8杯目 自分の価値

 部室が気まずい静寂に包まれる。余計な心配をかけたくなくて、脳内で言葉を探したけど、気の利いた返しが思いつかない。


「いや……大丈夫だよ」


 その返事に、彼女は少しだけ寂しそうに笑う。


「知ってる? 『大丈夫だよ』って、大丈夫じゃない人がよく言う言葉だよ」

「……まいったな」

「私でよければ聞くわよ? 解決はできないだろうけど、話聞くだけならできるからさ」


 そんな風に言われるとかなわない。そして、彼女の優しさに気持ちが安らいでいくのが分かる。ひょっとしたら心のどこかで、俺はこれを誰かに聞いてほしかったのかもしれない。


「部活、アカペラ入ってたんだけど辞めちゃってさ」


 俺はゆっくりと、苦い思い出を話し始めた。



 ■◇■



 高校では、中学までやってなかったことをやろうと思い、2年前に新設されたばかりというアカペラ部を選んだ。


 密かに憧れていたボイスパーカッションは練習してもうまくできなかったけど、何組かのグループを組んで、コーラスをやったり、幾つかの曲ではリードボーカルをやらせてもらったりして、活動は充実していたと思う。


 文化祭でステージにあがって披露したのも、地域のハロウィーンイベントに呼ばれて歌ったりしたのも、全てが初めての体験で楽しかった。




 ただ、そんな楽しい生活も長くは続かなかった。

 3年生が秋で引退し、部員が20名を切ってから、徐々におかしくなっていった。人数が少ないということは、ベース、パーカッション、ハイトーンなど、各担当が減るということ。それでも、人によってやりたい曲の方向性は異なる。その結果起こったのは、内部分裂だった。


 グループ同士のマウント、メンバーの強引な引き抜きとケンカ、思い通りに動かない部員への仲間外れ。あんなに和気藹々あいあいとやっていたはずなのに、11月には争いと陰口が絶えない部活へと様変わりしていた。


 共通の趣味で集まったはずなのに、共通の敵を探して同調することで身を守っていく日々。全員がまとまるはずもなく、公民館の一室を借りて実施予定だったクリスマスコンサートは中止になった。



 そして楽しみにしていたコンサートの中止に文句を言ったことを告げ口され、ついに俺も標的になった。昨日の友は今日の敵。俺に味方すれば、それは反抗の証にもなる。


 次第に孤立していった俺は、同じように苦しんでいた他の1年生と一緒に、半ば追い出されるようにして辞めることになった。何人かの先輩から、新入生が入ってくればきっと変わる、と引き留められたものの、そこまで待つなんてとてもできそうになかった。



 そこからはのんびり過ごしているものの、時折部活で練習してるアカペラを聞いては思い出して、心から膿が出るような気分になる。

 ハーモニーが大事なのに人間関係の調和はてんでばらばらだったあの3ヶ月間は、自分の中で辛く、悲しい記憶として刻まれた。



 ■◇■



「っていうね。それだけなんだよ。つまらない話してごめんな」


 どんな表情を作っていいか分からず、自嘲混じりに苦笑してごまかした。

 向かいで口を挟まずに真剣に聞いていた夕映にも頻繁には視線を合わせられなくて、テーブルクロスの上から4つくっつけた机の境目を探してジッと見つめている。


「あ、これ、もらうな」


 話すことに一生懸命で食べていなかった肴に手を付ける。おしゃぶり昆布は随分塩辛くて、まるで涙みたいな味がした。


 夕映はどんな返事をくれるんだろう。余計な気を遣わせてないといいんだけど。


「……ああいう仲間外れみたいなのってしんどいな。用無しになった、っていうか、俺の価値が無くなったような気分になっちゃってさ」


 沈黙に耐えられなくて、言葉を重ねる。自虐しか出てこなくて、作り笑いも引き攣ってしまった。


 外は日が落ち、紫色に近い空が窓に映っている。蛍光灯に照らされた彼女は、俺とテーブルを交互に見ている。



 やがて、プラスチックのコップを持ち、3分の1ほど入っていた梅酒をグッと一気にあおった。


 もう、リアクションさえ貰えるなら、中身は何でもよかった。「そっかそっか、おつかれ」だけだって、本当に十分だった。



「昆布」


 夕映から発せられた、全く予想していなかった単語に、俺は一瞬自分の耳を疑う。他の人が俺を見たら、きっと目が点になっていることだろう。


「私達が食べてる昆布のほとんどは北海道で採れるんだけど、同じ道内でも場所によって採れる種類が違うし、用途も違うのよ。函館沿岸で採れる昆布っていうのは出汁だしに使うんだけど、北西の羅臼らうすって地方で採れる羅臼昆布はこういうおつまみに使うことが多い、って具合にね」

