14杯目 飲み物です(ビール)

「うおおおおおおおお!」


 5月23日、日曜日。予定通り美容院で髪を切っているうちに、待ちに待った12時がやってきた。全速力で自転車を飛ばしながら、ちらと上空を見上げる。のんびりと泳ぐ雲の余裕が、羨ましくもある。


 昨日は自分史上稀に見るほど最速で過ぎていった土曜日だった。「夕映に会えるまであと○時間」とカウントしながらご飯を食べ、お風呂に入り、もったいないほどあっという間に夜になった。


 そして今朝。キャラの衣装を自由に選べるゲームだってもう少し短いだろうというくらいたっぷりと時間をかけて洋服を選んだ。今は自転車を留めてバスに乗り、待ち合わせの公園に向かっている。



「まだ来てない、な……」


 バス停から歩くこと7分、何回か車で通りすぎたことのある公園に初めてやってきた。すべり台や鉄棒、ジャングルジムまである広いその公園のベンチには小さい子の親が座っていて、彼女の姿は見えない。


 時計を見ると、まだ集合時間の10分前だ。空いているベンチに座ってスマホでネット記事を読むけど、中身が頭に入ってこない。


 彼女が現れるところを見逃したくないと思って、ついつい公園の入り口を見てしまうから。人の気配を感じてバッと頭を上げては、親子連れを見て視線をスマホに戻す。昨日と打って変わって、自分史上稀に見るほど長く感じる10分間だった。



 やがて。


「ごめんね、お待たせ」

「いや、全然、今来たところで……」


 定番のやりとりをしたいと思ってたのに、彼女に見蕩れて途中で台詞が止まってしまう。


 お腹ギリギリの丈の短い黒いトップスに、白い小花柄のネイビーのロングスカート、バッグはライトオレンジのサコッシュ。


 少しだけ気を抜いた感じの飾り気のないオシャレもすごく似合っている。薄く塗った化粧も相俟ってやはり高校生ではなく大学生っぽい印象があって、彼女が同い年ではないと改めて気付かされた。


「私の家、ここからすぐだから」

「あ、うん、分かった。行こう行こう」


 平静を装っているけど、心の中は興奮でいっぱいで、俺は目に映る街路樹やクリーニング屋を、「夕映はいつもこういう景色の中で生活してるんだ」と興味深く見ながら彼女の後をついていった。



「はい、どうぞどうぞ」

「お、お邪魔します」


 案内されたのは、住宅街の中の2階建ての一軒家。綺麗なライトブラウンのドアを開けた彼女に案内されて、おそるおそる中に入る。キッチンの方からお母さんらしき女性の「いらっしゃーい!」という声だけ聞こえた。


 あれ、これよく考えたらどこで勉強するんだ? なんとなくリビングのイメージでいたけどひょっとして——


「私の部屋、2階だから」


 やっぱり! やっぱりそっちなのね!


 鼓動が一気に速くなり喉が詰まってしまって、「へえ、そうなんだ」と一言返すのが精一杯だった。


「葦原君、女子の部屋は初めて?」

「いや、中学のときの彼女の部屋に何回か」

「そっか、でも久しぶりってことね」


 そう返した夕映の声は、なんだか楽しげだった。


「はい、ここだよ」


 夕映は、2階に幾つか部屋があるうちの一番奥のドアをゆっくりと開ける。彼女に続いて、緊張しながら入った。


「わっ……」


 白い壁に明るいウッドカラーの家具で統一された空間に、小さく声が漏れた。


 パステルカラーに溢れている所謂「女の子」イメージの部屋ではないけど、その分、出窓に飾られた花や髪留めをまとめたプラスチックの入れ物が可愛らしく見える。タイトルに哲学や社会学と入った本が並ぶ本棚を見ていると森にいるようなアロマの香りがしてきて、女子の部屋に来たのだということを再確認する。



「私が机で勉強しちゃうと、葦原君がやる場所ないから、机持ってきたわよ。ここで一緒にやりましょ」

「あ、ありがと。手伝うよ」


 壁に立てかけられた背の低い大きなテーブルを、一緒に持って部屋の真ん中に置く。今日のために、別の部屋から用意してくれたのだろう。


 ここで向かい合って勉強? うっわ、いつもの部室の机より距離が近い……っ!


