15杯目 迎合と寂しさと

 正直、ちょっと驚いた。彼女は例え校則でほぼアウトであっても、お酒が飲みたければ冷蔵庫を用意してしまうようなゴーイングマイウェイな女子なので、こんな風に「流行りに乗るのも正解」なんて言うと思わなかった。



「夕映はてっきり、自分のやりたいことを貫く方がいい、って言うかと思ったよ」

「ちょっと考えてたんだけどね。それ見て気付いたの」

「それって……イカそうめん?」


 そうよ、と返しながら、夕映はその細い肴を4~5本束にして摘まむ。こんな音楽のネタまで、肴の話から広げられるのだろうか。


「もともとイカそうめんって、お菓子じゃなくて普通の料理を指してたの」

「え、これが?」


 驚きながらイカそうめんに顔を近づけると、彼女は小さな舌で唇についた塩気をペロッと舐めながら頷いた。


「北海道、特に函館の料理よ。生のイカを1センチくらいの細さに切って、醤油やめんつゆを付けて、文字通り素麺そうめんみたいに啜って食べるの」

「へええ、たまに細く切ったイカを見るけど、あれそういう名前なんだ。じゃあこのお菓子の方は同じ名前だけど別物ってこと?」


 夕映に視線を向けると、彼女は顔を上に向けてビールを飲みながら器用に頷く。


「そうね。少なくとも私の周辺の高校生達にとっては、イカそうめんといったらこのお菓子で定着してると思う。でも、同じ名前ってことは、なんらか着想を得て付けたはずで、大事な部分は一緒だと思うのよね。素材の美味しさを楽しむ調理の仕方とか、数本一気に食べる満足感とか。それで、今日の葦原君みたいに、おつまみの方から料理のイカそうめんを知る人もいる」


 入口は様々で、俺も刺身の方は知らなかったけど、こっちのイカそうめんならコンビニでよく見かける。夕映が伝えようとしていることが、なんとなく分かってきた。



「そういう広まり方もあるってことよ。Gray Starが作風を変えることで、新しい人に聴いてもらえるチャンスが増えたんじゃないかなって。その結果、前に遡ってこれまでのロックな曲を聞いてくれる人も出てくるかもしれないから」

「……本当にやりたい曲をやるために、別系統の作品でファンを広げるってことか」


 そう、それも一つの考えだ。でも、でも。


「だとしたら夕映。グレスタは、本当はやりたくなかった方向に舵を切ったんじゃない? なんかそういうの、迎合みたいで俺はイヤだなって」


 その言葉に、彼女は目線を斜めに下げる。しばらく考え込むように黙った後、手に持った缶ビールを静かに飲んでから、ふうっと大きく息を吐いた。


「ただの高校2年生としての私の意見だけど……迎合するな、って簡単には言えないと思うのよね。今はコンテンツが溢れてるから、自分のやりたいことを貫いても手に取ってもらえないこともたくさんあるだろうし。だったら、変化球で新しい人に触れてもらえることも大事かもなって」


 斜め下を向きながら、彼女は右手で左手の甲を押さえた。自分の意見を言うことへの微かな緊張が、表情と仕草に表れている。

 窓から射す陽光が机に白色のプリズムを残し、彼女を撫でて応援するようにゆらゆらと揺らめいた。


「綺麗な正論を言ってるなって、自分でも思う。貫くのがカッコいいってのもすごく分かる。でも、覚悟を決めた後の、意志のある迎合だってすごくカッコいいなって思うから」

「……確かにな」


 言われてハッとする。彼女の言う通りだ。もちろん、やりたいことをやって人気が出れば一番いいけど、そんなにうまくいくことばっかりじゃなくて。変えること変えないこと、どっちが正解はなくて、足掻いて悩んで腹を括ったことならどっちだって素敵な決断だと思えた。



「……変わったら、昔からのファンは離れていかないか?」

「ああ、それは大丈夫よ、ファンのみんなも変わっていくから」


 俺がグレスタだったら、と想像して浮かんできた真剣な質問に対する、彼女のあっけらかんとしたトーンに拍子抜けしてしまう。


「アーティストもファンも、変わらないように見えて少しずつ変わっていくの。だから、急に180度方向を変えないで、少しずつ新しいタイプの曲を増やしていけば、みんなついていくわよ。移り変わり、まさに『Flow』ね」