「さすが、さかな研究部、詳しいな」

「へへ、お酒好きだからね、肴も自然に覚えちゃった」


 乾燥したおしゃぶり昆布を摘まんで、夕映は穏やかに微笑みながら頬張る。結構堅い部分だったのか、パリッと、心地いい音が教室に響いた。



「でね、出汁だしをとった昆布って風味がなくなるじゃない? でも、食物繊維もたっぷりだし、ちょっと料理したらご飯に乗せる塩昆布とか作れるのよ。どう、すごいでしょ」

「へえ、そうなのか」


 話の真意が見えないまま、なんとなく相槌を打つと、夕映は柔和な表情になって、真っ直ぐ俺に視線を合わせた。


「昆布で一番ってくらい大事な出汁がなくなったって、まだおかずになる。葦原君、さっき価値が無くなったみたいって言ってたけど、そんなことないよ。部活の空気とか部員と色々合わなかっただけだと思うから気にしないでいいの」

「ん……」


「でも、もしまた思い出して『自分には何も無い』って感じるようなら、その時はいつでも同じように言ってきて。私がいつでも否定してあげる。例え何も無いように思えたって、価値が無くて当然の物や人なんて、どこにもないから」



 その言葉に、思わず大きく目を見開く。

 こんなことでこんな風になるなんて、しかもクラスの女子の前だから余計に恥ずかしいけど、何回か瞬きをしているうちに、目薬でもさしたのかと思うほどに目は潤んでいく。


 きっと、ずっと、こんな言葉が欲しかった。どっちが悪い、誰が問題だと犯人捜しをするのではなく、ただただ、俺が辛かったことに共感してほしかった。そして、自分が無価値じゃないと、自分の選択が間違ってなかったと、認めてほしかった。


 何度目か目を瞑ったタイミングで慌てて後ろを向いた。危なかった。このままだと両目から水滴が落ちて、頬に綺麗なカーブの跡を残すところだった。



「『あらゆる事物は価値を持っているが、人間は尊厳を有している。人間は決して、目的のための手段にされてはならない』ってね」

「……それ、誰の言葉?」


 震えた声になるのを我慢しながら投げかけた俺の問いに、夕映は右手で前髪を横に払いながら答える。


「カントよ、ドイツの哲学者。葦原君、さっき先輩たちが引き留めてくれたって言ってたけど、葦原君個人を見てくれてたわけじゃないかもしれない。アカペラ部が空中分解しないための手段だったのかも。だから、やっぱり抜けて正解だったと思うよ」

「……ありがとな」


 それは、心からのお礼。酒の肴と哲学で悩み相談。それはきっと彼女にしかできないことだから。



「よし、じゃあもう一杯飲もう。私もいい感じに酔っぱらってきたわ」

「大丈夫かよ」

「葦原君、お酒は酔ってからが本番よ」

「謎の名言を残すな」


 少し頬を赤くした彼女と、涙をこらえて目を赤くした俺で乾杯した。



 ***



「わっ、さすがに暗いわね」

「もう19時だもんな」


 部活を終えて外に出ると、さっきまで紫だったはずの空はすっかり黒に変わり、街灯の少ない町が夜に塗りたくられていた。


 俺は自転車を押し、正門まで彼女と並んで歩く。彼女はさっき駅に向かうのに使ったバス停に行くので、正門を出てすぐお別れだ。


「俺、こっちだから」

「そっか、うん、またね」


 ハンドルの向きを変え、ペダルを踏もうとしたすんでのところで、再び地面に足を置いて振り向く。


「夕映!」

「ん? どした?」


 彼女も振り返り、3歩俺に近づく。月以外の希少な光源である頭上の街灯のおかげで、顔がはっきり見える。外に出て酔いも醒めたのか頬の色も戻っていて、綺麗な肌が白熱灯で更に白く照らされた。


「今日、ホントにありがとな」


 一瞬、何の話だろうかときょとんとした夕映は、やがて理解したのか、口元をフッと緩める。


「こちらこそ、付き合ってくれてありがと。良いお酒だったわ」

「お、おう……」


 その笑顔を目の前にして、うまく返事ができなかった。






 帰り道、自転車をかっとばす。


「いやっほおおおおおおおう!」


 駅ビルに行く前は、「別にまだはっきり恋心を抱いてるとか、そういうのじゃないけどさ」なんて思っていたっけ。


 たった今、訂正します。



 葦原南瀬、どうやら恋心を抱きました。


 坂隙夕映さん相手に、恋に落ちました。



 〈第2章 了〉

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