19杯目 伊月の秘密

 ■◇■


「うあー」


 やることはたくさんあるけど、なんだか手に付かなくなってしまって、気怠い声を伸ばしながらベッドに横になる。


 スタンプを取るためだけに登録したアカウントからの通知が映るスマホを見て、頭の上にポイと放り投げた。LIMEを交換したけど、最近ワタシから何も送っていないんだから、何も来るはずがない。


 この好きだという気持ちを、どこまで誤魔化して生きていけるだろうか。吐き出して楽になりたいと、そしてその方が苦しいだろうと知りながら。


 ■◇■



「南瀬、お前骨がなくなったみたいだな」

「いやあ、解放感がすごいからさ。優吾もやってみろ、気持ちいいぞ」


 先週で中間テストが終わり、今日で5月も終わりとなる31日月曜の昼休み。もう明日から6月で、6月が終わったら今年も残り半分だと思うと、時の流れの速さを実感する。


 間もなく梅雨が始まり、雨に文句を言っているうちに梅雨が明け、今日のようなジメジメ雨模様ともしばしのお別れになるはず。


 夏休みがきて文化祭が来て、あっという間の秋が過ぎ、寒さに慣れる前に冬が終わって、猛スピードで受験生になっていくのだろう。



 とはいえ、中間テストが終わった俺にとっては、今はそんなことは関係ない。無造作に置かれた上着のように机に身を投げていると、優吾が呆れたように笑った。


「そういえば南瀬、今日みたいな雨もいいよな」

「優吾、お前どうせ『雨で牧野の下着が透けるのが最高だ』とか言うんだろ」


「あのな、俺をそんな変態にするなよな。割烹着を着た牧野が雨に濡れて、下に来てる私服のピンクのボタンシャツが白い布から透けて見えるのが最高に興奮するんだよ」

「ある意味下着よりもひどいのでは」


 割烹着からボタンシャツが見えるのがなぜ興奮するのか、俺には高度すぎて全然分からない。


「南瀬は俺をどうしても変態妄想キャラにしたいみたいだけどな。じゃあ例えばさっきの下着の例でいくとだ。よく漫画とかで『下着を頭に被る』みたいなのがあるだろ? その点、俺はそんなことはしない。食べるわけじゃないけど、ぐらぐらに煮えためんつゆで下着を煮込みたい。どうだ、俺の方が幾分まともだろ?」

「もうダメだよ判断基準が何にも分からないよ」


 そもそも何で被らないで煮込むんだよ、と思ったけど、じゃあ何で被るんだよって話だよな。



「そういえば、坂隙さんがさ」

「え、あ、おう」

 突然彼女の名前を出されて気が動転してしまう。


「昼休みにここにいないって珍しいな」

「確かにな、いつも席にいること多いのに」

「簾ちゃんと一緒なのかもしれないな」


 そんなことを話していたら、予言通りに夕映が簾藤と一緒に戻ってきた。2人とも仲良さそうに話しているな、1週間前の一件でより距離が縮まったかな、などと思っていると、簾藤がこっちにスキップのような足取りで歩いてくる。


「葦原君、読んだよ! 『俺の哲学に火が付くぜ』、最新刊まで!」

「マジで!」

「そうなのよ、職員室でたまたま簾藤さんと会って、ずっと話しながら帰ってきてたの」


 夕映の後ろの席も空いていたので、簾藤はそこに座った。まさかあんなマイナーな、しかも刺さる人が少なそうなあの漫画を一気読みしたなんて。


「簾ちゃん、この前南瀬達にオススメされてた漫画だよね?」

「うん、そう。北原も読んでみるといいよ、かなり面白かった! ワタシも、倫理とか哲学を題材にした漫画1、2作知ってたけど、ラブコメに応用するなんてね! でも全然違和感なくて驚いちゃった」


 優吾がスマホで作品を検索している横で、俺は簾藤の感想に「そうなんだよ」と首肯する。


「哲学の知識の出し方が絶妙だよな。読んで勉強になるってほど前面に出してないけど、ちょっと調べてみたくなる、的な」

「そうそう、私もついつい哲学の本読み直しちゃうわね」


 竹葉学園2年生の中でも特にみんなから注目される美女2人と休み時間に漫画の話でわいわい騒ぐ。こんな貴重な体験が俺にもできるなんて、俺のラブコメにも火が付いてるね! 横から優吾の嫉妬の炎も感じてるけどね! もう火炎放射並ですよ。