 さっきまで流れていた曲のタイトルにひっかけた後、夕映は唇をむにっと内側に押し込んで目を見開く。彼女なりのドヤ顔に、思わず顔がニヤけた。


「『同じ川に二度入ることはできない。なぜならその川に再び入った時、その流れも人も既に変化しているからだ』 紀元前の哲学者、ヘラクレイトスの言葉よ」


 そして十八番おはこの引用。あらゆる角度から肴と哲学の話に結び付けられる、彼女の知識に感心する。


「……2000年前から言われてることなら、信じてもいいかもな」

「でしょ?」


 そう言って微笑んだ彼女は、一件落着を自身で労うように、大量のイカそうめんを摘まんでグッと半分に折ってから、ハムスターが頬袋に溜めるように口いっぱいに詰めた。


「いやあ、ついグレスタの気持ちになって勝手に不安になっちゃったよ」


 その流れで、何とはなしに彼女に問いを投げてしまう。


「夕映も同じように不安になることってあるのか?」


 夕映は、黙ってスッと俺に目を向ける。その表情からは、さっきまでの楽しそうな笑顔が完全に消え、悲しそうな微笑に様変わりしていた。


「もちろんあるわよ。年齢のことでね」


 一瞬、しまった、と思ったものの。すぐに失敗ではないと気付く。これはチャンスかもしれない。彼女を、坂隙夕映をより理解するための。


 俺は足を伸ばすのをやめて居ずまいを正し、話し始める彼女に顔を向けた。


「この前、簾藤さんと一緒にご飯行ったときにさ、勉強する意味の話になったときに、大学生の知り合いの例出したじゃない? 中学の同級生なのよ。他の人が3年先にいるっていうのが、やっぱりどうしても消えなくてね。もちろん病気が治っただけ良しとしないとって分かってるんだけど、ついムダな3年間を過ごしたなって思っちゃうの」


 彼女の不安に嘘偽りがないことは、いつもより低めの声と、伏し目がちな表情でよく分かる。


 その言葉に対して結局何の返事も浮かばないことを歯痒く思いながら、俺は「そっか」と分かったような背伸びの返事をした。暑い昼間のはずなのに、汗が引く。


「勉強しよっか。分からないところ、いつでも聞いて。全部は答えられないかもしれないけど」

「ん、分かった。俺が教えられるところ……はなさそうだな」


 こうして、歯切れの悪い感じでテスト勉強が始まった。数学の問題集を解き、飽きたら日本史の暗記をして、息抜きに英単語をチェックする。


「なあ夕映、このグラフで接線の方程式ってどうやって求めるんだ?」

「ああ、これ? まずはこれの導関数を求めるのよ。で、x=3のときの微分係数を求めるの。これが接線の傾きね。あとは、ここにこれを代入してあげれば……」

「出た、y=2x+8だ! ありがとな」


 夕映の説明は分かりやすいし会話したいから何度も聞きたくて、でも賢くないところは見せたくないから最低限しか聞きたくなくて。そんな相反する感情を飲み込みながら、ノートを黒炭で汚していく。


 たまにどちらからともなく休憩を取る。夕映が読みかけの本をパラパラと捲る中、俺の脳内は、彼女への返事を考えては丸めて捨てた紙くずでいっぱいだった。



「夕映さ」


 長針が1周半ほど回った休憩時間、俺は彼女に声をかけた。


「どしたの、葦原君」

「……消えなくてもいいと思うよ。そういう不安って、俺が夕映だったとしても絶対付きまとってると思うし」


 始めは何の話か分からない様子であった彼女が、自身の吐露への返事だと気付き、手に持っていたペンを静かにテーブルに置く。


「焦って消そうとすることないよ。一緒に連れて進めばいいと思う。俺もずっと、部活抜けた後悔とか、残ったメンバー元気かなとか、ずっと考えちゃうしね」


 俺の答えが響くかは分からない。それでも、思ったことを伝えたかった。


「…………」


 沈黙する彼女。静寂に耐え切れずに「ね、絶対気になっちゃうよね」なんてフォローしにいきたくなるのを、グッと堪える。


 ややあって、彼女が口を開いた。


「ありがと、葦原君。優しいね」


 その返事に気が抜けたのか、安堵が両肩に乗ったかのように体に重力が戻る。


 支えようとした俺が、逆に彼女の言葉に救われているのが滑稽でもあった。


「あとさ、夕映」

「うん?」

「そいつらより夕映の方がお酒は4年先輩だから。向こうは今年から飲み始めたんだろ?」

「……確かに!」


 色鮮やかなツツジが咲いたように、彼女が笑う。3年間、全くのムダじゃない、少しだけ先に進んでることもあると思ってもらえるなら、こんな冗談みたいなことだって口にしたい。



 夕映の立場にいたらどれほどしんどいかは、想像に難くない。おそらく入院し始めたときからずっと、自分が周りより遅れをとっていることを負い目に感じている。

 

 それでも、お酒や勉強や読書を通して今を楽しもうとしている彼女を見ると、尊敬が募り、好意が積もっていく。



「まあお酒は趣味みたいなものだから、ずっと飲んでたいわね。趣味だとちょっと軽いかな?存在意義?」

「逆に重すぎるだろ」


 ツッコミを入れてひとしきり笑った後、また勉強に戻る。お互い胸のつかえが取れたからか、彼女が出かける時間になり家を出るまで、随分集中できた。



 ささやかな幸せが続く日々。だからこそ、「ずっと飲んでいたい」という彼女の願いを詰め込んだ部活にあんな出来事が起こるなんて、この時俺は想像もしていなかった。

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