 そこで、部屋をノックする音が響く。入ってきたのは、目元が夕映によく似た、彼女のお母さんだった。


「いらっしゃい葦原君。オレンジジュースでいいかしら? これ、おせんべいね」

「あ、ありがとうございます」


 少し低い声も優しさが籠っていて、どこか夕映と似ている。


 すごい、なんか今日は素敵な日だなあ! これ以上驚くことなんて起こりそうにないなあ!


「夕映は、イカそうめんとビールでいい?」

「うん、ありがと」

 早速驚いてます。


 テーブルの上に置かれたのは、しっかりと冷えて汗をかいている缶ビールと、青い皿に盛られた細長くて茶色いイカそうめんのおつまみ。


「じゃあ夕映、何かあったら1階に来て。葦原君、ゆっくりしていってね」

「ありがとうございます」


 お母さんが出て行って2秒で夕映に声をかける。


「ねえ、ちょっと夕映」

「どうしたの、葦原君?」


 彼女は「肩にゴミでもついてる?」くらいのトーンで訊き返した。


「なんでビール?」

「昨日買ったから」

「そういうことじゃなくて」

 別に間違っちゃいないんだけどさ。


「これからテスト勉強するのにビール飲むの?」

「多少アルコール入った方が捗るタイプだって言ってじゃない。デカルトも言ってるでしょ、『私は飲みながら考え、考えながら飲む』」


「いや、まあそうかもしれないけど……」

「とりあえず、ようこそ我が家へってことで乾杯しましょ」


 勢いよくプシュっと缶を開けた。当たり前のように酒を飲もうとする彼女にも、それを当たり前に用意するお母さんにも動揺しつつ、オレンジの入ったグラスを掲げる。



「乾杯、ようこそ!」

「乾杯、おじゃまします」


 そのまま彼女は缶に口をつけ、ランニング後にスポーツドリンクを飲むような勢いでグッグッと飲んでいく。全体的に違和感がすごくて、あんまりオレンジジュースの味を感じない。


「やっぱり自分の部屋で飲むビールは最高ね。そう思わない?」

「なぜ毎回年齢制限のある同意を求めるんだ」

 思うって言われたらどう返すつもりなのか。「犯罪よ」って掌返すつもりなのか。



「なんか曲かけるわね」


 彼女はスマホを数回タップし、左右2つの穴の開いた、横長の木製スタンドの上部にスマホを置く。途端に、大きな音で曲が流れ始めた。


「え、すごい。スピーカー?」

「そう。電気とか使ってないの。スマホのスピーカー部分から木に開けた穴を通って音が拡大するのね」

「へえ、オシャレだなあ」


 感心しながらも、俺は流れている曲に耳を澄ます。この部屋に溢れている彼女の好きな本や好きな音楽に浸るのが嬉しい。


「あ、グレスタの新曲じゃん。『Flow』だっけ」


 色んな曲がランダムで再生される中、流れてきたのは最近ネットで人気急上昇中の「Gray Star」というアーティストの新曲だった。


「この人達、最近音楽性変わったよな。ずっと怒りとか孤独とか叫ぶようなロックやってたのに、最近は自虐も含んだモノローグみたいな歌とか、歌詞だけで泣けるラブソングとか、そういうのやってるし。『Flow』もそっち系だもんな」

「まあ仕方ないわよね。ロック系はネットだと人気ないっていうし」


 彼女は左を向いて学習机に目を遣る。金曜にも読んでいた「大衆文化としての音楽」という新書が教科書の一番上に積まれていた。


 やりたいものと流行りのものが違うとき、どちらを優先するか。

 バンドの漫画でも見たことのある話だし、小説やゲーム配信の人だって同じような葛藤はあるだろう。アーティストと呼ばれる人にはよくある話なのかもしれない。


「こっちはちょっと前の曲ね」


 木製スピーカーに乗せたまま、夕映はスマホをスワイプし、1年前の曲を流してくれる。


 踊りたくなるベースラインにひずむギター、手数の多いドラムと、ボーカルAsunaのハスキーなシャウト。俺が去年までやっていたアカペラでは絶対に出せないロックサウンド。

 そしてまた、それが今のトレンドでないこともよく分かっていた。



 動画サイトで見かけた「最近の曲の方が好き」という否定的なコメントの数々を思い出していた時、夕映が口を開いた。


「まあでも、流行りに乗るのも正解だと思うけどね」

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