「ちなみに簾藤さん、光葉みつは志桜しおで、どっちのヒロインが好きなの?」

「ワタシは光葉かな。どっちも好きだったんだけど、最新刊の公園のシーンで一気に光葉推しになった!」

「おお、俺も光葉推しだよ、簾藤さん!」


 簾藤と推しキャラが被ったことでテンションが一気に上がる。夕映は志桜しお派だもんな。


「最新刊のって、ニーチェの話を引用するところだろ? あそこ良かったよな! ちゃんと亮太への想いも真っ直ぐに伝えてて、俺もあそこで余計に光葉推しになった」

「そう、あのシーン! いつも泣いてる光葉が泣かずに言ったのがまたいいのよね!」


「そこまで泣き虫な光葉のキャラがしっかり伏線になってるんだよ、あれが巧い」

「うん、作りが巧い! 葦原君とは良い酒が飲めそう、だ、ね」

「あっ、そ、そうだな」


 酒という単語で、簾藤も俺も思いっきり動揺してしまった。本当に良い酒を飲める人が隣にいるよ。


 その酒好き坂隙さんに向かって、簾藤は「そうそう」と呼びかける。


「よかったら、伊月さんとか伊月ちゃんとか呼んでいいよ。ワタシも名前呼びするから」

「分かった、そしたら伊月……ちゃんね」

「ありがと! ワタシも夕映ちゃんって呼ぶね!」


 名前呼びしていると、一気に仲が深まった感じがする。2人でよく話しているし、簾藤ももう少し近い距離感で話したかったんだろう。


「あ、葦原君も同じように名前で呼んでいいからね。ワタシも葦原って呼ぶようにするわ」

「ホントか? じゃあ俺は伊月さんにしようかな」


 さすがにちゃん付けするのは気が引けるしな、と思っていると、優吾がずいっと俺の隣から身を乗り出す。


「俺も『簾ちゃん』っての止めて、伊月ちゃん呼びにしようかな」

「北原からは簾ちゃんって呼ばれるのに慣れてるから、そのままの方がいいわ」

「なんでだよ!」


 優吾のツッコミが綺麗に入って、俺達3人は手を叩いて笑いあった。



「よし、じゃあそろそろ教室戻ろっかな……あ、そうだ」


 回れ右で入り口のドアを向いて数秒経った後、伊月はくるりと体を返し、胸の前で小さく手をあげた


「ねえ、夕映ちゃん。今日、部室に行ってもいい?」

「うん、いいけど。何かあるの?」

「ん、ちょっとね」


 少しだけ言葉を濁し、彼女は「またね」と言ってぐるりとドアに向き直る。背中まで伸びた黒髪は、彼女の用事を上手に隠しているようだった。






「来るなら盛大に乾杯しなきゃね」


 放課後の部室で、夕映が張り切った声を出す。周りの教室で何の部活もやっていないことをいいことに、結構な音量で、スマホからカフェで流れてるようなBGMを流している。


 そんな中で夕映は床を滑るように棚まで来て、グラスを机に運んだ。友人が来るということもあって、かなり上機嫌の様子だ。


「でも何しに来るんだろうな。また生徒会絡みの話? うちに入りたいってことはないだろうし……」

「それだったらあんなに秘密な感じにしないと思うのよね……」


 コンッコンッ


 その答えはこの後すぐ、と合図するかのようなノック音。「こんにちは」と入ってきた簾藤伊月は、すぐさまお手本のような深いお辞儀をする。


「今日は……よろしくね」

「よろしくって伊月さん、どうしたんだよ」

 俺の問いに、彼女はゆっくりと顔を上げる。


「夕映ちゃんに相談に乗ってほしいの」

「……分かったわ」


 夕映はそう一言だけ返すと、すっくと立ちあがった。あれ、イヤな予感がする。


「悩み相談にはお酒が付き物だから、用意するわね」

 やっぱりね。目線が完全に冷蔵庫いってたもんね。


「ワタシが来ても普通にお酒飲んじゃうあたり、夕映ちゃんも頑固だよね」

「もちろんよ。伊月ちゃんにも早くお酒に目覚めてほしいから」


 どこか得意げに言いながら、夕映は冷蔵庫から瓶を取り出してドアを閉めた。いや、17歳で目覚めてどうするんだよ。



「はい、今日の一杯はシードルです。葦原君と伊月ちゃんはノンアルのシードル風ドリンクね」

「シードル……?」


 聞いたことのない名前に、俺と伊月は顔を見合わせる。

「ワインはぶどうを発酵させたお酒でしょ? シードルはそれのリンゴ版よ」

「へえ、リンゴを発酵させたのね!」


 頷きながらグラスに注ぐ夕映。純度の高いハチミツみたいな琥珀色の液体が、シュワシュワと泡をまき散らしながらグラスの中を滑っていく。泡が割れると、ジューシーなリンゴの香りが鼻をくすぐった。


「じゃあ伊月ちゃん、今日はよろしくね。乾杯」

「ありがと。夕映ちゃん、葦原も、乾杯!」

「おう、乾杯」


 一口飲んでみて、「ノンアルコールのリンゴのお酒って、それはただのリンゴジュースでは……」となんて思っていた自分を反省する。リンゴの自然な甘みと、舌の上で跳ねる炭酸が、この上なく上品な味わいだった。


「夕映ちゃん、これ美味しいわね!」

「でしょ。お酒の方にはバニラが混ぜてあるから、より香ばしいわよ。甘味と酸味の後味がスーッと喉を潤していくから、割と濃い味のはずなのについついもう一口飲みたくなるわね」

 さすがお酒好き。コメントが本格的だ。



 はしゃいでる俺達の前に、ゴトッとライムグリーンの皿に盛られたピーナッツが置かれた。


「シードルの味がしっかりしてるから、こんなシンプルなおつまみでもいいのよね」


 軽く塩味がするだけの豆感100%のお菓子。それでも確かに、この飲み物を邪魔しない良いおつまみだった。


「はあ、ピーナッツって止まらなくなるよね」


 そういえばね、と彼女は柿ピーの話を始めようとした。それはまるで、これから悩み相談することを先延ばしするように。


「ね」

「ん」


 1文字ずつの会話。促す夕映と、受け取る簾藤。


 豆を摘まんでいた手を止め、簾藤はグラスを少しだけ奥に押す。跳ねてもいない髪の毛を押さえるように撫で、両手を合わせた状態で指同士をトンットンッとぶつけて小さく音を立てる。

 どう話すか、そもそも話すか、と逡巡しているのが、忙しなく動く目の動きで見て取れる。俺達は、彼女のタイミングをじっと待つ。


 やがて彼女は、何回か口を開いた後、声を出した。



「女の子が好き、なんだよね……」


 夕映はそれを聞いた瞬間、ひゅっと息を吸った。

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