12杯目 梅がこんなに赤いのは

 彼女はブラウスのポケットから、真っ赤なカリカリ梅の写真の載った袋を取り出す。

 それは、さっき部室で食べていたものの余りだった。


「葦原君、どう? ポケットからついお菓子が出てきちゃうの、女子高生って感じでしょ?」

「チョコとか飴でやってくれよ」

 だから梅は対象にはいってないんだよ。


「梅、おいしいわよね。ご飯に合うし、ウーロンハ……ウーロン茶とも合うわ」

 めちゃくちゃギリギリじゃん。もうほとんど言いかけてたじゃん。



「葦原君、別に勉強が嫌いだったとか、勉強できなかった、ってわけじゃないよね?」

「中学まではまあそれなりに、っていうか、まあ、しっかりやればちゃんと点数取れたしね」


 カリッと音を立てて梅をかじりつつ訊いてきた夕映に、味噌汁をすすりながら答える。


 この竹葉学園は超進学校というわけじゃないけど、誰でも入れるような学校でもない。誰もがそれなりの成績を収めていたのだろう。


「ってことは、高校きてから?」

「そう……だな。高校入ってから、模試でも志望校判定が出たり、全国での順位が出たりしてさ。なんか、大学のためにしか勉強してないのかって感じで」


 そういえば学力診断の全国模試があったのも入学してすぐだっけ。


 自分の学力を毎度見せつけられ、志望校を書かされる中で大学選びを迫らせ、勉強する目的がどんどん狭まっていってる気になる。


 こうして「この勉強が何の役に立つんだ。大学のためか」と真正面から考えたことは何度かあるけど、宿題や小テスト、中間テストと追われているうちに掻き消されては、今日のようにふと再び疑問に思ったりもする。



「そっか」


 どこか楽しそうに、夕映はフフッと笑うような息を漏らした。


「先に答え言っておくとね、私もよく分からないの。『なぜ勉強しなければいけないのか』なんて、こんな昔からある問題、私が完璧な答えを出せるはずないしね。でも、受験じゃない『勉強』は面白いって、最近思うようになったのよ。これとかね」


 彼女は、テーブルの真ん中に置いた小袋を指した。


「梅干……?」


 そうよ、という代わりに、彼女はガリッともう一かけ齧った。


「よくそうやって間違われることがあるんだけど、カリカリ梅は日干しはしてないから梅干しとは全く別なのよね。2人とも、どうやってこんな風にカリカリにするか分かる?」


 簾藤と目を合わせ、同時に首を傾げる。確かに、言われてみると想像がつかない。梅干しって柔らかいもんな。


「梅と一緒に炭酸カルシウムの粉末を入れるの。カルシウムだから、きれいに洗った卵の殻や貝殻でもいいらしいけどね。梅にはペクチンっていう糖類が含まれてるんだけど、カルシウムと混ざることでペクチン酸カルシウムになる。そうすると水溶化して柔らかくなることがなくなって、カリカリの食感が残るのよ」

「坂隙さん、詳しいわね……」


 簾藤が目を丸くする。何も見てないでスラスラ言えるの、普通にすごいな。


「ちなみに梅が熟れてないうちに採って作るから、普通に作ると赤くはならないわ。赤シソの汁に漬ければ、真っ赤なカリカリ梅の完成ね」


「へえ、あれ赤い梅を使うんじゃないんだ! 俺全然知らなかったなあ」

「おつまみ好きだからさ。どうやって作ってるんだろうって調べたら化学になっちゃった」


 そう言って彼女は胸元で小さくピースする。急に姿勢を真っ直ぐにしたので、ブラウスについたワインレッドのリボンが驚いたように揺れた。



「勉強する意味の1つはそれかなって思ってる。『好奇心さえあれば、今解明されている仕組みや事実は調べることができる』って分かることは大事だからね。そして、同時にその逆も分かる。ね、簾藤さん?」


「……まだ解明されてない仕組みもある、ってことが分かる?」

「さすがね」


 お見事とばかりに、夕映は両手の下をくっつけ、指先部分だけで拍手をした。


「『分かっていないこと、これから解き明かさなきゃいけないことがある』って知れることで、大学で学びたいことが出来てくるかもしれない。もちろん、みんながその解明のために生きるわけじゃないけどね。でも、私の知り合いで大学に行ってる人の中には、楽しそうに勉強してる人もいるんだ。そういうのが見つかればラッキーだよね」


