そうだぜ」
「夕映ちゃん、人気者だもんね」
そう言うと、彼女は闘志を誇示するようにグーを突き出し、挑発するように俺の胸元をトントンと叩いた。
いいさ、受けてやるぜ。
「じゃあ、またね! 明日も教室で!」
まるでウキウキしながら登校する小学一年生のように、彼女は教室を飛び出していった。
■◇■
「うあーっ!」
やることはたくさんあるけど、なんだか手に付かなくなってしまって、ハイな声を伸ばしながらベッドに横になる。
送ろうか送るまいかひとしきり悩んで、スマホを手にする。大丈夫、もうとっくにバレてるかもしれない。だったら、開き直ってもいい。好きな人に好きな想いをぶつけるくらいの自由は、ワタシにだってあっていい。
『夕映ちゃん、今日はありがと! ところでさ、このパフェのお店知ってる? お礼もしたいから、今度一緒に行かない?』
えいっ、と小さく叫んで送信する。そのままタオルケットを被って、じゃれる猫のようにゴロゴロ転がり、ワタシは世界一幸せな待ち時間を過ごした。
〈第5章 了〉
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