 微かに、本当に微かに、彼女が寂しそうな顔を見せた。


 知り合い、はひょっとして中学までの友人じゃないだろうか。今年大学2年生、彼女より3学年先を行く彼らは、もう自分の学びたいことを見つけているのかもしれない。


「……って、エラそうに言ったけど、カリカリ梅みたいな趣味の勉強だけしてても受験じゃ役に立たないのも分かってるの。それに、真っ向から何かを研究したい大学生ばっかりじゃないってことも知ってる。じゃあなんで勉強するんだろうって、結局自分なりの理由を見つけるしかないのよ。万人が賛同できるとかじゃなくて、葦原君が納得できる理由」


「俺なりの理由、かあ」

「そう。ちゃんと考えた結果なら、上の大学に行くためでも、良い点とって親から文句言われずにゲームするためでも、なんでもいいと思う。その手段として勉強するってことね。ホントは働かないで遊んでたくても、欲しいものがあればバイトするでしょ。それと一緒だと思う。バイトで身に付けたことが思わぬところで生活に役立つかもしれないってのも、勉強と一緒」


「確かに、そうかもね。自分で決めた理由がないと頑張れないし」


 ウーロン茶を飲みながら話を聞いていた簾藤が相槌を打ちながら頷いた。


 万人に向けた答えはない、それは間違いない。でも、それを単純に「自分で見つけるんだよ」と言い放たずに、梅や友達の例も交えて話すことで、その話に説得力が宿る。彼女は、それをきちんと分かっているようだった。


「大事なのは自分で考えること、そしてそれをアップデートすることよ」

「アップデート……?」


「そうよ、葦原君。一度決めた答えをずっと貫く必要はないと思うの。もちろん、だから適当に決めて良いってわけじゃないんだけどね。でも仮に葦原君が今『勉強する意味』を見つけたとしても、1年後には変わってるかもしれない。その時はそれでいいの。そうやって最新の理由を見つけられるように、考え続けることが必要だから」


 その言葉に、俺は少しだけ肩の力を緩め、Yシャツにシワが寄る。今すぐに確固たるものを見つけなくても良い、ということで緊張が解れた気がした。


「『つねに自分で自分を克服しなければならないもの、私はそれなのだ』ってね」


 ウーロンハイのグラスをぐびっと傾けた後、夕映はいつものように、知らない名言を口にする。簾藤が首を傾げながら口を開いた。


「坂隙さん、それって誰かの言葉なの?」

「近代で一番有名なドイツの哲学者、ニーチェよ。一世紀以上も前から、自分自身と向き合いなさいって言われてるのね」


 彼女の好きな哲学からの引用。簾藤は知らないことに触れた喜びの表れなのか、楽しそうに口をクッと曲げていた。


「もちろん『好きな人と一緒の大学に行く』だって十分な勉強の理由だからね」

「ぶはっ!」


 突然のパスに、俺はプラスチックのコップを顔から離して勢いよくむせる。

 危ねえ、もう少しで霧状にコーラを噴くところだった。


「そ、そんな不純な動機で」

「あら? 結果的にそれで勉強するなら、あれこれ考えて進まないよりいいじゃない?」

「確かにそうかも!」


 同調する簾藤に向けて笑いかける夕映に、胸の鼓動が速くなり、去年優吾とたまたま学園祭を覗きに行った大学を思い出して、キャンパスライフを想像する。


 夕映の話は、未来をどんどんくっきりと見せてくれる気がした。


「さて、残りを食べちゃいましょ」

「俺、ご飯お替りしようか迷うな」

「あら、奇遇ね、葦原君。私も飲み物お替りしようか迷ってるの」

「3杯目!」

「ふふっ、坂隙さん、ウーロン茶すっごく好きなのね!」


 簾藤からお茶好きキャラに認定されながら、夕映はホッケの皮とカリカリ梅を肴にウーロンハイを飲み干した。




 ***




「ううん……」


 家に帰宅した後、2階の自分の部屋で英語の文法問題集とにらめっこしながら、唸り声をあげる。


 この決心がついたら、集中力は今の倍になるだろう。



 夕映が笑っていた顔を思い出す。脳内に書いて覚えていた構文が全部吹っ飛んでしまって、覚悟を決めるように両頬をパンッと叩く。



「よし、いつかね、いつか! いつか訊く!」


 自分に言い聞かせる、独り言の宣言。


 どのあたりの大学を目指してるのか、いつか訊いてみよう。すぐにじゃなくていいと甘やかしたら、幾分気が楽になる。



「はい、おしまい! 英語再開!」



 勉強する理由を見つけて、もう一度構文を指でなぞる。


 テスト勉強が、心なしか、いつもより苦じゃなかった。


 〈第3章 了〉

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